石ころ

いのちのパン ②(レビ記24章)

 

あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。
主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。(15~16)

 

人が教育によって創造主を知ることは、すべての知識に先立つべきことである。生まれつきのままでは創造主を知ることはなく、神の聖さを知らなければ罪を悟ることはなく、罪を悟らない者には救いもない。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。(箴9:10)

 

イスラエルは創造主が共に居られる民であり、主に従順する律法が与えられた。知らされた民は責任を負い、律法は救い主に導く道しるべとなる。それは人には出来ないことだからである。

 

人間を打ち殺す者は必ず殺されなければならない。
動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。
人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならない。(17~19)

 

創造主をののしった者が殺されたのは、イスラエルの民族を生かすためである。神をののしる者が生きることは、みことばに逆らう罪科が民全体を汚し、神から離れて死をもたらせ、民全体を殺すに至るからである。

しかし異邦人であっても、創造主を知らなければみな死ぬ者である。誰であれキリストの救いを得ていない者は、いのちの主につながっていからである。

 

骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。(20)

 

人に対してさえも犯した罪や与えた損害に対しては、それ相当の罰を受け、損害を贖うことが命じられている。まして命を頂いた主をあなどることが見過ごされることは無い。

神の怒りは、愛する者が作者を知ろうとはせず、関係を求めもせず、滅びゆくことにある。最も悲しむべきことは、創造主を無視するである。

 

どれほど罪から離れ良い行いに明け暮れても、その善行が的外れなら、それは人の賞賛を受けても、神をあなどることである。謙遜を尽くして偶像に熱心に仕えることは、人には美しい生き方と見えるが、造り主なる神には、神を神としない裏切り行為なのである。

 

世に生きていて一度も神を悪く言ったことがない人はいない。人は不都合な事が起こると「なぜ神はこんなことを許すのか、やはり神なんかいないのだ」と言う。それまで全く神に無関心であっても、禍と見えることが降りかかったとき、神を訴え存在を否定するのである。

 

しかし宇宙を造り、恵みの太陽の光も大地を潤す雨にも、季節ごとの実りを育ててくださった、創造主に向かって感謝することはなく、思いつくままに身の回りのものに、的外れな感謝をするのである。

子供が成人して誰、彼に感謝を捧げて敬っていても、養って来た真の親を蔑ろにするなら、親はどれほどに傷つくことであろう。的を射ない感謝とはこういう事なのである。

 

もし、その度に神が人を殺していたら、人類はとっくに滅亡していただろう。
神は人を愛しておられる。それゆえに生ける神であるご自身を、見える形にして人類を生かすことを計画された。そうして、神が送ってくださった救い主が、神のひとり子イエス・キリストである。

 

義であり聖である神には、罪在るものを受け入れることは出来ない。神はどんなことでも出来るが、罪の汚れを受け入れることは出来ないのである。


人はただ、キリストの十字架のあがないによってのみ救われ、聖霊の導きによるみことばによって、創造主なる神を礼拝することが出来るのである。

神は罪を憎まれる。それは死を宣告しなければならないものだからである。義は罪を受け入れず、聖は汚れを受け入れないのだ。

 

 それゆえ人を愛する神は、世に御子を遣わして神の存在を見せられた。イエス・キリストのわざとみことばによって創造主を知らせ、キリストのあがないを信じる義を備え、罪の汚れを十字架のl血潮で洗い聖めて、一方的な救いを与えてくださったのである。

人は誰でも神に逆らって来た罪人である。ただ、キリストを信じることによってのみ、すべての罪をあがなわれて、神に受け入れられ「アバ父」と呼ぶ子とされるのである。

 

 遠い昔の話ですが非常に残念な人を知っています。彼女は絶えず「罪の報酬は死です」と口にしていました。その人は幼いころから教会に行っていたのですが、一番大切なみことば「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」を覚えていなかったのです。


それは教会に通っていても福音を聴いていなかったということです。あるいは御霊の導きによって霊のうちに留まることがなかったのです。

 

老年になったときすっかり地域に取り込まれて、熱心に偶像に仕えるようになっていました。聖書の言葉を知っていても、キリストのあがないを覚えていなかったら、どの宗教も同じだったのでしょう。

 

死の縁でもイエスさまを思い出して悔い改めていることを、彼女のために祈っていたので、いくばくかの救いの望みを持ってはいますが・・。
もっとも深い感謝であるはずの、十字架の確信が抜け落ちているなら、教会に通ってもみことばを知っていても、永遠のいのちにつながる様子は見えなかったのです。

 

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)


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