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石ころ

今、生きているということ


膵臓が悪いようだと言われて検査が続いていた。「膵臓」のことなどほとんど何も知らず、考えたこともなかった。ベットで医学書を読み、その予想される病名を悟った時、子供のためにでもなく、自分のためにでもなく、夫のためにでもなく、ただ、ただ、この世の普通の営みに涙が出た。

病院の屋上から見た朝靄の町、新聞配達や牛乳屋さんから始まる一日。生と死をその景色の中に見ていた。生はその中にあって動いている。死とはそこから永遠に取り去られるということ。私は死んで取り去られても、夜は明け人が動き出すことに何も変わりはない。

私はクリスチャンとして、イエス様に絶対の信頼を置いている。私は神様の元に帰り、子供達は、神様が召された私の分まで責任を持って下さるだろうと考えた。主人のことも・・・。そのことを信じて居るけれど、この家族の中から私が取り去られると言う実感がリアルに迫ってきた。

膵臓ガンなら余命7ヶ月、すでに経過している月日を差し引くと、残りの日々はどれくらいなのかと数えて、もう正月の料理を作ることはないのか・・などと、それらの過ぎた日々を惜しんだ。

主治医からERCP検査の説明をされた。カメラを飲んで膵臓の検査をすること。内臓に対する負担が大きく、傷を受けるので検査後三日間は、24時間の抗生物質の点滴を受ける必要があること。

説明を受けて、心から神様に願ったことは、「みこころに叶うなら、癒してください。検査を逃れさせてください。」ということだった。抗生物質に弱い私は、この検査を受けたら家に戻れなくなるのじゃないかと、残された時間が少ないなら私には貴重な時間である。もう一度肉じゃがを作ってあげたい。お寿司を巻いてあげたい。少しでも、普通の時間を共に過ごしたかった。


神様は助けを与えてくださって、かなり強引ではあったが、検査を断って退院することが出来た。退院してからの私は肥えきて、膵臓ガンを恐れるような症状は何もなくなった。

あの16年前の経験は、ともすれば「御国に行くのが一番・・」などと、後ろ向きな考え方をする事への、神様の「喝」だったのだと思う。今与えられている時間は、後日取り返しの付かない時間であったことに、気づくことになると教えてくださった。

誰も自分の終わりが何時なのか知らない。完全にこの世の営みから切り離され、取り去られることにはクリスチャンであっても同じこと、今をどのように過ごすのか、主は今、私に何を求めて居られるのだろう。


昨日、以前礼拝を共にしていたM氏が召されたことを聞いた。仲が良かった奥様の姿を思って心が痛んだ。イエス様もラザロの死に涙を流された。私たちの悲しみを知るイエス様が、ご遺族を慰めてくださいますように。

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コメント一覧

ムベ
デ某さんありがとうございます。

この詩がとても良くわかります。ある日突然生と死が均等な現実として目の前に示された時、もっと自分自身のことで一杯いっぱいになるのかと思っていたのですが、意外なことに「生きる」ということがどういうことなのかを、鳥瞰していることは意外でした。

すべての命の平凡な営みが、ものすごく大きなインパクトを持って迫って来るのです。そのことに涙が止まりませんでした。
自分自身のこと、学生である二人の息子のことで一杯なはずですが、何よりも命そのものが愛おしくなったのです。
与えられている命の時間は本当に貴重です。でも、普通に生きていますが・・ふふふ
デ某
谷川俊太郎さんの詩「生きる」を思いました。

生きているということ いま生きているということ
それはのどがかわくということ 木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと生きているということ

いま生きているということ
それはミニスカート それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス それはピカソ
それはアルプス すべての美しいものに出会うということ
そしてかくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ いま生きているということ 
泣けるということ 笑えるということ
怒れるということ 自由ということ

生きているということ いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ いま生きてるということ
鳥ははばたくということ 海はとどろくということ
かたつむりははうということ 人は愛するということ
あなたの手のぬくみ 
いのちということ


そして もう一点!
高見順詩集「死の淵より」…「青春の健在」を思いました。

電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝の光がふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の朝のラッシュアワー
ほかのホームも ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院に入るのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかつてのわたしのように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
わたしはこの川崎のコロムビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年たちよ 君らはかつてのわたしだ
わたしの青春そのままの若者たちよ
わたしの青春がいまホームにあふれているのだ
わたしは君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
若い労働者たちよ さようなら
君たちともう二度と会えないたぢろう
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ 
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら もう発車だ 死へともう出発だ
さようなら 青春よ 
青春はいつも元気だ 
さようなら 私の青春よ
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