場違いな所に置かれるほど居心地の悪いものはない。私が王侯貴族の世界に置かれ、そこにしか住む所がないとなることは、たとえどんなに煌びやかな美しい世界であろうと苦痛でしかない。
人が神と住む、それこそ場違いの極みではないか・・。
たとえ、罪を赦されていることを知っていても、ほんとうにそこに安息することができるとはとうてい思えない。
罪の記憶を持ちつつ、真実の主、影のない光の主と共に四六時中居て、リラックス出来るなんて考えられない。それは恐ろしくさえある。
そんな天国など怖くて行けない・・。
しかし・・思えば、イエスさまと共に生きるようになって、イエスさまに出会う前の生き方を責められたことは一度もなかった。
それはイエスさまを救い主と信じ受け入れた時、イエスさまの記憶からも、私の記憶からも、罪からくる記憶を拭い去ってくださったからだとしか思えない。
いや、私に記憶はある。けれどもそれは主によって清められ、完全に赦されて、幾重ものみことばの中に封印されている。罪によって病んだ痕跡も、過去の恨みも憎しみも、悲しみも理不尽も・・。
だから、私は今もこれほどに安息し、祈ること、願い求めることができるのだろう・・。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)
神様が忘れてくださるのだから、私たちにも忘れさせてくださる。
それは新しくされた保証であって、光の中に住むための備えなのだから・・。
今、再臨のこと、御国の住まいのことをリアルに思い描くことを求めている。それは願わなければ、決して人の思いとはならないだろう・・。
それこそゴールなのだから、ゴールが何処かわからないような走り方にならないために・・。今、それは遠い先のことではないように思うから・・。
明日は医大へ主人の診察のために行く。
「癌が消えたとはまだ信じられないので、3ヶ月後にもう一度診せてください。」という医師の要望によって、二つの科の診察とCT検査のために計3日通うことになる。
主人はこの暑さにもへっちゃらで非常に元気。通院していた頃を懐かしんで、明日のこともまんざら嫌でもないらしい様子・・なんだか変なの・・
まあ、久しぶりに一緒に出かけて、主が何をなさるのか・・ちょっぴりドキドキしながら見せて頂こう。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~4)
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