あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(詩編30:11~12)
不思議が行われたとき、キリスト者なら誰でも主なる神ご自身を恐れ崇めるはずである。
しかし、現実には人を見てしまっている。
人の信仰だとか・・、祈りによるとか・・そんなふうに微妙にすり替えられてしまうことがある。
そうやって、神様のわざがサタンに盗み取られてしまう。
使徒がそのような言葉を聞いたなら、衣を裂き塵をかぶって否定しただろうけれど、今はそれさえ出来ず、言葉を失って絶望する・・。
そうして、苦い後悔が檻のように残る。そんな澱が証の度に積もり続ける。
すべての出来事を通して、ただ、共に主を崇めたいだけであってもすれ違ったままである。
いつも神様の救いは、ひとつのことを明らかにしている。それは、「何の資格もない者が受けた」と言うこと。
神様はそれを世に知らせるために、明らかに資格のない者を用いなさる。当然ながら、誰よりも当人がそれを一番よく知っているのだけれど・・。
もっとも、百人隊長であってもその良い行いによって、イエスさまを動かす資格になどにはならないのであり、そんな風な考えはイエスさまを貶めるものなのだけれど・・。それはみこころとは真逆なものだから・・。
主の憐れみはいつだって一方的で、人はこれを受けるのみである。
証は時に残酷でさえある。
神様の不思議は、何時誰に成るのかそれはみこころに拠ることであって、それを「時が良くても、悪くても」語ると言うことは、痛んでいる人を傷つけることがある。
それはどれほど鈍感な行為であろうか・・。
しかし、それが神様の意志に拠ることであれば、憐れみを受けた者が、時や相手を選択することはできない。誰が、人の信仰の中身を知ることが出来るだろう。
まず、互いに主に服従するところからすべては始まるのだから・・。
イエスさまは「わたしは、地に平和をもたらすために来たのではない。」と言われる。イエスさまの平和は、信じて、新しくされた者の霊の内に成ることであって、古い魂にあっては、激しい痛みをともなうこともある。
それを知っていながら、魂に拒絶されることばを語ることは、主の憐れみを受けた者の十字架なのかも知れない・・
十字架は救いをもたらせるものと信じて、従順するために負って行くべきなのだろう・・。
主は生きておられると告白しつつ・・。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。(使徒18:9~10)
コメント一覧
ムベ
ダイエット
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事