石ころ

モーセの息子


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「あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。」(出エジプト3:18)

 神の命令を受けたときモーセは自分を見て固辞した。「口下手な私には、とてもそんな責任は持てません。」というわけだろう。

基本的に神様のご計画を、人が成し遂げられると思う方が間違っている。それは自分に対する信仰であって、神様に対する信仰ではないのだから。
信仰は、「あなたならこのような私にでも、そのことを成し遂げさせる事がお出来になります。」と告白するはずである。


 旧約を読んでいて、モーセの息子の記述が殆ど無い事に疑問を持った。甥であるアロンの息子達の事は多くの記述があり、良いにしても悪いにしても、主は彼らを最大限に用いておられる。
たとえ罰せられる事があっても、神に全く無視されることよりは、はるかに幸いだと私は思うから、この状態はなんだろうと・・思い巡らせていた。

主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。
それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。
そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた・・(出エジプト4:11~14)


 神のご計画に対して人が責任をもつ事などできないのだから、モーセは「アーメン」と言うべきだったのだ。みこころを行うのに自分を省みて判断する事は愚かだ。
主に従うには無責任であるべきで、ただ、主に信頼するほかないのだと思っている。

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11:36)
だから誰であっても主が命じられた事なら、従順する限り、それを成し遂げることができるはずである。
大切な事は主が選ばれたという事実であり、そこにある神のご意志を重んじるよりほかには、祝福を受けるための選択肢はないと私は思っている。

信仰はとてもシンプルで、「はい」か「いいえ」だって・・。
主に信頼するなら、自身の弱さや愚かさを見続ける中にも、その縛りを乗り越える道に導かれ、どこかに主の証が現わされ、人ではなく御名が崇められるのだろうと・・。


 モーセは素晴らしい働きをした。イスラエルの叛逆の民を率いて40年、耐えに耐えて彼らを神様に取りなし民族を守って来た。
だからこそ、そのようなモーセだからこそ、彼の初めの一歩、そのボタンの掛け違いが、神には、怒りが燃え上がるほどに残念なことであったのだと思う・・。

主の残念は、モーセに千年に渡る祝福が与えられなかった事なのではないか・・。
彼の不信仰によって主の祝福を彼の子孫に与える事ができなくなり、それはアロンに与えられてしまった。

神様は用いる時に見ずに信じろとは言われない。私たちが塵に過ぎない事をご存じだから・・。
命じられる時はご自身のわざを見せ、信頼に足りることを知らせてくださる。神様のわざを見た上で、自分自身に返って判断する事は愚かなことだ。

それでもなを自身を惜しむ事によって尻込みしてしまうときに、主の怒りは燃え上がる。それは、近しく引き寄せてくださる神様の愛に対する拒絶だから・・。

一つの不信仰が神様の怒りを生み、後にどれほどの祝福を奪う事になって行くかを考えるとそれは恐ろしいことだ。
聖書には子孫に神の怒りが現れる記述が多くある。「親の不信仰が子に祟る」ことは事実なのだ。
それは何よりも、祝福したいと願っておられる神様の悲しみだと思う。

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