神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」(15)
神が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とご自身を名乗られることは、無限の存在である方が被造物である人を選び、彼らの神と呼ばれることを「良し」とされ、彼らの責任を取られることであり、愛と慈しみによることである。
しかし彼ら選びの民には、後に偶像礼拝者となって滅ぼされた者が多数いる。さらには神のキリストを否んで十字架に掛けたのである。
それでも、「永遠にわたしの名」といわれた「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であることは決して変わらないのだ。
異邦人であった私たちは、キリストのあがないによって神に繋がれ、今は、神の選びの民と一つのキリストのからだとされて、同じ神の愛、慈しみ、恵みの中に在る。
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、(エペソ2:14)
二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(16)
確かに神はすべての人の造り主であり、すべてのいのちを創造され、支配する権威をもっておられるお方である。
いま神は、キリストのあがないを信じる者を神の宮として、そのうちに住んでいてくださる。このようなことが可能なのは、完璧なキリストのあがないに拠り、その義に生かされている者だからである。
キリストの血によって「神の子」とされたキリスト者も、その弱さや足りなさの中で、良いことをしようとし、みこころを行おうとしても御名を損なう者である。
しかし、神は誰によっても汚されることのない御方であり、誰も貶めることのできない存在ゆえに、たまわった「神の子」という立場に平安があるのだ。
救われてキリスト者とされた後も、世ではキリストを知らない人々と共に働き、時に泣いたり笑ったりしつつ、もろもろを共有し共感しながら生きており、長い年月を共に過ごす地に在っては、折々の助けを受けて生きている。
それゆえ私は信仰の初めには、近所から伝道をすることを主に願って、家庭集会を続けたり町中にトラクト配布などをしていた。
今はブログもあるのでそのような方法は取らないけれど、みことばに働かれる神の時を用意したかったのであり、キリスト者の人生を通して導かれる、生ける神を知らせたかったのである。
神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:19)