神はモーセにこれから行うことを示し、語るべき言葉を教えられた。神は一切の言葉を明確に教えられた。神の言葉には力があり、一言一句違うことなく成ることを知っているなら、喜んで従うことができる。
イスラエルの民の反応や、王の態度まで事を成す前からご存じであり、ご自身の備えをモーセに教えて、エジプト脱出までを共に働かれることを告げられた。
行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。(16)
神のご計画はアブラハムとの約束の成就にあり、彼らを顧みてエジプトの苦難から、今導き出されるのである。
人間の約束は関係の変化により、状況により、また力の有無によって変ってしまうが、神の約束は永遠に変わることが無い。
それは神にはその力があり、約束の初めから私たちが塵に過ぎないことをご存じで、人の如何には拠らず一方的な約束だからである。
だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』(17)
神が彼に約束してくださったことは、乳と蜜の流れる豊かな地の備えであった。
キリスト者は聖書を通して神を知っているゆえに、苦しみの中でも、必ず顧みてくださるという望がある。それは、聖書から神のご真実を経験してのことであり、キリスト者はみことばに拠って生きる者だからである。
しかし、その地には多くの先住民がいる。その人々によって住む環境は出来ているが、唯一創造主なる神だけを礼拝して生きる彼らには、偶像から戦い取って行く地でもある。
良い地が彼らの平安なのではなく、神が共にいてくださることが平安なのである。
彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』(18)
イスラエルの民がモーセを受け入れるのは神の備えによることである。モーセは神が教えてくださった言葉を、そのまま語ることが成すべきことであり、結果は神のうちにある。
私たちが神のことばを伝える時、言葉に世への気遣いを混ぜ込むなら、みことばを汚すことになる。みことばを語り伝える者は、自分を無にする死を経て、聞いたままに純粋なみことばを語るのである。
しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。(19)
それはモーセの責任ではない、ということである。神が命じておられることを行って成果が得られなくても、そのことを叱られたことは一度もない。それゆえ、1タラントを埋めることなく用いることが出来るのだ。
わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。(20)
神は、モーセに事がすぐには成就しないことを予め知らせ、神が共に働かれることによって完成することを伝えられた。それによってモーセは事を行う前から、すべてを承知して行動できたのである。神はモーセに予め忍耐と希望を備えられた。
ご計画は必ず成る。それは私たちの熱心や言葉遣いによることではなく、神の熱心によることであるゆえに、語り伝えた言葉に安息することが出来るのだ。
どうしても必要なことは、みことばを信じて踏み出す勇気であり、聖書は繰り返し「恐れるな」と言う。いまキリスト者には、聖霊がすべての必要を満たしてくださっている。
わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。
女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」(21~23)
ただ追われて逃げ出すのではなく、エジプトで奴隷として奪われ続けた分の、報酬を得て出て行くようにと言われた。
確かに、神は世で失われた年月をあがなって下さる。臆することなく求めて子らに与える時、子らが神を喜んで捧げる捧げものとなる。