イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

104.ダビデ王の墓

2006年10月31日 | Weblog
 【写真:ダビデ王の石棺に、伏して祈る女性】 上に少し遺品が見える。 カバーは、前回はブルーだった。


「これから行く所は、今朝オリブ山からご覧いただいた、宇宙ロケットのような建物、眠れるマリヤの教会と言います。その南側の小さな部屋にですね、ダビデの墓と言われる石棺がありますので、これからご案内します」

 バスから降りて、見覚えのある坂道を少し行きますと、左手に小さな入り口があり、そこを通ってまた少し歩くとその墓がありました。もちろん建物で覆っています。再び説明を聞きます。

「1948年から1967年までの19年間、ユダヤ人は嘆きの壁に近づくことができませんでした。その間はここが、ユダヤ人にとっては最大の巡礼地でした。ここは、帽子をつけないと中に入れませんので、気をつけてください。忘れた人は中で借りてください。紙で作った、貸し出し用の帽子がありますから」

 洞窟のような場所に、静かに横たわるダビデ王の石棺。ビロードのカバーが掛けられており、中央にダビデの星が金色に光っています。上には、トーラー(モーセ五書)など、遺品が飾られていて、いかにも王様らしい威厳がありました。
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103.カヤパ官邸の跡に建つ鶏鳴教会

2006年10月30日 | Weblog
 【写真:カヤパ官邸の跡に建つ鶏鳴教会の裏】(石段の下から撮影)
聖書の世界(ミルトス社)より


 あのペテロでさえ、拷問に苦しむイエスを見て、3度も否定したのです。そして鶏が鳴いた後、イエスが振り向いてペテロを見つめられたと書いてあります。苦しみに満ちたお顔で、じっと自分を見つめるイエス、この時のペテロの気持ちは・・・。そして外へ出て激しく泣いたペテロ・・・・。
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102.イエスが歩かれた石段

2006年10月29日 | Weblog
 【写真:鶏鳴教会裏の石段】
 この向こうにオリブ山が見える
 

 大祭司カヤパ邸宅の跡に建っているこの教会は、松林に囲まれていました。ペテロがイエスの言葉どおり、3度主を否定したと言われるあの場所です。(ルカ22:54~62)
 教会の中には、イエスが一昼夜、宙吊りにされたという筒型の穴を通して、地下に岩の牢獄がありました。それを穴を通して上から覗いたり、牢獄に下りて下から見あげたりしながら、大変なショックを受けました。
「聖書に、そんな惨い(むごい)こと書いてなかったじゃない。こんなひどいことを!」
 心にずしりと重みを感じ、目を潤ませながら建物の裏に出ますと、発掘された石段があり、その向こうには、今朝上ったオリブ山が見えます。

「ええとですね、イエス・キリストが最後の晩餐を終えた後、この道を通ってゲッセマネの園に行きました。そしてそこで、できることでしたら、この杯をとり退けてくださいと祈った後、捕らえられて、またこの道を引きずられてきましてですね、先ほど見た牢獄に留置されたわけです。
 そして翌日、総督ポンテオ・ピラトスの法廷へと連行されたわけですが、この道は2千年前のものと立証されましたので、みなさんどうぞ、これはイエス・キリストが実際歩かれた、その道と思って結構です」

 背筋がゾクゾクッとして、涙腺が刺激されます。もうたまりません。自分に迫っている大イベントの〈時〉を知りながら、イエスはどのような気持ちで、この石段を歩かれたのでしょう。私たちの罪を赦すために、私たちの至らなさを赦すために、血の汗がしたたり落ちるほど苦しまれたイエス・・・。

 その苦難の生涯とは裏はらに、建物の外見は美しく静かでした。外壁に描かれた、天国の鍵を授けるイエスの姿、美しいが故に切なく、優しいが故にさらに切なく・・・・。2千年前の現実に目覚め、イエスに対する自分の信仰が問われる数分でした。
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101.黄金のドーム

2006年10月28日 | Weblog
 【写真:天井から見た黄金のドームの中】
〈岩の回りがぐるりと広い通路になっていて、赤いじゅうたんが敷かれていた。そこが祈りの場であり、またこの岩の下が洞穴になっている〉


 エルアクサ寺院を出て、同じ敷地内にある黄金のドームに入りますが、ここでも靴を脱ぎ、手荷物を置いていかなければなりません。皆さんを送り出した後、私はここでも番をしながら、昨年のガイド峯崎さんの説明を思い出していました。

「ここはエルサレムの中心、あるいは、世界のヘソとも言われている黄金のドーム、正式には岩のドームと言います。イスラム教では、この岩からですね、マホメットが天使を従えて、馬に乗って昇天したと伝えています。今でも岩の上に、マホメットの足跡、天使ガブリエルの手の跡と言われるものが、残っているんです」

「旧約聖約によりますと、ここはアブラハムが、イサクを捧げようとしたモリヤの丘であり、ソロモンの神殿があった場所でもありますね。またこの岩に、魂の井戸と呼ばれる洞穴がありますが、そこでアブラハム、ダビデ、ソロモン、マホメットが祈ったであろうと伝えられています。後でどうぞ、下りて行ってご覧ください」

「それからですね、ちょっと上のあの青い所にですね、ず~っとアラビア文字で何か書いてありますが、あれはですね、クリスチャンの方には申し訳ないんですけど、キリスト教に対する呪いの言葉を書き連ねてあるんだそうです」

 そんなことを思い出しているうちに、皆さんが戻ってきました。どの方もその表情にはアブラハムとサラのような雰囲気がただよっています。倉田さんの提案で、ドームをバックに記念撮影をした後、別の道を通って再び嘆きの壁の前に出た時は、祭りが盛り上がっていて、何ともいえない独特な歌声が響き渡っていました。
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100.銀色のドーム・エルアクサ寺院

2006年10月27日 | Weblog
【写真:オリブ山から見た金と銀のドーム】

 嘆きの壁を左手に眺めながら、坂を上って神域に入ります。ここでもまた手荷物の検査がありました。デーンと迫る黄金の岩のドーム、あそこが、かつてアブラハムがイサクを捧げた場所であり、ソロモン神殿の跡地だと聞いて、メマイがするほど感動したものです。

 ここで私たちは最初に、銀のドームを見学することになりました。倉田さんから注意を受けます。
「ここはですね、靴を脱がなければ中に入れません。また、荷物は全部ここに置いて行ってください。カメラもビデオも、一切持ち込むことが出来ませんので・・・。本来ならば、添乗員の泉さんが荷物の番をして、僕が中で説明するのですが、今回ハプニングがありましたので、僕がここで番をしますから、みなさん、どうぞ中を見てきてください」

 私は3回目だからいいとしても、初めての人には、やはり説明があった方がいいと思い、私が番をすることにしました。それにしても、シナイ山に置いてきた小田さん一家が気になります。元気になったでしょうか。

 さて、昨年の記憶からすれば、この銀のドームの中は赤いジュータンが敷きつめられ、ガランとしていました。中央にはイスラム教独特の、祈りの時を告げる大きな柱時計があって、ここは男性の祈りの場だと教わりました。
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99.嘆きの壁

2006年10月26日 | Weblog
【写真:ドームと嘆きの壁】外国の本より


 やがて、嘆きの壁の入り口、糞門に到着。バスを降りて少し歩き、手荷物の検査を受けて中へ入ります。そこから更に歩いて、ようやく嘆きの壁に着きますと、シムハット・トーラーの日で、カメラもビデオも禁止されました。エライものを見てしまったという感動と、それを録画できない残念な気持ちが交錯して、何ともやりきれない数分でした。倉田さんが言います。

「今日はお祭りなんで、ちょっと嘆きの壁には近寄れませんが、ここがユダヤ教徒にとっては最も大切な場所であり、また最も神聖な場所となっています。昔、バビロン捕囚から帰還した人たちが建てて、ヘロデ大王が改修した神殿が、紀元70年、ローマ軍によって崩壊させられました。その時に残ったのが神殿を囲んでいた壁の一部で、現在、嘆きの壁と言われている、この西の壁です。
 そしてその後、ユダヤ人は世界各地に離散して行ったわけですが、毎年この壁に来ては、泣きながらメシヤの来臨と神殿の再建を祈り続けていると言われています。また朝ごとに、壁が夜露に濡れて泣いているようにも見えるので、嘆きの壁と呼ばれるようになりました」

「高さはどれくらいあるんですか」
「18m、あるいは21mとも言われています。下から7番目までの大きな石が第2神殿時代のもので、その上の4段がローマ時代に付け足された部分ですね。さらにその上にあるのが、マムルーク・トルコ時代の石だそうです。地下にはまだ、第2神殿時代の大きな石が17段、あるいは19段埋まっていると言われています」

「ずいぶん大きな石ですが、あれがまだ17段も埋まっているんですか」
「そうです。大体21mですね。・・・・1948年のイスラエル独立戦争で、この壁はヨルダン領になりまして、それから19年間にわたって、ユダヤ人がこの壁に近づくことは許されませんでした。しかし、1967年6月7日、イスラエル軍の手で再びユダヤ人のもとに返ったわけです」

「今、あれは何をしているんですか」
「シムハット・トーラーと言ってですね、ユダヤ教徒は毎週安息日に、シナゴークの礼拝でトーラー(モーセ五書)を朗読するんですが、仮庵の祭りの翌日に、読み終えたことをお祝いする祭りなんです。彼らは来週からまた、創世記、出エジプトと読み始めて、1年で終えるようにするわけです。・・・・・それでは参りましょう」
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98.もう一度ブレイク

2006年10月25日 | Weblog
 【画像:パレスチナを奉献するオルソン・ハイド】

 1994年8月号の聖徒の道、裏表紙に掲載されていた絵です。クラーク・ケリー・ブライン画とあります。今から165年前の10月、オルソン・ハイドがイスラエル集合のため、パレスチナを奉献したと。(前の記事を参照)
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97.ちょっとブレイク

2006年10月25日 | Weblog
【写真:国立公園の石碑】

 4度目の旅では、オリブ山にある国立公園を案内させていただきました。そこの入り口には、12使徒だったオルソン・ハイドが、イスラエル集合のために奉献した石碑がありました。彼の残した記録を紹介します。

「(1841年)10月24日、日曜日の早朝、日の光がさし始めるしばらく前に起床し、開門と同時に町を出た。ケデロン川を横切り、オリブ山に登った。そこで、厳粛な静けさのうちに、永遠の主に(奉献の)祈りを捧げた」(教会歴史4:456)

 このことは、もちろんガイド(名前が思い出せない)さんも知らないことでした。彼はただ、イスラエルの有名な公園ということで説明しておられましたので、池永さんが証拠となる文献を渡していたのを記憶しています。
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96.エルサレムのモルモン大学

2006年10月24日 | Weblog
【画像:エルサレムのモルモン大学BYU】 
最上階がコンサート会場になっていて、アーチ型のガラス張り。エルサレムの全貌が180度見渡せるようになっており、滞在する会員はここで聖餐を受けます。


 「まもなくですね、モルモン大学が見えてきます。実は、あの学校が建つまでには、血を見る争いがありましてね、大変だったそうですよ。何しろ、あの辺はアラブ人地区ですからね。そしてとうとう、モルモニズムとは一体どういう教えなのかと、イスラエルの議会にまでかけられたそうです。
 それで、伝道活動は一切しないという約束のもとに、ようやく建った学校なんですよ。今日は残念ながらお休みでした。明日、時間があればまたご案内しましょう。あ、見えてきました。変わった建物ですけど、あれがモルモン大学です」

 説明をしながら、少し遠回りをしてくださったのでしょうか。見たいという私たちの気持ちを受けて、スケジュール外の時間を取ってくださったことに感謝しました。4度目の旅の時は、とうとうここで聖餐を受けることができました。

 さて、木々の間に見え隠れする建物を、飛ばして走るバスの中からシャッターを押し続け、変わった屋根の白い建物に目が吸いつけられました。昨年の記憶によれば、この画像には見えませんが、道路の反対側に要塞のような建物があり、それは確かヘブライ大学だったと記憶しています。

 このスコープス山の山頂に、道路を挟んで建つ2つの大学、ここにもまた東半球と西半球の真実が、旗を掲げていると考えるのは私の妄想でしょうか。


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95.オリブ山から 2

2006年10月23日 | Weblog
 【写真:オリブ山から下に見える教会】

「今度はですね、すぐ前に玉ねぎの形をした建物がありますが、あれはマグダラのマリアの教会、その一段上の手前の建物が、主の涙の教会といいまして、変わった屋根をしていますが、涙をかたどって作られたと言われています」
「ふ~ん」
「〈ああ、エルサレムよ、エルサレムよ、めんどりがその翼の下に雛を集めるように、幾度おまえたちを集めようとしたことか〉とイエスが嘆いて、涙を流したのを記念した教会です」(マタイ23:37、教義と聖約43:24参照)

「ゲッセマネの園はどの辺にありますか」
「ええとですね、マグダラのマリアの教会の近くなんですが、ここからは木の陰になって見えませんね。明日、ご案内させていただきます。それではですね、写真を撮りましたら、一旦バスに戻ってください」
 ワンダラマンには目もくれず、言われた通りにします。今見た景色のポスターの注文を車内で取って、運転手のダビデさんがまとめて購入してくれました。彼はアラビア語も話しますから、ケンカにならないようにどの人からも平等に買って来るとのことでした。お金もダビデさんが立て替えて・・・・。
 ここでも主の愛をたっぷりといただいて、混乱を避けられたことに感謝しました。良い羊飼いの機転に再び主の言葉を思い出します。

・わが家は秩序の家にして、混乱の家にあらず。(教義と聖約132:8)

 確かにそうでした。今日まで10日足らずの日程でしたが、泉さんと倉田さんを中心に、信仰と希望と愛に満ち、思いやりと喜びの一家族として貴重な日々を過ごしてきました。これも単なる偶然ではないと思います。心から主を求めてやまない人々に対する、主、ご自身の導きと哀れみに違いありません。
 これほどまでに、主の愛と導きを得られる清い人たちが、私たちのグループに参加なさったこと、そしてその恩恵にあずからせていただいていることに気づいた時、どの人もみな、イエス様に思えて仕方がありませんでした。
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94.オリブ山から 1

2006年10月23日 | Weblog
 【写真:オリブ山から見たエルサレム】

 10月19日(月) 5時10分起床。もったいなくて寝ていられません。3階の部屋から、静かなエルサレムの街を撮ります。食事を早めにすませ、そのまま開店前の売店を数件のぞいて、ガラス越しの下見をしました。金や銀の高価なメズーザーが所狭しと並んで、いかにもエルサレムでした。シナイ山に残してきた小田家族のことが気になりますが、今頃はより一層、家族の絆が強まっているのかも知れません。ボチボチ私たちは見学開始の時間です。
「ボケルトーヴ(お早うございます」
「ボケルトーヴ」

 ダビデさんに挨拶してバスに乗り込み、オリブ山へスタートしました。きれいに整備された見晴らし台まで一気にバスで上がり、そこからエルサレムを眺めるのです。ふと、リーハイはどの辺に住んでいたのかなと、思いをめぐらせました。(1ニーファイ1:4参照)

 毎回、降りる前に注意を受けます。
「ここはですね、絵はがきなどを売るワンダラマンが群がってきますが、相手にしないでください。一人を三人で囲むようにして、お財布を出したとたん、スリにやられますから、絶対相手にしないでください。いいですね」

 念を押されて下車し、エルサレムを眺めながら説明に耳を傾けます。
「まず、金色に光っている丸い屋根の建物が、黄金のドームといいます。正式には岩のドームですね。それから左の方に灰色の小さいドームがありますね。あれはエレアクサ寺院といいます。わかりますか」
「はい」
「それから、ずーっと左の奥の方に、宇宙ロケットのような建物が見えませんか」
「はい、見えます、見えます」
「あれは、眠れるマリアの教会ですが、あの辺りがシオンの丘と言いまして、最後の晩餐の部屋とか、ダビデの墓とかがある所です。それから、岩のドームの向こうに高いビルが建っていますね。そのちょっと手前に、小さな茶色のドームが見えませんか」
「ああ、あれね」
「あれが、聖墳墓教会といって、ゴルゴダの丘ですね」
「嘆きの壁はどの辺でしょうか」
「はい、もう一回岩のドームを見てください。そのまま目を左へ移動しますと、木が植えられていますが、その終りの部分ですね。そこの城壁です。
 ドームを中心にしますと、皆さんが立っておられるオリブ山は東、嘆きの壁は西になります。ですから正式には西の壁といいます」
 皆さん、一生懸命メモしておられます。つづく。
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93.エラの谷

2006年10月22日 | Weblog
【写真:エラの谷の川床で石と戯れる仲間】 

 倉田さんが嬉しいことを言ってくださいました。
「皆さん、いかがでしょうか。夕食が30分ぐらい遅れてもよろしければ、エラの谷にご案内したいと思いますが・・・・。少年ダビデが、石を持ってゴリアテを打ち倒した所ですが、どうしましょうか」
みな目の色を変えて言います。
「行きます。行きます」

 というわけで途中から道を変えますと、右手一面にあまり年数の経っていない低い木が森を成しています。日本から見たら別にどうってことない小さなものですが、荒野を嫌というほど走り続けてきた後だけに、この緑がやけに懐かしいのでした。

「イスラエルではね、街をつくる前に、まず木を植えるんですよ。木が育つかどうかを見て、それから人が住むんですね」
「なるほど、知恵ですな」
と感心している間に、着いたようです。

「・・・いよいよ着きました。ここはベツレヘムから西へ24キロの地点にあります。真ん中に見えるのはキブツですね。それから、あの高い所に見えるのは、イスラエル通信省のパラボラアンテナです。そしてすぐ下に川床が見えますね」
 狭いながら、川床になめらかな白い石がごろごろ見えます。

・ダビデは・・・・谷間からなめらかな石5個を選びとって、自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテ人に近づいた(サム1740)
・ダビデは手を袋に入れて、その中から、一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテ人の額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。(サム17:49)

 バスを降りて、記念に小石を5個探します。ビデオ係りの私は、ようやく2個探し、倉田さんの手から3個をいただいて5個にしました。この石がこれからの人生の盾となり、守りとなりますように祈りながら、ほとんど暮れかかった日の光に別れを告げ、エルサレムのラマダ・ルネッサンスホテルに着いたのは、日没後しばらくしてからでした。
「トダ ラバ(どうもありがとう)」
 だんだんヘブライ語も使いなれてきて、すんなり言えるようになった私たち。一人一人、ダビデさんに今日一日の感謝を言ってバスを降り、ロビーで休憩しました。ここはユダヤ系のホテルです。
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92.もう一つのアブラハムの井戸

2006年10月21日 | Weblog
【写真:もう一つのアブラハムの井戸】

 観光用には、こっちの井戸を見学させるようです。
これは2度目に行った時の写真ですが、建物の中がレストランになっていました。今回、改築のため閉鎖されていたと記憶しています。
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91.アブラハムの井戸

2006年10月20日 | Weblog
【写真:テル・ベエルシェバのアブラハムの井戸】ミルトス社「聖書の世界」より

 ベエルシェバの街路樹は、ぎょりゅうの木です。
「この木はですね、普通の潅木にすぎませんが、中には10mも伸びるものもあります。根は地下の水脈に通じるまで、時には30mも伸び続けるんですよ。葉っぱは柳のように垂れ下がっていますが、よく見ると、水分が蒸発しにくいように、小さなウロコ状になっているんです。ですから、他の木が枯れても、ぎょりゅうの木は絶対に枯れないといわれ、イスラエルでは“永遠の生命の象徴”の木として親しまれています。
 聖書には、“アブラハムがベエルシェバで1本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の名を呼んだ(創21:33)と記されていますね。またここには、アブラハム、イサク、ヤコブの、ユダヤ民族の父祖が住んでいたとも書かれています」

 見覚えのある道を、アブラハムの井戸に向かいます。
「これから、井戸を見学しますが、これも旧約聖書に出てきますね。この地に住んでいたアビメレクとの争いをなくすために、アブラハムが井戸を掘ったと書かれています。(創21:31) ベエルシェバというのは“誓いの井戸”という意味ですね」

 面白いことに、昨年は2度とも観光用の井戸を見学していたのですが、今回は門が閉鎖されていましたので、急きょ、考古学的に、より信憑性のあるテル・ベエルシェバに行きました。私の心はラッキー、ラッキーと躍っています。
「深さはどれくらいあるんですか」
「30~40mあります」
「ひえ~、こわい~~」
と言いながら、しっかり覗いている賑やかな昔の乙女たち。もう思い残すことはないって顔して、バスに戻ります。

「ええと、この辺りはですね、ハガルが息子のイシマエルを連れて、さまよった所でもあります。少し読んでみましょう。“・・・アブラハムはあくる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシェバの荒野をさまよった。・・・わらべは成長し、・・・・弓を射る者となった。彼はパランの荒野に住んで、・・・・エジプトの国から妻を迎えた(創21:14~21)と書いてあります。そして現在のアラブ民族はですね、このイシマエルの末裔だと言われていますね」

 そういう説明を聞きながら、いよいよ待望のエルサレムへ走っています。
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90.想像を超えるチンの荒野

2006年10月19日 | Weblog
 【写真:チンの荒野】360度この光景なので、どこを撮っていいか迷う。

 昨年、石垣に寄りかかって初めてこの荒野を眺めた時、あまりの凄さに二度と立ち上がれないと思うほど、強烈なショックを受けました。今も興奮したみなさんの会話が耳に入ります。
「聖書に書いてある荒野ってこれ?」
「エジプトから出たモーセの民が、こんな所で40年もさまよったの?」
「これじゃ、誰がつぶやかずにいられようか」
「つぶやくなって言う方が無理よね」
 その後は絶句したまま、ぼーっと佇んでいます。

 聖書から、呟きの聖句を抜粋して見ましょう。
*・・・荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。(出エ14:11)
*・・・荒野で死ぬよりエジプト人に仕える方が、わたしたちにはよかったのです。(出エ14:12)
*わたしたちは何を飲むのですか。(出エ15:24)
*・・・われわれはエジプトの地で、肉の鍋のかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれを、この荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている。(出エ16:3)
*あなたがたはなぜ、わたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか。(出エ17:3)
*ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない。(民数11:4~6)

 こうして聖句を並べて見る限りでは、モーセという偉大な指導者に導かれながら、何という不信仰なことを! よくもまあ、こんなに呟くものだと、読むたびに吐き気がするほどムカムカした私です。それが、実際、この荒野を目の前にした時のショック!
 20年間(当時)、大切に育て、大事に咲かせてきた信仰という赤い花びらが、この荒野の突風に全部吹き飛ばされて、あっという間にメシベだけが残ったという、何かそんな感じでした。

 しばらく黙り込んでいた仲間たちが、再び会話を交わします。
「凄いなあ」
「来てよかったわ」
「ただ、荒野、荒野といったって・・・、日本ではこんなの想像も出来ませんものね」
「まったくだ。来てみなきゃ、分からないね。これをさ、口で説明しろったって出来ないよ」

 ミツペラモンの大クレーターとチンの荒野、これを見ずして本当の神を語れないとさえ思いました。チンの荒野についての聖句は、民数記をひもといてください。
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