MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2592 誤解を招かないやり方もあったろうに

2024年06月08日 | 社会・経済

 6月4日、国土交通省は必要な型式指定の申請で不正行為が明らかになったトヨタ自動車(愛知県豊田市)に対する行政処分を行うため、職員による立ち入り検査を実施しました。同省は、併せて不正があったことを報告したホンダ、マツダ、ヤマハ発動機、スズキの各社に対しても、今後、順次検査に入るとしています。

 対象は各社計38車種にのぼるということで、このうちトヨタとマツダ、ヤマハ発は現在生産する6車種の出荷を既に停止しているとされています。

 本件に関しては、検査の前日(6月3日)にトヨタの豊田章男会長が記者会見を行い、「認証制度の根底を揺るがす行為で、自動車メーカーとして絶対にやってはいけない」と述べて陳謝しました。しかしその一方で、豊田会長は「国の認証試験より厳しい条件で行った」「安全性に問題はない」と説明したと伝えられています。

 えっ、どういうこと?厳しく試験したならその方がいいじゃない…と多くの人は思うでしょう。会長の弁によれば「日本国内における認証制度は、主に安全と環境の分野においてルールに沿った測定方法で、定められた基準を達成しているかを確認する制度。認証試験で基準を達成してはじめて車を量産・販売することが可能になるが、今回の問題は、正しい認証プロセスを踏まずに量産・販売してしまった点にある」という話。

 要は、お上の言ったとおりにやってなかったんでお灸をすえられた…ということのようです。豊田会長自身、「そうは言っても不正は不正。みんなで安心安全な交通流を作っていくのに、我々は認証の部分でやっちゃいけないことをやってしまった。そこはしっかり正してまいります」との反省の弁を語ったとされています。

 なんか随分と日本的。いわゆる「お役所仕事」の典型だなと嫌な感じを抱いていたところ、6月5日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に在米ジャーナリストの冷泉彰彦氏が「自動車の型式指定申請での不正、海外に誤解を広めるな」と題する一文を寄せていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 国土交通省が、トヨタ自動車、ホンダ、マツダ、ヤマハ発動機、スズキの5社への行政処分を検討しているとされる、型式指定申請を巡るこの問題。いずれも安全面での性能に問題がないことは各社確認済みということで、販売済のクルマについても回収や再整備を行う計画はないとされており、(国交省もこの方針に異議を唱えていないことから)本当に安全面には影響はないのだろうと、冷泉氏はこの論考に記しています。

 (今回問題視された細かい検査方法の違いは省きますが)つまりは、内容に問題はないが、国土交通省の定めたやり方ではないので違反は違反であるということ。氏によれば、これは「より厳しい条件で試験しているので、安全性は確認できる」ことから、「クルマを回収したり、再整備したりする必要はない」という(ある意味「玉虫色の」)結論だということのようです。

 さて、この問題については、形式主義に傾いた日本の行政が悪いのだから、縮小する国内市場向けに(意味のない)追加コストはかけられない自動車メーカーには一分の理があるだろうと氏は話しています。

 一方、自動車は一歩間違えば人の命に関わる乗り物。乗員を守らなくてはならないだけではなく凶器にもなるため、どんなに形式主義であっても厳密に国内法令を遵守することが大事という考え方も成り立つ。いずれにしても、今回の事件、あるいは官民の対立というのは純粋に日本国内の問題。とにかく販売された車両の安全性には問題はないということであれば、国内、そして国外のユーザーに対し(その点について)不安を拡大する必要はないというのが氏の認識です。

 そこで問題となるのは、この事件が「世界でも日本車の信頼を損ねている」とか、「各国でも報道」という流れだというのが、この論考で氏の指摘するところです。確かに日本での法令違反があったのは事実だが、問題の本質を考えるのであれば、厳しい欧州での基準はクリアしている。実際、事前検査の代わりに厳しい消費者保護行政のあるアメリカでも、対象車種に関して大きな問題は起きていないということです。

 それにもかかわらず、例えば東京発のある外電では、「大規模な不正」とか「幅広いテストの不正」というかなり激しい言葉で報道される状況が生まれている。少なくとも、内容を精査して「50度でいいのにより厳しい65度で衝突させた」とか「ずっと重い台車で試験した」「確実にエアバッグを発火させて保護性能を検査した」「左右入れ替えても同じ条件の場合に入れ替えて衝突検査をした」というようなことを理解していたら、このような報道にはならなかったはずだと氏は言います。

 また、過去の日本の自動車業界の歴史を知っていたら、「官民共同で世界を制覇したはずの日本の自動車業界で、官民が深刻な対立に至った不思議」というような(かなり)切り込んだ内容の記事にすることもできたはず。そのように書けば、今回の事件は純粋に日本ローカルの問題ということは誤解なく伝わったのではないかというのが氏の見解です。

 「大規模な不正」「幅広いテストの不正」と英語で発信すると、場合によってはグローバルなブランドイメージに関する大きな誤解を生む可能性が高いと氏はしています。実際、私も日経新聞で検査の(技術的な)細かい内容を追うまでは、神妙に謝罪する豊田会長の映像に、「また自動車業界の闇が炙り出されたのか」とかなりがっかりした気分させられたのを白状しなければなりません。

 いずれにしても、指導官庁、メーカー、メディアそろって日本的な旧弊が明らかにされた今回の事件。冷静に、しかも分かり易く状況を説明できる人が(各セクターに)もっとたくさんいてもいいはずなのにと、思わず感じたところです。


#2591 体験格差のリアル(その2)

2024年06月04日 | 社会・経済

 前回に引き続き、5月15日の総合ビジネス情報サイト「現代ビジネス」に掲載されていた、『「世帯年収300万円台」家庭出身の東大生が痛感した「体験格差」の厳しい現状』と題する記事の内容を追っていきたいと思います。

 若者たちがしばしば口にするようになった「親ガチャ」なる言葉。その本質的な意味に関し、同記事は、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事の今井悠介氏の近著「体験格差」(講談社現代新書)の一部を紹介しています。

 子供たちが成長の過程でその心身に刻む「体験」の量や質の違い。そうした体験の格差が、子供たちの将来にも大きな影響を与える時代が訪れていると今井氏はこの著書で指摘しています。

 ここでいう「体験」とは、ピアノや水泳、サッカーなどの習い事だけでなく、旅行に行ったり、自治体の活動に参加したりすることも含むもの。恐ろしいことに、資金力の差によって生じる「経験値の差」は、学力にも影響しかねないというのが氏の認識です。

 世帯年収別にスポーツ系と文化系のそれぞれについての参加率を見ると、どの年収でもスポーツ系のほうが文化系よりも高い参加率となっている由。また、スポーツ系でも文化系でも、世帯年収が高いほど参加率が高くなっていると氏は指摘しています。

 具体的には、まずスポーツ系では、年収300万円未満の家庭で36.5%の参加率であるのに対し、600万円以上の家庭では59.8%と1.6倍を超える格差となっているとのこと。同様に文化系でも、300万円未満の家庭では17.6%の参加率である一方で、600万円以上の家庭で31.4%と、1.8倍近くの格差となっているという話です。

 文化系の「体験」では、音楽の参加率が最も高く、それに習字・書道が続く形となっているとのこと。世帯年収間での参加率の格差についても、音楽の方が習字・書道よりも大きくなっているということであり、様々な費用が掛かる音楽にその差が現れやすいようです。

 確かに明治の昔から、「ピアノを弾ける」というのは「お嬢さん」だったことの証のようなもの。貧乏人の倅がそろばん塾や習字の先生に通う一方で、良家の子女や深窓の令嬢は、教養のひとつとしてピアノやバイオリンくらいは嗜んでいるのが「あたりまえ」なのでしょう。

 いずれにしても、現状、スポーツ系であれ文化系であれ、「放課後」の体験の機会を一つ以上得ている割合は、世帯年収600万円以上の家庭であれば7割を超えているのに対し、300万円未満の家庭では半数に満たないと氏はしています。

 さらに、体験の格差は「習い事」ばかりで生まれるものではない。旅行やスポーツ、ボランティアなどの経験も、その後の階層形成に大きな影響を与えると氏は話しています。

 五感を伴う記憶は長期にわたって残りやすい。氏によれば、例えば旅行は学びの入り口の宝庫だということです。そして、知的好奇心を刺激された子どもは学ぶこと自体に前向きになるケースが多い。旅行一つとっても、子どもたちの学力格差を助長しかねないというのが氏の懸念するところです。

 さらに同書によれば、こうした体験数の差が、経済力とも連動しているという指摘もあるようです。富裕層は豊富な資金で望む限りの体験をさせる余裕があり、子どもの能力が伸びやすい。彼らは推薦入試に強く、就職においてもよい結果を残すことが予想されるとのこと。

 そして、様々な体験をした(そうした)子供たちが新たな富裕層へとなり替わっていくことになる。つまりそれは、体験活動を通して社会階層が再生産されているということだと氏は説明しています。

 一方で、貧困層は資金に乏しく、習い事や旅行をする(させる)余裕がない。子どもの体験活動自体に興味がないから、調べようとも思わない。すると、子どもの知的好奇心の成長は個々人の才覚に依存してしまい、一部の才能ある子ども以外は負のループから抜け出せないということです。

 さて、お金のない家の子供には、興味の切っ掛けや能力開花のチャンスすら与えられないというのは、それはそれで(なんとも)希望のない残念な話。確かに私自身、子供のころからピアノやスキーをやったり、海外旅行に連れて行ってもらったりしていたら、この人生もどんなに豊かなものになっていただろうと思わないではありません。

 一方、我が身を振り返れば(例えば耐え忍ぶことのできる根性だったり、人に共感できる優しさであったり)貧乏な家庭や、田舎暮らしの体験の中で身に着けられる貴重な感覚というものがあるのもまた事実。

 子どもたちには是非、それぞれの未来が開けるような様々な体験を(偏ることなく)積んでほしいものだと、記事を読んで改めて感じた次第です。


#2590 体験格差のリアル(その1)

2024年06月01日 | 社会・経済

 私がまだ義務教育を受けていた1970年代の半ばころまで、日本は「一億総中流」と呼ばれるような(高度成長と終身雇用に支えられた)世界有数の安定社会を自認していました。もちろん当時も裕福な家は極めて裕福でしたし、(対して)とことん貧しい家もありましたが、そんな中でもほとんどの人々は貧しいながらも慎ましい生活をしていたものです。

 一方、その後のバブル経済やその崩壊、失われた30年と新自由主義経済の浸透を経て、日本の社会でも貧困層と富裕層の格差が拡大。個々の家庭の状況においても、所得による分断が顕著になりつつあると言われています。

 「親ガチャ」の言葉が象徴するように、親が貧乏なら子どもは満足な教育機会に恵まれず、子どもも貧困になるという「貧困の連鎖」が指摘されるところ。実際、東大生の親の6割以上が年収950万円以上(日本の平均世帯年収は564万円、中央値は440万円)と聞けば、学歴や年収は「発射台の高さ」で決まるものといった声も無視するわけにはいきません。

 「親ガチャ」を口にする若者をただの「僻み根性」とスルーするのは簡単ですが、実際に彼らが成長するうえで、親の所得や子供への投資、そしてそこから得られる経験の差というものが、大きな影響を与えているのもまた事実のようです。

 そんなことを感じていた折、5月15日の総合ビジネス情報サイト「現代ビジネス」が、『「世帯年収300万円台」家庭出身の東大生が痛感した「体験格差」の厳しい現状』と題する記事において、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事今井悠介氏の近著「体験格差」(講談社現代新書)の一部を紹介していたので、参考までに小欄にもその概要を残しておきたいと思います。

 最近、しばしば耳にするようになった「体験格差」という言葉。実は今、これによって受験での逆転が難しくなっている実態があると今井氏はこの著書で触れています。

 現在、多くの大学受験において「勉強以外の体験」が重視される時代がやってきている。文部科学省の調査によれば、2021年度の入試では、50.3%の受験生が、学校推薦型選抜もしくは総合型選抜入試を利用しており、ペーパーテストはもはや少数派だというのが氏の指摘するところです。

 「推薦入試」では、小論文や面接、研究計画などにより選考が行われる。ここで重要視されるのが「どれだけリアルな体験をしてきたか」だと氏は説明しています。

 例えば貧困問題を研究したい2人の学生がいたとする。Aさんは図書館やインターネットを駆使して様々な資料を読み研究を進めている。一方のBさんはそれらを済ませた上で、実際に東南アジアやアフリカ、南米のスラム街を回って、貧困に苦しむ人々の暮らしに触れてきた。

 さて、この時、合格しやすいのがBさんであることはまず間違いないと氏は言います。研究の際に一番信用されるのは、フィールドワークを通じて集めてきた一次資料であり、自分が現地に行けたかどうかが合格を大きく左右する。生育環境がそれを許すか許さないかの違いが「体験格差」となり、こうして「推薦入試」は、貧困層には厳しい選考方法となるということです。

 記事によれば、東京大学でも9年前から推薦入試が行われており、推薦合格生の多くは幼少期から様々な体験を積んでいる人たちだと氏は記しています。例えば(その一人は)、アフリカ社会の現状を学ぶため、高校生で現地に飛んで実地調査をした人。さらには、海外から個人で珍しい動植物を輸入し、好奇心を磨き続けた人などなど。

 資金力に欠ける学生は、こうした人たちにとうてい太刀打ちすることはできないというのが氏の懸念するところです。一方で、大学受験における(こうした)「推薦入試」の割合はさらに増え続けている。法政大学では現在30%以上の学生を同方式でとっており、今後も拡大の予定。早稲田大学は2026年までに入学者全体の6割を推薦型入試で募集すると発表されていると氏はしています。

 国立大学でも動きは同様で、筑波大学などは既に入学者全体の25%以上を推薦入試で選抜している由。つまり、「幼少期にどんな体験をしたか」が入試の鍵を握る未来がすぐそこまで迫っているということです。

 第三者に評価されるような強い意志を持ったり、魅力や可能性を身に着けたりするためには、ベースとなる素養や技術を学んだり、その切掛けとなるような経験を積んだりする必要がある。そして、そうした体験を重ねるためには、それ相応の資力や家庭の理解が必要だということです。

 それ自体は今に始まったことではないでしょうが、子供に投資できる環境があるかないかが(あからさまに)カギを握るようになっている現在、人生の成功に対し「自己責任」という言葉が通用しない世の中がさらに拡大しているのかもしれなと、記事を読んで改めて感じたところです。

(『#2591 体験格差のリアル(その2)』に続く)


#2589 揺りかごから墓場まで

2024年05月29日 | 社会・経済

 2022年時点の日本の総人口は1億2,495万人。そのうち65歳以上の人口は3,624万人を占め、総人口に占める65歳以上の割合は既に29.0%に達しています。そうした中、国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の65歳以上の一人暮らし高齢世帯は2020年の738万から2030年には887万に、そして50年には1084万へと増える見込みとされています。

 さらに細かく見てみると、現在の独居高齢者の約35.9%が男性、約64.1%が女性という結果である由。平均寿命の観点から女性の方が長生きしやすいことから、男性は65~74歳の割合が多く、女性は85歳以上が多いということです。

 こうして独居高齢者が増加している大きな要因のひとつに、配偶者がいない人が増えていることが挙げられます。高齢化の進展に伴い、離婚や死別などの理由により、結果として一人暮らしになる人が増えているとのこと。また、生涯未婚の高齢者も年々少しずつ増えているとされています。

 昭和の高度成長期、1960年頃の未婚の割合は、全体の約1%程度とかなりの少数派でしたが、2015年には男性5.3%、女性4.3%に増え、加えて離婚の割合も1960年に男性1.3%、女性1.7%だったものが、2015年には男性4.4%、女性5.6%に増えているということです。

 一人暮らしの高齢者の増加で心配されるのが、増え続ける彼ら彼女らの生活を誰が支えていくのかという点です。年を取れば誰でも生活機能は衰えていく。社会的に孤立すれば活動機会が低下しフレイルが進行する可能性もあるでしょう。交流の減少や脳への刺激の低下により、認知機能の低下や認知症の発症の危険性も高まります。

 病気に対する気づきの機会の減少や、自己管理能力の低下によりケガや病気への対処が遅れたり、突然の事故が起きても助けを呼ぶことができず、孤独死に至ってしまうケースだって考えられます。

 さらには、周囲に頼れる人がいなくなるため、詐欺や悪徳商法などの犯罪に遭いやすくなったり、地震や風水害、火災などの災害の際に逃げ遅れて被害に遭ったりといったリスクも想定されるところです。

 一方、高齢者を巡るこうした状況を踏まえ、厚生労働省が独居高齢者に対する支援制度を強化する方針を固めたと5月6日の朝日新聞が報じています。(「身寄りなき老後、国が支援制度を検討 生前から死後まで伴走めざす」2024.5.6)

 頼れる身寄りのいない高齢者が直面する課題を解決しようと、政府が新制度の検討を始めた由。今年度、行政手続きの代行など生前のことから、葬儀や納骨といった死後の対応まで、継続的に支援する取り組みを一部の市町村で試行。経費や課題を検証し、全国的な制度化をめざすと記事は伝えています。

 記事によれば、高齢化や単身化などを背景に、病院や施設に入る際の保証人や手続き、葬儀や遺品整理など、家族や親族が担ってきた役割を果たす人がいない高齢者が増え、誰が担うかが課題になっているとのこと。

 多くは公的支援でカバーされておらず、提供する民間事業者は増えているようですが、契約に100万円単位の預かり金が必要なことも多く、消費者トラブルも増えている。本人の死後、契約通りにサービスが提供されたかを誰かが確認する仕組みもないと記事はしています。

 さて、差し迫った状況に国もようやく重い腰を上げ始めたのかな…というところですが、その一方で、独居高齢者の生活を見守り、それぞれが抱える問題に一緒に向き合い、解決に導いていくのはそう容易いことではありません。いつものように、社会保険料からお金を捻出し、後は市町村や地域社会に丸投げして終わりというわけにはいかないでしょう。

 もちろん介護のニーズも増えるため、社会保険料のさらなるアップも避けられません。『ゆりかごから墓場まで』…政府は、全世代で社会保障を賄っていく「全世代型社会保障」を進めるとしていますが、その分、特に現役世代に保険料の負担が重くのしかかってくることは確実と言えるでしょう。

 起死回生の妙案は浮かびませんが、社会の変化に合わせこれだけの需要が生まれるのであれば、まずはそこを市場とみなし商売にならないかと考えるのは必然のこと。

 とりあえずは中間層以上(くらい)をターゲットに見守りや問題を解決するための「市場モデル」を検討し、商売として成り立たせること。すべてを国や自治体に期待するのではなく、それぞれの生活実態に合ったサービスを選択し、ある程度はそれぞれが「金で解決」できる仕組みを(まずは)作ってみることが大切なのではないかと思うのですが、果たしていかがでしょうか。


#2588 結婚のインフレ化

2024年05月27日 | 社会・経済

 国内の世帯を構成する平均人数が2033年に初めて2人を割り込み、1.99人にまで減ることが厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所の「日本の世帯数の将来推計」で分かったと、4月12日の時事通信が伝えています。

 推計によれば、平均世帯人数は2047年には1.92人にまで減少するとされており、一層の未婚化が進むことで、65歳以上の高齢者単独世帯が増加することなどが影響するとされています。高齢者単独世帯の未婚率は、2050年に男性で6割、女性でも3割に上ることが確実視されており、社人研は近親者がいない高齢者が急増すると分析。社会的孤立や孤独の問題が深刻化し、大きな課題になるということです。

 今から約四半世紀のちの2050年。現在40代の単身者たちがいよいよ高齢者の仲間入りを果たす頃には、家族を持たない「おひとり様」が全世帯の約半数を占めることになりそうです。

 そうした折、3月9日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に、コラムニストの荒川和久氏が『日本の若者が結婚しなくなった「本当の理由」』と題する一文を寄せているので、参考までにその内容の一部を残しておきたいと思います。

 令和の時代に入り、ますます進む日本の非婚化。現代の婚姻数が大幅に減少しているのは個々人の意識の問題ではなく、まず「結婚のハードルがあがった」という構造の問題としてとらえるべきだと荒川氏はこのコラムで指摘しています。

 婚姻減は、「一生結婚しない」という選択的非婚が増えているからだけではなく、「結婚したいのにできない」という不本意未婚が増えているという事実が隠れていると氏は言います。

 SMBCコンシューマーファイナンスによる「20代の金銭感覚についての意識調査」では、「結婚しようと思える世帯年収」について継続的に聞いている。その結果を見ると、2014年の中央値が379万円だったものがその後の10年間でどんどん上昇し、最新の2024年調査では544万円にまで上がっているということです。

 2014年対比で実に1.4倍。一方で、国税庁の民間給与実態調査から、25~29歳男性の平均年収(個人年収)は、2014年は381万円に対し、最新の2022年段階でも420万円と約1.1倍の上昇にとどまっており、結婚必要年収の上昇に、実態としての若者の給料が追い付いていないというのが荒川氏の認識です。

 さらに注目すべきは、2014年時点では、結婚に必要な年収379万円と25~29歳男性の平均年収381万円はほぼ一致していたという点。10年前までは結婚に必要な世帯年収意識と実際の男性の個人年収の乖離は(ほぼ)なかったことだと氏はしています。

 これは即ち、2014年までは夫の一馬力でも(なんとか)「結婚必要年収」をクリアしていたことを意味している。ところが、今では、妻も一緒に稼いでくれないと結婚に必要な年収に達しない。もちろん「夫婦共稼ぎ」をすればいいのだろうが、実際は、(2020年の国勢調査でも末子が0歳の世帯の場合、妻の6割が無業になることからもわかるように)どうしても夫の一馬力に頼らざる時期が生まれるのが現実だということです。

 そうした状況を踏まえると、未婚の若者が「結婚なんて、出産なんて無理だ」と諦めてしまうのも仕方ないことかもしれないと、荒川氏はこのコラムに記しています。

 それは、決して若者の価値観が変わったのではなく、環境構造が諦めざるをえない心を作っているから。「お金がすべて」とは言わないが、どんなにきれいごとを並べても結婚とは経済生活であり、お金がなければ運営できないというのが氏の指摘するところです。

 以前は簡単に買えていたものが、気が付けば値段が上がってとても買えないものになっている。若者には「結婚と出産のインフレ」が起きていると氏は話しています。婚姻減は自動的に出生減につながっていく。現在の日本で起きているのは、「少子化ではなく少母化」でありそれは婚姻の減少に起因するものだということです。

 実際、2000年と2022年の「児童のいる世帯」の年収別世帯数を比較すると、世帯年収900万円以上の世帯はまったく減少していないにもかかわらず、いわゆる所得中間層である世帯年収300万~600万円あたりの世帯だけが激減していると氏はコラムの最後に指摘しています。

 日本の婚姻減、出生減は、この中間層が結婚も出産もできなくなっている問題にある。つまり、婚姻数の減少や少子化は決して価値観の問題などではなく経済環境の問題だということでしょう。中間層の不本意な若者たちを増やさないようにするためにも、これ以上の負担増を現役世代に迫るのは「悪手」でしかないと話す荒川氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2586 メディアによる「言葉狩り」

2024年05月23日 | 社会・経済

 将来の有力な総理大臣候補の一人とされる上川陽子外相が5月18日、静岡県知事選にかかる自民党推薦候補への応援演説において「「この方を私たち女性が(知事として)うまずして、何が女性でしょうか」と述べていたとされる問題。

 野党や一部メディアなどから女性に対する配慮を欠いたという指摘がある中、上川氏は19日、報道陣の取材に対し「私の真意と違う形で受け止められる可能性があるとの指摘を真摯に受け止め、撤回する」と述べ、発言を撤回する意思を表明したと伝えられています。

 発言を追う限りでは、自民推薦候補を新しい知事として「うみ出す」という意味で述べたとみられるこの言葉。朝日新聞などの報道によれば、「うまずして、何が女性でしょうか」という発言自体に女性の出産を想定させる側面が否めず、子どもを産みたくても産めない女性などへの配慮を欠くものとして批判の声が上がっているということです。

 実際、今回の報道に対し立憲民主党の蓮舫議員は、「女性は『産む』との前提。『比喩』だとしてももうやめてほしい。本当に痛い。」と「X」(旧ツイッター)に投稿。同じ立憲民主党の論客、辻元清美議員も 「『うまずして何が女か』というようなことをたとえでも使ってしまったら、『産まない人は女性じゃないわよあんたは』というように言われて苦しんでいることを容認してしまうことにつながりかねないなと私は危惧しました。」と話したと伝えられています。

 一方、政界、メディアを中心としたこうした動きに対し、違った意見も次第に目にするようになっています。

 国際政治学者の三浦瑠麗氏は同19日に「X」を更新。上川陽子外相の発言に関し、「みんな家事育児や仕事のかたわら、選挙運動の裏方から地元の働きかけまでボランティアで担ってくれてるのは現実問題として女性たちだっていう事実を知らんのか。創価学会の婦人部の意見が力を持ってるのもそこでしょうよ」と、選挙における女性のパワーを指摘。「『言葉の選び方に(産めない人への)配慮が足りない!』と被害者憑依して怒るのは勝手だけど、あのくだりは実際に家事育児を片務的に担い、選挙のボランティアまでしている聴衆のプライドをくすぐったんでしょう」と、上川氏が使った言葉の政治的な有効性を評価したとされています。

 さらに三浦氏は、「うむ(産む)という言葉を無意識にせよ選んだ背景には、聴衆の女性たちに自らの『力』を自覚させる何かがあったからだと思うよ。その『力』の自覚を記者は真正面から否定しにいくのかってこと」と指摘し、一方的な報道姿勢を疑問視したということです。

 また、元大阪市長、元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏は20日、フジテレビ系情報番組「めざまし8」に出演。上川陽子外相の発言に関し、「選挙期間中ですから撤回したんでしょうけど、引き潮を早くしなければいけないということで、でも僕はこの発言は許容できると思っています」とコメント。続けて「(これは)支持者向けへの発言で、一般世間向けへの発言ではありません。それから『子どもを産め』という発言ではなくて、当選者を出させてほしい。しかも現実ですね、選挙運動に携わっている人たちは、若い世代は参加しない、子育て世代は忙しい。現実子育てが終わった人が多いんです。そういう人たちを鼓舞する表現としては僕は許されると思う」と話したということです。

 さて、こうした様々な意見かもわかるように、前後の文言をしっかり追えば今回の上川氏の発言の「女性パワーで候補者を押し上げよう」という趣旨に違和感を感じる人がそんなに多いとは思えません。世論の反応も割と落ち着いていて、メディアの煽りりに乗るのは一部野党ばかりといった状況も生まれつつあるようです。

 上川氏と言えば、(先にも述べたように)史上初の女性総理大臣候補として最近メキメキと頭角を現してきた政治家の一人。従ってこれから先も、いろいろと足を引っ張る動きがあるでしょう。私自身、特に上川氏の支持者というわけではありませんが、折角なので、「こんなつまらないことでケチをつけてほしくない」という思いはあります。

 政治家の言葉は重いとはいえ、(なによりも)ポリティカル・コレクトネスの名のもとに進む(ある種の「言葉狩り」ともとれるような)昨今の言葉遣いへの過度な規制には、十分な監視が必要ではないかと改めて感じるところです。


#2585 家畜化する日本人(その2)

2024年05月21日 | 社会・経済

 人生に「コスパ」を求める傾向が強まる昨今、特にZ世代を中心とした「コスパ・タイパ重視」の価値観に対し、3月19日の経済情報サイトPRESIDENT ONLINEに作家で精神科医の熊代亨(くましろ・とおる)氏が、『結婚を避け、子供をもたないほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化"』と題する論考を寄せていたので、引き続きその主張を追っていきたいと思います。

 人口の都市への集住に合わせ、(効率的に)集団生活を送れるよう「自己家畜化」を選択してきた人間たち。ところが最近では、その生物学的な自己家畜化の進展よりずっと早い速度で文化や社会環境が変化し、(気が付けば)人間の動物性をますます漂白化していく現況が生まれているのではないかと氏はこの論考に記しています。

 自己家畜化が進んだとはいえ、人間は、ホモ・エコノミクスである以前に動物としてのホモ・サピエンスである。遺伝子を継承し、子々孫々の繁栄を求める動物の観点からみれば、最もコスパが良いとは、最も効率的に子孫や血縁者を残せることを指すはずだと氏は言います。

 しかし今日、そのような観点からコスパを推し量る人はまずいない。コスパを追求する人は結婚を敬遠し、結婚したとしても子どもの人数を制限する判断基準は、動物としてのホモ・サピエンスのものではないというのが氏の指摘するところです。

 氏によれば、高収入志向も高学歴志向も、ぜいたくな生活や顕示的消費を望むのも、資本主義の思想を内面化したホモ・エコノミクスならではとのこと。そこから逸脱した「貧乏の子沢山」のような生き方は、今日では選ぶに値しない生き方、というより非常識な生き方とみなされるだろうと氏は話しています。

 社会の隅々にまで(こうした)資本主義の価値観が浸透した今日、それを内面化した私たちにとって、資本主義の思想(ミーム)は生物学的な遺伝子(ミーム)よりも強い行動原理に変化しつつある。子孫を残すのにふさわしい暮らしは、資本主義にふさわしい暮らしに上書きされつつあるということです。

 さて、時すでにこうなってしまった以上、最終的には、配偶や子育ては個人のものから社会のものになるしかないのではないではないかと氏はこの論考に綴っています。

 そもそも、世代再生産を個人のインセンティブに頼っているから少子化が進むのであって、家族や子育てにまつわるリスクを誰もが(資本主義的に)合理的に考えるようになれば、若者が子育てを躊躇し結婚すらリスクとして回避するのは当然のこと。そんな、あまりに長期的でベネフィットが不確かな長期投資は敬遠され、それらをわざわざ選ぶのは異端者とみなされるようになるだろうということです。

 実際、既に私たちは、衝動的に性行為し妊娠し出産する人を異端者のように眺めてはいないか。どのみち、未来の世代再生産の場において従来どおりの家族愛が成立しているともあまり期待できないと氏は言います。

 ロマンチックラブと配偶の結びつきにしても同じこと。男女が職場で出会い関係をもつことが「ハラスメント」やインモラルと見なされ、マッチングアプリが台頭してきている昨今の風潮は、お見合い結婚が20世紀風の自由恋愛に根差した結婚に変わった、その変化のさらに次の段階が訪れつつあることを暗に示しているのではないかということです。

 それは、(具体的に言えば)功利主義に基づいてハラスメントを回避しあい、資本主義に基づいてコスパやタイパを最大化しあう…そのような要件を一層満たす出会いが望まれ始めているということ。性交同意書の導入もその一端で、性行為の領域に功利主義や社会契約のロジックを徹底させるツールとして、(将来的には)中央集権国家に性行為の差配を委ね、管理させることにもつながるというのが氏の懸念するところです。

 私(←熊代氏)自身、夫婦で子育てすることや、専門家でもない個人が子育てをすること、自分の身体で妊娠し出産すること、さらに男女が身体を用いて性行為すること、これらがすべて忌避されるようになっても驚きはしないだろうと、氏はこの論考の最後に綴っています。

 生産性や効率性のために人間が性別を捨てることについても同じこと。ここ数百年の人間は動物としての性質を一層自己抑制する方向へと、“文化的な自己家畜化”を促す文化や環境からの求めのままに変わり続けてきたのだからと話す熊代氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。


#2584 家畜化する日本人(その1)

2024年05月19日 | 社会・経済

 若者言葉として浸透しつつある「コスパ」や「タイパ」。できるだけ少ない負担や時間で高い成果を得たいという気持ちは昔から変わらないのでしょうが、近ごろとみにその良しあしが問題視されるようになったのは一体何故なのでしょうか?

 「コスパ最強」の声に惹かれ始めてはみたものの、世の中そんなに甘い話ばかりのはずはありません。経過や過程を無視して効率に走っても、得られる満足感や納得感はそれほど実感できなのでは…と懸念してしまうのは、私たち昭和世代の僻みなのでしょうか。

 現代社会に蔓延するこうした「コスパ・タイパ重視」の価値観に対し、3月19日の経済情報サイトPRESIDENT ONLINEに、作家で精神科医の熊代亨(くましろ・とおる)氏が「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化"」と題する興味深い論考を寄せていたので、参考までにその概要を(2回に分けて)小欄で紹介しておきたいと思います。

 費用対効果(コスパ)という概念は、現在では経済活動にとどまらず色々な場面に適用されがち。さらにはタイパ(タイムパフォーマンス)という言葉も登場し今年(2022年)の新語大賞にも選ばれたと、熊代氏はこの論考の冒頭に記しています。

 文化資本や社会関係資本といった言葉が示すように、社会学者たちは学歴・教養・礼儀作法・人間関係・健康・美容・マインドまでをも資本財とみるようになった。それらは既に投資やリスクマネジメントの対象にもなっていて、現代人の行動の広い範囲が資本主義の思想に基づいて内面化されているということです。

 そうした中、コスパやタイパといった考え方は(特に若者の間で)広く浸透。たとえばドラマや映画を二倍速で視聴するような習慣も生み出したと氏はしています。人生についても同じこと。(どうせ生きるなら)「コスパの良い人生」などといった言葉が語られ、賛否はあるにせよネットメディアを賑わせているということです。

 そこで思うのは、「コスパの良い人生」とは一体どのような人生なのかということ。人生をコスパで推し量るためには、もともと資本主義に基づいていない「人生」の価値を、資本主義の考え方に落とし込んで費用対効果に換算する必要があると氏は言います。

 人生の価値基準を資本主義のそれに換算し、その思想に基づいて生きること。(そうした中で)隅から隅まで資本主義の思想どおりに生きるような原理主義ではなくても、資本主義にそぐわないもの、遠回りかもしれないもの、効率的でないもの、リスクを伴うものなどが(人生の選択において)選びにくくなりるというのが氏の懸念するところです。

 さて、そこで閑話休題。明治安田生活福祉研究所の調査によれば、結婚について金銭的な損得やコスパの観点で考えたことがある人の割合は30代の未婚男女において特に高く、男性で45.7%、女性で48.3%に及んだと、熊代氏は話しています。

 特に男性未婚者は、結婚をお金に換算するとマイナス(←メリットがない)と答えている割合が高く、結婚に対してコスパ意識を持っている人はそうでない人に比べ「結婚に希望が持てない」と回答している割合も高どまりしている。コスパに基づいた結婚観を持っている人ほど、「結婚はコスパが悪い」「結婚にリソースを割り当てるべきではない」と判断している様子が窺えるということです。

 (この論考において)氏は、こうした状況を「資本主義による人間の家畜化、あるいは“文化的な自己家畜化”」の帰結であると断じています。

 氏によれば、「自己家畜化」とは、生物が進化の過程で(自らを)より群れやすく・より協力しやすく・より人懐こくなるような性質に変えていくこととのこと。例えば、人間の居住地の近くで暮らしていたオオカミやヤマネコが、人間を怖れず一緒に暮らすようになり、そうした中で生き残った子孫がイヌやネコへと進化したのと同じこと。人為的に家畜にするのでなく、自ら(必要に応じ)家畜的に変わる状況を指すということです。

 実際、進化生物学は、私たち人間自身に起こった自己家畜化についても論じている。考古学、生物学、心理学などから多角的に検討したうえで、この自己家畜化が私たちの先祖にも起こってきたことも明らかにされつつあると氏は言います。

 これまでの研究によれば、自己家畜化にともなう生物学的な変化によってセロトニンが増大し不安や攻撃性が抑えられ、より人懐こく、協力しあえる性質が人間にもたらされた由。狩猟採集生活から、集団的農耕生活に移る中で己れを変化させ、協調性や社会性を身に着けていったということでしょう。

 変化する環境の中で生き抜くため、置かれた状況に合わせて自身の在り方自体を変化させてきた人間たち。自己家畜化は今日の文化や社会を築くうえで非常に重要だったはずで、これから先も(私たち自身も気づかぬうちに)ライフスタイルや価値観の変化は続いていくのだろうと考える熊代氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。(「#2585 家畜化する日本人(その2)」に続く)


#2581 お金は使うためのもの

2024年05月11日 | 社会・経済

 総務省統計局の「家計調査報告(貯蓄・負債編)」(令和5年)によれば、全国の二人以上世帯における平均貯蓄額は1901万円とのこと。「え、皆んなこんなに貯金してるの?」と驚く向きも多いかもしれませんが、これはあくまで超お金持ちの世帯まで含めて「平均」に均しているから。中央値をとれば1000万円を大きく下回ることは(ほぼ)間違いありません。

 ちなみに、都道府県別に見た貯蓄額1位は「愛知県」の2659万円である由。そこに「兵庫県」の2582万円、「神奈川県」の2461万円が続くということで、ガッチリ倹約型の名古屋人や、横浜、神戸などのハイソな家庭の貯蓄額はやはり多いということなのでしょうか。

 反対に、最も平均貯蓄が少ない都道府県は904万円の「沖縄県」で、1位の「愛知県」とは実に3倍もの差がある状況です。各県の平均年収ランキングを見ると、愛知県の4位(733万円)、兵庫県の8位(672万円)、神奈川県の3位(734万円)に対し沖縄県は最下位(47位507万円)ということなので、理由は「南国気質でのんびりしているから」というだけではないのかもしれません。

 ともあれ、収入が多い人が貯金が多いとも限らないのはまた事実。さらに言えば、貯金が多い人が「幸せ」かと聞かれれば、(沖縄の人と名古屋の人を比べてみても)決してそうでもなさそうなのが人生や社会の面白いところなのでしょう。

 結局のところ、お金はあくまで(貯めるためではなく)使うためのもの。4月19日の経済情報サイト「BUSINESS INSIDER JAPAN」に『老後のために「貯蓄しすぎた人」が陥る 3つの落とし穴とは?』と題する記事が掲載されていたので、参考までにその内容の一部を残しておきたいと思います。

 記事によれば、世界的ベストセラーとなった『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』の著者、ビル・パーキンス氏は同書において、将来のためと節約し過ぎていると(やりたいことを)「自制」してしまい、今しかできない経験をする機会を逃してしまうと話しているということです。

 老後のために貯蓄しすぎることのどこが問題なのか。記事はここで、パーキンス氏が説く3つの理由を紹介しています。

 その一つ目は、(貯蓄を意識しすぎると)若い時しか経験できない機会を逃してしまうということ。同氏はこの著書で、将来使いきれない未知の出費のためにお金を貯めておくより、生涯をかけて賢く使う方が良いと説いていると記事はしています。

 老後の生活を意識しすぎると、若い時に人生を楽しむ能力を制限してしまうというのが氏の主張するところ。思い出作りや楽しい経験をすることは「投資」であり、そのような思い出から得られる喜びが「配当」されるということです。

 同書によれば、「早いうちに投資する方が得だ。投資を始めるのが早ければ早いほど、思い出という配当を受けられる時間が長くなる」とのこと。歳を取るとさまざまなしがらみや責任、身体的な理由でできなくなることでも、若い時なら容易にできる。若いうちにしかできない経験こそが、(真に)お金をかける価値のあるものだということです。

 さて、(貯金をしすぎることの)二つ目のリスクは、「子どもが老成してから相続しても無駄になる」ことだと記事は指摘しています。

 パーキンス氏によれば、子どもたちのためにお金を残すことは本質的に悪いことではないが、自分が死ぬまでお金をとっておくのは相続の形としてベストではないとのこと。60代の多くはすでに老後資金の準備ができていて、「子どもたちの年齢が上に行けば行くほど、お金をあげても彼らには必要ないものとなる」ということです。

 それであれば、彼らがまだ若いうちに、社会人として独り立ちする時などの資金を援助してあげる方が良い。そもそも、人生の最期までお金をとっておくというのは本末転倒だというのが氏の主張するところです。

 記事によれば、この著書においてパーキンス氏が主張する重要なポイントは、「使われないお金は失われたも同然であり、それと同時にそのお金を稼ぐために費やした時間も無駄になる」という点。

 結局、使われることのなかったお金だけでなく、(貯めこむだけの)お金を稼ぐために費やされた若さと時間があれば、貴方はどれだけの経験をすることができるのかと氏は問いかけているということです。

 稼いだお金は、自分のために有意義に使って「なんぼ」ということでしょうか。実際、世帯年収(平均733万円)の4倍近い2659万円(世帯平均貯蓄額)を貯蓄に回している愛知県民は、一生の稼ぎうちの4年間をタダ働きしているようなもの。一方、(平均世帯)年収は507万円でも、貯蓄額を1.8倍の904万円で済ませている沖縄県民は、(一生で見れば)時間やお金を有効活用していると言えるかもしれません。

 人生を振り返った時に後から残念に思わないよう、お金を必要以上に貯めている人は、貯蓄・出費ともに改めて自分の長期プランを見直しても良いかもしれないと話す記事の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2580 いちご白書をもう一度

2024年05月08日 | 社会・経済

 昨年の暮れにNHKのBSで放送され、(その際)録画しておいた1970年制作のアメリカ映画「いちご白書」を本当に久々に通しで見ました。本邦では、映画そのものよりもユーミンの楽曲「いちご白書をもう一度」で知られているこの映画。題名は知っていても、映画自体は…とおっしゃる方も多いかもしれません。

 私自身、何十年も前に一度見ているはずなのに、今回、まるで初めてのような新鮮な感覚でストーリーを追ったのも事実です。舞台となっているのは、ベトナム戦争さ中の1960年代のアメリカ西部の学生街。この街の大学で実際に起きた大学闘争をモチーフに、学生運動に身を投じる若者たちをセンセーショナルに描き、カンヌ映画祭審査員賞を受賞しています。

 キャンパスの近くの公園を軍の施設にしようとする大学側に反発し、キャンパスを占拠した学生たち。映画は、そうした危うい雰囲気の中で運動にのめりこんでいく一人の(ノンポリ)学生の心の動きと恋、そして挫折を描いています。

 第二次大戦後のベビーブーマーを中心に、(当時)世界中の都市で燃え広がっていた学生運動の炎ですが、この映画が描くアメリカの学生運動の雰囲気が日本のそれと大きく違うのは、日本的な悲壮感とか貧乏くささと一線を画している点。あくまであっけらかんと理想や自由を語る彼らの姿に、「ああやっぱりアメリカだな」思わざるを得ない自分がありました。

 さて、それはそれとして。現在、そうした歴史を持つアメリカの大学の多くで、中東問題、特にパレスチナ問題への米国政府の対応について反発する学生たちの運動が日に日に激しさを増しているという報道が続いています。最近の状況に関し、5月1日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に在米ジャーナリストの冷泉彰彦氏が『パレスチナ支持の学生運動を激化させた2つの要因』と題する論考を寄せているので、参考までに小欄にその概要を残しておきたいと思います。

 アメリカの大学におけるパレスチナ支持の学生運動が拡大し続けている。コロンビア大学に始まり、NYU(ニューヨーク大学)、イエール大学、MIT、ハーバード大学、UPenn(ペンシルベニア大学)など東北部で火が付き、西海岸のUSC(南カリフォルニア大学)やスタンフォード大学でも「テント村」が出現。これを排除するために警察が導入され逮捕者も出ていると冷泉氏は話しています。

 運動の起点になったコロンビア大ではキャンパスは立入禁止(ロックアウト)とされ、これを受けて学生たちの行動はさらにエスカレート。一部校舎が占拠され、大学は占拠者に対して退学処分を通告したということです。

 こうした状況に対し冷泉氏は、(今回の学生運動に関しては)ベトナム反戦運動やウォール街「占拠デモ」など過去のアメリカにおける若者の政治活動と比較すると、大学当局や警察の姿勢がかなり強硬という印象があると指摘しています。

 一方で、そうした強硬姿勢への学生側の反発も強く、相互に対立が激化していると言える。学生たちが主張する「イスラエルが行っているのはジェノサイド(大量虐殺)だ」という主張に対し、当局サイドには「アンチ・セミティズム(反ユダヤ)」は人種迫害を伴う重大な犯罪だ」というロジックが共感を持って受け止められているということです。

 それでは、これまで平静さを保ってきた米国の大学において、パレスチナ支持の学生運動はなぜこれほどまでに支持され、さらにそのことが米国世論に大きな対立生むことになっているのか。その背景には、米国国内の世代感覚のズレという問題があるというのが冷泉氏の認識です。

 現在の大学生、つまり18~22歳というのは、2001年の「9.11テロ」以降に生まれた若者たち。氏によれば、(彼らは)物心がつく頃にはブッシュ政権がイラク戦争の失敗で批判され、オバマ政権からトランプ政権の時代に10代を過ごした人たちだと氏は言います。

 なので勿論、全米がテロの脅威を感じた時期の空気感は知らない。反対に、イラク戦争の行き詰まり、アフガン戦争の泥沼化と撤兵といった時代の空気を吸って成長した世代であり、パレスチナが多くの国に承認される前に、PLOやPFLPなどが武闘路線を取っていた時代のことなど知る由もないと氏は話しています。

 学生たちは現在、イスラエルによるガザ攻撃で多くの民間人犠牲者が出ている事態の中で、パレスチナ側を被害者として連帯を表明している。そのシンボルとして、学生たちは黒、白、緑の三色に赤の三角を入れたパレスチナ国旗を掲げ、そして白黒のバンダナを身につけることにも何の抵抗感もないように見えるということです。

 そのこと自体は、アメリカ社会が「9.11テロの呪縛」から自由になったことを示していると氏はここで指摘しています。しかし、イスラエル支持の各家庭では、親の世代が「あれではテロリストに連帯しているようなもの」だとして激しく抗議をしている。金融機関などユダヤ系の大企業も、そうした学生運動を制圧できない大学に対し寄付を止めるなどの動きを見せているということです。

 学生側は現在、「大学の基金がユダヤ系の金融機関で運用されている」ことへの激しい抗議を始めていると氏はしています。その趣旨はつまり、ガザでの民間人犠牲に加担しているユダヤ系金融機関や軍産複合体とは大学は「縁を切るべき」であり、そのための情報開示を強く要求するというもの。そして、その根底にあるのは、米国の社会や経済が抱える大きな欺瞞や権力システムの在り方に対する、学生なりの(ある意味大変素直な)反応なのかもしれません。

 「いちご白書」はもう一度繰り返されるのか、予断を許さない状況にあると聞きます。そこには、リーマン・ショック以来の若者世代による「ウォール街不信」のトレンドが投影されているとも言えると記事に記す冷泉氏の指摘を、私も今回興味深く読んだところです。


#2577 改めて「豊かな社会」とは?

2024年04月29日 | 社会・経済

 国連開発計画(UNDP)が、世界各国の国民の豊かさを示す「人間開発指数」について最新の報告書を発表。日本の順位は前回(の22位)より2つ下がって24位となった旨、3月15日のNHKニュースが報じています。

 「人間開発指数」とは、国民ひとりあたりの所得や教育、平均寿命をもとに算出したその国の暮らしの豊かさを示す指標とのこと。今回の報告で1位となったのはスイスで、2位がノルウェー、3位がアイスランドの由。このほか、韓国が19位、アメリカが20位、ロシアが56位、中国は75位に位置付けられたということです。

 報告書によると、新型コロナの感染拡大の前後で先進国と途上国の間で格差が拡大し二極化が進んでいるとのこと。OECD(=経済協力開発機構)に加盟する(先進)38か国はすべて2019年の水準を上回った一方で、18の途上国はコロナ以前の水準を下回ったままだとされています。

 一国の「豊かさ」というのはなかなか測りづらいものですが、自由になるお金が多ければ豊かな社会かと言えば必ずしもそうではないでしょう。また、それなりにゆとりのある生活ができていたとしても、格差や不公平感の大きい社会で暮らしている人が豊かさや満足感を感じるのは容易いことではないかもしれません。

 国民一人当たりのGDPや可処分所得の低下が指摘されることが多くなった日本人の「豊かさ」について、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年5月の自身のブログ(「内田樹の研究室」2023.5.1)に『豊かな社会とは』と題する一文を掲載していたので、この機会に小サイトに概要を残しておきたいと思います。

 今の若い人に「日本は豊かな国ですか、貧しい国ですか?」と訊ねたら、たぶん半数以上が「貧しい国です」と答えるだろう。平均給与はOECD28か国中22位、ジェンダーギャップ指数は146か国中116位、報道の自由度ランキングは180か国中71位などの数字を見ても、日本は貧しく、不自由で、生きづらい国であることは(おそらく)間違いないというのが内田氏の認識です。

 本来「豊か」というのは、私財についてではなく、公共財についてのみ用いられる形容詞であるべきだと氏はこの論考で指摘しています。

 仮にメンバーのうちの誰かが天文学的な富を私有して豪奢な消費活動をしていても、誰でもがアクセスできる「コモン(共有)」が貧弱であるなら、その集団を「豊かな共同体」と呼ぶことはできない。身分や財産や個人的な能力にかかわらず、メンバーの誰もが等しく「コモン」からの贈り物を享受できることが、本質的な意味での「豊かさ」だと氏は言います。

 私財の増大よりも、メンバー全員を養うことができるほどにコモンが豊かなものになることを優先的に気づかう態度のことを「コミュニズム」と呼ぶ。「貧富」は個人について語るものではなく、共同体について言うもだというのが氏の見解です。

 私たちにとって死活的に重要なのは、われわれの社会内にどれほど豊かな個人がいるかではなく、われわれの社会がどれほど豊かなコモンを共有しているかにあると氏は言います。ある社会が豊かであるか貧しいかを決定するのは、リソースの絶対量ではなく、その集団の所有する富のうちのどれほどが「コモン」として全員に開放されているかだというのが氏の指摘するところです。

 この定義に従うならば、日本だけでなく、今の世界はひどく貧しい。世界でもっとも裕福な8人の資産総額が、世界人口のうち所得の低い半分に当たる37億人の資産総額と等しいという現状を、「豊かな世界」と呼ぶことは到底できないと氏はここで説明しています。

 一方、そのことに気づいて、もう一度日本を「豊かな」社会にしようという努力を始めている人たちがいる。それは別にGDPをどうやって押し上げるかという話ではなく、どうやってもう一度「コモン」を豊かにするかということだということです。

 最近、私の周囲でも、私財を投じて「みんなが使える公共の場」を立ち上げている人たちをよく見かけるようになったと氏は言います。私(←内田氏)自身も10年ほど前に自分で神戸に凱風館という道場を建てた。畳の上に座卓を並べてゼミをしたり、シンポジウムをしたり、映画の上映会や浪曲、落語、義太夫などの公演を行うなど、ささやかながら(これも)一つの「コモン」だと思っているということです。

 そうした(ささやかな)コモンを日本中で多くの人たちが今同時多発的・自然発生的に手作りしている。そして、気がつけばずいぶん広がりのあるネットワークが形作られつつあると氏はしています。

 この手作りの「コミュニズム」は、(かつてのソ連や中国の共産主義とは違い)富裕者や社会的強者に向かって「公共のために私財を供出しろ。公共のために私権の制限を受け入れろ」などと強制することはない。公共をかたちづくるためにまず身を削るのは「おまえ」ではないし「やつら」でもなく、「私」だというところが新しいコミュニストたちの姿だということです。

 「豊かな社会」というのは、そう思い切り、努力をいとわず身を斬る人がいて初めて形作られていくもの。同意してくれる人はまだ少ないかもしれないが、私はそう確信していると話す内田氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2576 縮む日本経済

2024年04月27日 | 社会・経済

 3月4日、東京株式市場で日経平均株価が続伸し、初めて4万円台に乗せました。半導体関連を中心とした米ハイテク株高を背景に、東京市場でも半導体関連の銘柄の上昇傾向は変わらず、4月に入っても、企業の業績拡大や資本効率改善を期待する国内外からの投資マネーの流入が続いているとされています。

 株高をけん引しているのは、国内企業の好調な業績にあるとのこと。東証プライム市場に上場する企業の2024年3月期の純利益は、3期連続で過去最高を更新する見通しであり、日本企業のガバナンス改革の進展もあいまって、海外投資家の日本株買いを支えているようです。

 思えば、米金融危機後の2009年3月に、バブル崩壊後の最安値である7054円をつけた日経平均。15年ほどの歳月を経てようやくバブル最高値に並び、約5.7倍にまで押し戻した形になります。

 とはいえ、「失われた」と言われる30年を取り戻すにはまだまだ時間もかかることでしょう。割安感から海外投資家を中心に急激に買いが進んだ日本株もそろそろ息切れ。一服感が現れるとみる向きも多いようです。

 そうした折、3月2日の日本経済新聞の経済コラム『大機小機』に、「株最高値でも縮む日本経済」と題する一文が掲載されていたので、参考までに小サイトに一部を残しておきたいと思います。

 日本が国内総生産(GDP)でドイツに抜かれたことで、ショックを受けている日本人も少なくないと聞く。実際、就業者数でドイツは日本の6割、労働時間は8割にすぎず、それだけ見ても日本の生産性の低さにはため息が出ると、筆者はコラムで指摘しています。

 さらに、日独の3位4位集団は、近い将来に5位のインドに抜かれる公算が大きい。日本人が好んで使う「経済大国」という看板は、そろそろ降ろした方がいいかもしれないというのが筆者の感想です。

 日本経済の占めるシェアは、今やわずかに世界の4%強。世界経済が「15年ごとに倍増」のペースで成長を続けてきた中で、日本がほとんど成長しなかった。ゆえにこの比率は、今後も低下していくと考えるべきだと筆者は言います。

 にもかかわらず、私たちの脳裏からは「世界第2位の経済大国」だった頃の意識がまだまだ抜けきれていない。「日本はアジアの盟主たれ」とか、「××問題で世界をリードせよ」といったレトロな標語は、さすがに気恥ずかしく感じられるのではないかというのが筆者の指摘するところです。

 海外から見たこの国は、もはや「憧れの先進国」ではない。特段の強みを持つわけでもなく、いくら日経平均株価が史上最高値を更新しても、世界の時価総額に占める日本株比率はわずかに6%程度だと筆者はコラムに綴っています。

 安くて安全で(気軽に)遊びに行くのに適し、美食とサブカルチャーも人気。東アジア周辺国や東南アジア各国からインバウンド客を集めるこの日本。しかし学びに行くには大学のレベルが高くなく、稼ぎに行くには賃金が魅力的でない。まずはそんな等身大の自画像を直視することから始める必要があるというのが筆者の見解です。

 1990年代前半、世界の6分の1程度のシェアを有していた日本経済。当時の日本は良くも悪くも影響力があり、若くして大きな舞台を踏めた。円高を生かして海外体験を積むことも容易だったと筆者は言います。

 しかし現在では国家の存在感が低下し、円安定着で海外留学へのハードルも高い。次世代の政官財のリーダーをどう育成するのか。これをおろそかにすると、日本はますます埋没するだろうというのが筆者の懸念するところです。

 とはいえ、嘆いてばかりいられないのもまた事実。スポーツ界では、世界で活躍する「若くて強い日本人」が数多く登場している。それが何かヒントにならないか、と夢想しているとコラムを結ぶ筆者の指摘を、私も頷きながら読んだところです。


#2573 風が吹けば桶屋が儲かる?

2024年04月21日 | 社会・経済

 ある事態が発生したことにより、一見すると全く関係がないと思われる場所や物事に影響が及ぶことの例えに、「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉があるようです。同様に、最近では「バタフライ効果(butterfly effect)」などという言葉もあって、蝶が羽ばたくようなわずかな事象の影響で、その後の状況に(思いもしなかったような)大きな変化が生まれる可能性なども指摘されているところです。

 桶屋の諺に話に話を戻せば、その因果関係は①大風が吹けば土埃が立つので眼病疾患者が増加する→②増えた盲人などが三味線を生業とし門付で演奏したりするようになるので三味線の需要が増える→③三味線の製造には猫の皮が必要なので巷から猫が減り鼠が増加する→④鼠が増えると桶が齧られることが多くなるので桶屋が儲かる…といった具合です。

 こうした状況であれば、眼医者や害虫苦情業者などの方が桶屋よりも(ずっと)儲かりそうですが、まあ、その論理展開の突飛さがゆえに、「こじつけの理論」を揶揄する際の笑い話として長く語り継がれてきたのでしょう。

 ともあれ、長く人の口の端に上ってきた「諺」の類の多くが、こうして(よくある)人間の愚かな行動を笑い飛ばすための英知であるのも事実です。そうした中、4月9日の日本経済新聞では、編集委員の大林尚氏が『格言で斬る「子育て支援金」』と題する一文を寄せ、岸田首相肝入りの「異次元の少子化対策」の財源に関する政府見解を斬っています。

 岸田文雄首相が唱える「異次元の少子化対策」。必要財源を確保するための焦点となっているのが、健康保険料に上乗せして徴収する「子ども・子育て支援金」だと大林氏はこの論考に綴っています。

 支援金は社会保険料だと首相は言うが、これは「負担と給付の関係が明確」という原則に反する。政府の論法は、「①対策が奏功すれば子供が増える→②保険料を払う若者や将来世代が増える→③保険財政にプラス→④健康保険制度の持続性が高まる」というものだが、これはもう「風が吹けば桶屋がもうかる」の論理以外の何物でもないというのが氏の見解です。

 こども庁は、制度が完成する2028年度に(公費を含めた)支援金総額が1兆3000億円になると見積もっている。これは、ざっと計算すると消費税率0.5%分の「増税」に値するが、それでも首相は「実質的な国民負担は増えない」と繰り返していると氏は言います。

 そのからくりは、①「働き手の賃上げ継続」と②「歳出改革に伴う社会保障給付費の圧縮」の2点にある。政府の論理は、社会保障負担率を下げ、その範囲内に支援金の徴収額を収めるというものだが、これは詭弁に過ぎないというのが氏の感覚です。

 そもそも、今回の(支援金の)保険料負担への上乗せと、「賃上げ」や「医療費の抑制」などは関係のない話。実際に賃上げを継続する力を生み出すのは民の創意工夫にあるのであって、それを当て込む政府は「人のふんどしで相撲を取ろうとしている」に他ならないということです。

 社会保障給付費の歳出改革は経済界や財務省が長年、必要性を主張してきたが、いざという段になると改革を阻む政治力に翻弄され、頓挫を繰り返してきた。要は、賃上げ継続も歳出改革も「捕らぬたぬきの皮算用」になる可能性が高いと氏は話しています。

 さらにこの法案の概要には、「国は、少子化対策に必要な費用に充てるため、医療保険者から子ども・子育て支援納付金を徴収する」「医療保険者が被保険者等から徴収する保険料に納付金の納付に要する費用を含める」とある。

 ここで言う「納付金の納付に要する費用」は(まさに)「子育て支援金」のことであり、企業の健康保険組合や協会けんぽなどが被保険者と事業主から集めた健康保険料の一部を支援金としてこども庁が「召し上げる」と読めるということです。

 その実態は、(言うまでもなく)政府が保険料を支援金として流用するというもの。問題は、制度としての熟度が低い支援金について官僚が経済団体や労組団体などを回って「反対せぬように」と根回しをしていたことだと氏はしています。

 かつて国民健康保険の料率決定を市長に委ねる条例が租税法律主義に反するか否かが争われた「旭川訴訟」の判決で、最高裁は料率決定などには議会審議による民主的統制がおよぶ必要性を指摘した。(判決からも判るように)支援金の性格、負担の基準、徴収法などの決定はまさに国会での熟議という民主的統制を及ばせるべきものだというのが、氏が最後に指摘するところです。

 社会保険料は、政府が意のままに操ることができるような財源でないことは言うもでもありません。審議前から反対するなと言いくるめるような、「よらしむべし知らしむべからず」はごめん被りたいと話す大林氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2572 「日経平均最高値」の軽さ

2024年04月16日 | 社会・経済

 年明けから騰勢を強め、2月22日にはバブルに市場が沸いた1989年12月末に記録した終値ベースの最高値3万8915円を34年ぶりに更新した日経平均株価。3月に入ってもその勢いは止まらず、4日には大台の4万円超えも達成した東京市場は、現在、海外投資家が最も注目する存在となっているようです。

 思えばバブル経済から転げ落ち、「失われた30年」と呼ばれる長期の低迷に沈んだ日本経済。この間、例えばNYダウは約13倍に成長するなど、日本だけが(成長から)取り残されてきたのが現実です。

 経済紙の(「史上最高値更新」「40000万円台」といった)浮かれた見出しに目が行きがちな昨今ですが、少し落ち着いて見れば、長年の遅れを少しずつ取り戻しているだけと言えないでもありません。

 こうした現実を踏まえ、2月29日の日本経済新聞に同紙編集委員の志田富雄氏が、『「金の物差し」では株価急落 商品価格上昇と縮む日本』」と題する論考を掲載していたので、参考までに概要を残しておきたいと思います。

 日経平均株価がいよいよ1989年末に記録した最高値を更新した。しかし、資産としての価値を着実に高める「金」を物差しにすると株価の見方は大きく変わってくると、志田氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 当時の国内円建て金小売価格は消費税込みで1グラム2000円弱。1万円を超す現在は5倍強に値上がりしていると氏は言います。(つまり)代表的な現物資産である金を物差しに見れば、34年余りで最高値の価値は、実に5分の1以下に減少したことになるというのが氏の指摘するところです。

 株価が最高値を記録した1989年末の商品市況を振り返ると、同年の仕事納めだった12月28日、海外の金価格はニューヨーク市場の先物(期近)、ロンドン市場の現物値決めともに1トロイオンス400ドル。第2次石油危機後の80〜90年代は国際商品相場の低迷期で、金1オンスが300ドルを下回る場面もあったと志田氏は言います。

 一方、今世紀に入ると(一転)長期の上昇相場に移り、現在は2000ドル前後とちょうど5倍に値上がりしたということです。氏によれば、金の国内価格は国際相場に為替相場を加味して決まるとのこと。現在は、為替相場は1ドル=142〜143円ほどだった当時よりも円安の状況にあると氏はしています。

 また、国内で現物の金地金は消費税を含む価格で売買され、税率は消費税が導入された89年の3%から10%に引き上げられている。結果、小売価格の上昇倍率は89年12月28日の1グラム1936円の約5.6倍と国際相場の上昇率を上回るということです。

 そうした前提で株式市場のバブル高値を当時の金価格で割ると、日経平均株価で買える金の分量は20グラムほど。一方、最高値を更新した(今年の)3月22日では金価格が大幅に上昇(1グラム1万822円)したことで、1日経平均=3.6グラムと5分の1以下にすぎないと氏は話しています。

 さて、「金」は世界共通の現物資産であり、株や債券相場などとの相関性は高くないとされる。その金を物差しにすれば同じ「最高値」の重みがいかに軽くなったかが分かるというのがこの論考における氏の見解です。

 実際、「現在の金価格」をベースに逆算すれば、バブル景気に押し上げられた34年前の日経平均は21万円台に相当するとのこと。

 日本がデフレに苦しみ、停滞してる間に世界の姿は大きく変わった。原油は1バレル21ドル台だった米原油先物が足元の調整局面でも78ドル台に。1トン1500ドル前後だったロンドン金属取引所(LME)の銅3カ月先物も8000ドルを超す水準にあると氏はしています。

 大幅に切り上がった国際商品相場は、新興国がけん引する世界経済の変化を映す。実際、34年前には800以下だったインドの主要株価指数(SENSEX)は23年12月に7万を超え、先物、オプションといった金融派生商品の売買枚数では、インド国立証券取引所(NSE)が世界を席巻していると氏は言います。

 一方、金市場でも80年代〜90年代半ばは日本が世界最大級の需要国で、86年には輸入量が600トンを超えていた。しかし、今世紀に入ると日本は主要国で異例の純輸出国に転じ、世界経済のけん引役として台頭するアジア、中東などのグローバルサウス諸国に向っているということです。

 急落した金建て株価は世界経済が成長し、さまざまな商品相場が上昇する中で相対的に縮んだ日本の姿と重なると、氏はこの論考の最後に綴っています。

 革新的な企業が次々と育つ土壌を整え、国民の実質所得が増えて消費が拡大すること。「世界の例外」から抜け出すためには、こうした力強い成長への期待感が高まらなければならないと結ぶこの論考における志田氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2570 どうしたら個人消費を拡大できるか

2024年04月12日 | 社会・経済

 政府は、2月21日に発表した2月の「月例経済報告」において、国内の景気判断を1月の「このところ一部に足踏みもみられるが、緩やかに回復している」から、「このところ足踏みもみられるが、緩やかに回復している」に(一見よく判りませんが)一段階下方修正したということです。

 その原因は、賃金上昇が生活必需品等の物価上昇に追いつかず、個人消費が低迷していることにある由。先行きは、堅調な企業業績と春闘での賃上げ期待から緩やかな回復基調にあるとされていますが、その足取りは力強さに欠けいまだ目の離せない状況にあるようです。

 実際、日本の個人消費は、景気の持ち直しが顕在化した2023 年以降も依然弱い動きが続いており、世帯タイプ別にみると、引退世帯の消費は堅調を維持する一方で、特に勤労者世帯の消費が弱含んでいると指摘されています。

 こうした背景には、(第一に)引退世帯では食料などの生活必需品の支出割合が高いため価格が上昇しても購入数量を減らしにくいこと、一方の勤労者世帯では、選択的支出への割合が高く、物価高で消費が抑制されやすい傾向にあることなどが挙げられています。

 また、引退世帯では年金給付額が政策的に引き上げら、金融資産を多く保有する世帯を中心に株高による財産所得の増加が可処分所得を押し上げる一方で、勤労者世帯は賃上げ幅にバラツキがあるため、多くの低所得世帯で所得の増加が物価上昇に追いついていないことなども指摘されているところです。

 コロナ禍以降のこの数年、財政負担を省みず次々と(時には「バラマキ」とも取られるような)経済対策を打ち出してきた政府ですが、それでもなぜ日本の個人消費は大きく回復しないのか。

 3月25日の日本経済新聞のコラム『経済教室』に、京都大学教授の宇南山卓(うなやま・たかし)氏が「個人消費、低迷脱却の条件 現役世代重視した再分配を」と題する論考を寄せていたので、参考までに一部を紹介しておきたいと思います。

 氏によれば、今年1月の家計調査では、消費支出は前年同月比で実質マイナス6.3%だったとのこと。11カ月連続のマイナスで、特に勤労者世帯でマイナス7.7%と大きく下落し、引退した高齢者がメインの無職世帯ではマイナス1.9%だったということです。

 個人消費はなぜ低迷するのか。ライフサイクル理論における「消費の決定」では、大きく2つの前提を置いていると氏はこの論考で話しています。

 第1に人間は「消費の変動を嫌う」ということ。多くの人は贅沢と貧困を繰り返す不安定生活よりも、一定の生活水準を保つ方が望ましいと考える。言うなれば、「アリとキリギリス」で言えばアリの人生の方が望ましいと考えるのは、経済学の教える「人間の普遍的な性質」だということです。

 第2に、家計は常に予算制約に直面しており、生涯を通じた合計の消費は利用可能な経済資源の量(生涯可処分リソース)の範囲に限定されることが前提だと氏は説明しています。生涯可処分リソースとは、預金などの手持ちの資産や現在の所得に加え、受け取り予定の将来の賃金や年金なども含む「自分が使える(と見込む)お金」のこと。これを人生のどのタイミングで使うかを決めることこそが消費の決定だというのが氏の指摘するところです。

 それでは、この2つの前提から導かれる「最適な消費行動」とは何なのか。それは、生涯可処分リソースを一定のペースで使う行動だと氏は話しています。単純化すれば、各時点での消費は生涯可処分リソースを生涯の長さで割ったものになる。例えば大卒の平均生涯賃金がおおむね3億円なら、それを使い20歳から80歳まで生きるとして、毎年500万円を消費するのが望ましい形になるということです。

 さて、こうした構造を前提にすれば、消費回復のために政府ができることは(実はそれほど)多くない。特に、近年繰り返される消費刺激策には効果がないことは明らかで、政府からの所得移転は生涯を通じて平準化して使われるため、消費には大きな影響を与えないというのが氏の見解です。

 一方、(例え消費を政策的に増やすのは難しくても)政府にはできることもある。それは、世帯間での資源配分を変更する「再分配」だと氏はこの論考で指摘しています。 マクロ全体で生涯可処分リソースを引き上げるのは無理としても、税や給付金を使って再分配はできる。結果、長期的には消費水準にも影響を与える可能性があるということです。

 経済学で再分配政策といえば、高所得者から低所得者への所得移転のこと。本来は累進課税などの制度的な仕組みで考えるべきだが、実際は簡易な「制限付き給付政策」が実質的な再分配政策を担っていると氏は説明しています。

 氏によれば、近年の日本で特に採用されるようになっているのが「住民税非課税世帯」を対象とした政策とのこと。2021年には子育て世帯に給付金が支給されたが、同時に住民税非課税世帯にも1世帯あたり10万円の給付があった。22年には光熱費や食料品価格の高騰に対応して1世帯あたり5万円が給付され、今回の定額減税でも「減税の恩恵がない」として1世帯あたり10万円の給付が決まったのは記憶に新しいところです。

 確かに、住民税非課税世帯は所得が一定以下の低所得世帯なので、(こうした政策は)一見すると妥当な選択に見える。しかし、ライフサイクル理論の観点からは必ずしも適切な政策対象ではないと、氏はここで(この手法に)疑問を投げかけています。

 それは、「ある年の所得」が適切な政策対象の選択基準ではないから。所得水準はライフステージに応じて異なる。その違いを考慮しない一律の基準を用いれば、低所得者は高齢者に偏り、若年貧困世帯の多くは除外されてしまうと氏はしています。

 対象を細かく見ていくと、この「住民税非課税世帯」の実に75%が65歳以上の世帯で占められていることが判る。逆に65歳以上の世帯に占める割合で見ても35%と、決して例外的な貧困高齢者だけが給付対象となるわけではないということです。

 実際、この「住民税非課税世帯」の約半数は1500万円以上の資産を持っている。生涯可処分リソースの観点で見れば彼らは決して「貧困層」とはいえず、再分配の対象としては不適切だと氏は指摘しています。

 氏によれば、むしろ再分配すべきは「現役世代」とのこと。社会保障の負担、コロナ禍による経済活動の低迷、急速なインフレなどで現役世代の生涯可処分リソースは停滞する一方。現役世代内での格差や高齢者の貧困も重要な課題だが、年金などの安定した所得のある高齢者と現役世代との差は消費動向にも表れているということです。

 高齢者を優遇する「シルバー民主主義」の懸念が指摘される昨今ですが、「少子化対策」の名の下に、政府もようやく現役世代に目が向いてきたところ。この際、高齢者の御機嫌取りのような給付に見切りをつけて、政策目的に応じたEBPM((エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング:証拠に基づく政策立案)を重視していく必要があるということでしょう。

 その意味で言えば、減税という枠組みを使ったり児童手当を拡大したりすることは、現役世代を重視した再分配となり望ましいと、氏はこの論考の最後に話しています。お年寄りにお金を渡してもただ貯金の額が増えるだけ。消費動向を考えれば、世代間の再分配に(もっと)注目していく必要があるとこの論考を結ぶ宇南山氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。