MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2545 人生の方向性が決まるのは15歳

2024年02月19日 | 教育

 モータースポーツの世界で、2024年の全日本スーパーフォーミュラ選手権参戦が発表された野田樹潤(Juju)選手のヨーロッパでの武者修行の姿を追った、テレビのドキュメンタリー番組を見る機会がありました。(1月13日TBSテレビ『バース・デイ』)

 元F1ドライバーとして活躍した野田英樹の娘である樹潤選手は現在17歳。幼いころからフォーミュラマシンをドライブし、中学卒業後に家族で渡欧してからは、デンマークF4や女性のみで争われるWシリーズなどに次々と参戦。ユーロフォーミュラ・オープンでは史上初の女性優勝を飾るなどの活躍をみせてきました。

 2024年はいよいよ日本に戻り、50年の歴史があるアジア最高峰のフォーミュラカーレース「全日本スーパーフォーミュラ選手権」への参戦も決まっている樹潤選手。キャンピングカーで家族と共にヨーロッパのサーキットを回り、自らの未来をいきいきと切り開いていく17歳のリアルな姿に、圧倒された視聴者も多かったのではないでしょうか。

 思えばこの日本でも、世界的に活躍する若者の姿が目立つようになりました。オリンピックなどのスポーツの世界でも、スケボーなどのストリート系競技を中心に10代の活躍には目を見張るものがあります。音楽やバレエなどの芸術の世界でも、日本の10代は名だたる国際コンクールで頭角を現しているということです。

 多くの日本の若者たちが高校に入学する15歳は、昔で言えば「元服」の歳。(いつまで「子ども」でいるのだか)だらだらと高校生活を送る10代も多い一方で、人生の進路を一気に絞り込み、今できることに懸命に取り組む10代の姿は清々しくも美しく輝いて見えます。

 実際、野球の大谷翔平にしろ、将棋の藤井聡太しろ、一つの世界で「一流」の名をほしいままにできるような人は、実は中学を卒業するころまでに、自分の進む道を見つけているケースが多いという話も聞くところです。

 とは言うものの、自分が15歳の時に「どのようであったか」というのとはまた別の話。子どものままではいられず、かといって大人にもなりきれない自分を持て余す不機嫌そうなニキビ面を晒していたのは、(今思えば)恥ずかしいばかりです。

 さて、そんなことを感じていた折、12月28日の経済情報サイト「MINKABUマガジン」が、日本宗教連盟・理事の宍野史生氏による『人生の方向性が決まるのは「15歳」の理由』と題する記事を掲載していたので、小欄にもその概要の一部を残しておきたいと思います。

 「自分に合った生き方」とはどんなものか…こうしたことは一定の年齢を迎えるまでには結論を出すべきだが、私はその年齢は15歳だと思っていると宍野氏はこの論考に綴っています。人の寿命がまだ短かったということもあるが、かつての日本で男子は15歳で元服という儀式を行い一人前の人間として社会への仲間入りを果たすことになった。15歳というのはひとつの人格が形成される時期であり、ここ日本では長く、人生の方向性が決まる分かれ道だったということです。

 人は年齢を重ねるごとに余計な情報を取り込み、本当に自分が望んでいることが何なのかわからなくなってくると氏は言います。自分は何が好きで何が嫌いか。何が得意で何が苦手か。どんな人生を歩んでいきたいのか…。しかし、正直言うと、今の日本の社会ではそんな15歳はなかなか出てこないだろうというのが氏の見解です。その最たる原因は、受験最優先の教育にある。いまの学校は、社会性を度外視し、子どもたちを非現実的な世界に押し込めているだけだということです。

 教員たちは学校というシステムの中でしかものを考えず、学校における価値観のみが子どもを支配してしまっている。それは「多様性」とはかけ離れたものであり、そんな場所に閉じ込められていては、自分の将来の姿を想像することなどできないというのが氏の指摘するところです。

 日本では、「不登校」や「ニート」「引きこもり」が社会問題となっているが、その実、彼らの中には学校によって押し付けられた価値観に迎合することができなかっただけというケースも多いだろうと氏は話しています。「6・3・3・4制」の下、義務教育を終えたら高校に進学し、いい大学に入りいい会社に就職する。ルートに乗っていればそれでよいと考え、親たちは子どもの可能性を学校や教師に任せきりにしているということです。

 「ルートに乗せる」のではなく、いろんな可能性を見い出し、体験させ、「自分は何が好きなのか」を考えさせること。そして、そうした中で必要になるのが、能力のある子どもには飛び級をさせるということだというのが氏の見解です。

 これはもう、海外では普通にあることなのに、なぜか現在の日本の学校には好まれない。その理由は簡単で、一旦飛び級を認めてしまうと、学校の存在意義がなくなってしまうからだと氏はしています。一方、スポーツの世界などでは「6・3・3・4制」などに従って日本に残っていてはすぐに使い物にならなくなってしまう。そこで、プロになるようなトッププレイヤーたちは 15歳の時点ですでに日本を離れ、当然のように海外でトレーニングしているということです。

 職人の世界も同じこと。世界に誇れるものだった日本のものづくりの技術も、今では胸を張って誇ることができない状況になっていると氏は話しています。

 戦後の日本の技術を支えたのは、当時15歳で集団就職をした人たちだったが、今ではこの技術を伝える相手がいないのが実際のところ。職人が技術を身に着けるには大学を卒業してから始めるのでは遅く、15歳からの5年間を使って体に覚えさせる必要がある。体が技術を吸収できる時期というのは限られているというのが氏の指摘するところです。

 結局のところ、大人たちが(あくまで)平均的な日本人のために設定された「スタンダード(標準)」な教育課程を絶対視するあまり、個々人の特性や素質への目配りを忘れたことが本人から貴重な5年間を奪っている。結果、日本の若者自身の不幸を招いているということでしょうか。

 規格外の才能を伸ばすには、時に(個人の能力に合った)規格外の教育が求められる。時代は既に「大量生産」ではなく、「オーダーメイド」の時代に移ったということなのかもしれないなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。


#2527 高校無償化で独走する東京都

2024年01月11日 | 教育

 東京都の小池百合子知事が、来年度から高校と都立大学の授業料について、支援の所得制限を撤廃して実質無償化すると発表し話題になりました。 

 公立学校に通う高校生に対しては、既に国の支援により全国一律で世帯年収910万円未満の家庭を対象に授業料の無償化が図られています。一方、私立学校に通う生徒に対する支援は各都道府県によって対応が異なっており、東京都の場合、都内の私立高授業料の平均に相当する47万5000円を上限に助成することで、実質的な無償化が図られています。

 そして今回の発表は、2024年度の予算に新たに555億円を盛り込み、この(世帯当たり910万円という)年収条件を撤廃。私立を含む全ての高校の授業料を実質無償化しようとするものです。

 小池知事は記者会見において「経済的な状況にかかわらず、子どもたちが、みずからの思いで進路を選択できるような東京を実現していく」と述べましたが、これはあくまで財政状況に余裕のある東京都だからできること。

 住んでいる場所の違いによる格差が広がることに対し、神奈川、埼玉、千葉など近隣県の保護者から不満が上がっているほか、(東京に集中している)私立学校への受験生の流出を懸念する近隣県の私立学校からは、「経営権を損なう」「経営上の危機」といった強い反発の声も聞かれています。

 さらっとニュースを聞くだけでは、「さすが小池さん」「子育て対策に手厚くてありがたい」などと感じる都民も多いことでしょうが、都立高校の定員割れなども進む中、特に私立を優遇する形となる突出した東京都の対応に、教育現場は混乱を見せている観もあります。

 加えて(これは毎回のことではありますが)、今年7月に都知事選挙を控える小池知事お得意の「人気取り」「選挙対策」といった声も聞こえてくる中、私も一人の都民として、この税金の使い方には(何となく)違和感を覚えないではありません。

 そうしたことを感じていた折、12月20日の情報サイト「Newsweek日本版」に経済評論家の加谷珪一氏が、『高校無償化、東京都の「独走」で何が起きる? 小池都知事の思惑と、実現時のインパクトとは』と題する論考を寄せていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 小池百合子都知事は2023年12月5日、都議会の所信表明において、私立高校も含む全ての高校の授業料を実質無償化する方針を明らかにした。これまで都の授業料助成には所得制限が存在していたが、これを撤廃し、併せて給食費の支援も行うことを明らかにしたと加谷氏はことの経緯を説明しています。

 都政として教育支援を強化する流れを鮮明にした小池知事。小池氏はもともと教育無償化を強く主張していたこと、24年夏に知事選が控えていることなどもあるが、このタイミングでの表明にはもう1つの狙いがあったはずだというのが加谷氏の見解です。

 それは、国政に対する自身の影響力の維持というもの。所信表明において小池氏は、教育支援は本来、政府主導で行うべきと発言、国政への注文がセットになっていたと加谷氏は話しています。

 岸田政権がほぼ同じタイミングで多子世帯の大学無償化を含む「こども未来戦略」を打ち出し、国民民主党の前原誠司氏が「教育無償化を実現する会」という新党結成を表明するなど、無償化をめぐる中央政界の動きは活発化している。

折しも、岸田政権は末期症状を呈しており、最大派閥である安倍派幹部が一斉に捜査対象となるなど、政権崩壊や場合によっては政界再編の可能性すら取り沙汰される状況に、あえて「国政に対する注文」という形で無償化を掲げた小池氏の動きは、今後の国政でこの問題がカギを握る可能性を示唆するものだということです。

 これまで教育無償化は何度も議論されながら、内容が二転三転してきたという経緯がある。子育て世帯や教育に熱心な世帯を中心に大きな支持を集める一方で、全ての人が同じ条件で学校に通えることについて異議を唱える人も存在していると加谷氏は指摘しています。

 加えて無償化政策は財政負担が大きく、政府主導で一気に無償化を進められない。そうであるが故に、政局の材料になっていた面があることは否定できないというのが氏の認識です。

 今回の小池知事の動きが選挙に関係していることは(ある意味)間違いはなく、本格的に日本全体が無償化に舵を切るきっかけとなるがどうかは何とも言えないと加谷氏言います。

 もしも単なる選挙目当ての掛け声で終わった場合、東京都のように財政的に余裕のある自治体だけが率先して無償化を進める流れとなり、近隣自治体との格差が広がるだけに終わる可能性もあるということです。

 問題の「教育格差」に関しては、東京都港区が区立中学の海外修学旅行について、1人当たり40万円の支援を行ったことが全国的にも大きな話題となった。豊かな地域に住む人が良い教育を安価に受けることができ、格差是正の役割が期待される公教育も高所得地域のほうが充実しているというのでは、公教育の在り方そのものが問われかねないというのが氏の懸念するところです。

 まさに「機を見て敏」、政治的な直観力に長けた小池都知事の面目躍如といったところでしょうか。メディアや都内の有権者の注目を浴びるポイントが分かっているからこその動きであることは、論を待たないところです。

 一方、今回の発表を受け、埼玉県民や千葉県民の中からは都内に転居したいという声も聞こえてきているということであり、首都圏を中心に「大迷惑」だと感じている政治家も多いはず。小池さんはまた敵を作ってしまったなと、思わないでもありません。

 いずれにしても、東京一極集中を加速するようなこうした東京都の大盤振る舞いに対し、国や首都圏の近隣県はどう動くのか?目の離せない状況が続いていくのだろうなと、私も改めて感じているところです。


#2503 学校の先生が不人気なワケ

2023年11月28日 | 教育

 世界最大規模の世論調査会社「イプソス」が9月21日に公表した、世界29カ国を対象にした「教育に関する意識調査2023」の調査結果。これによれば、「自分の子供や知り合いの若者に教員になるよう勧めたいか?」という設問に対し、(日本国内で)「そう思う」と答えた人の数は19%で、各国平均値(43%)を大きく下回り29カ国中2番目に低い割合だったということです。

 因みに、「あなたの国では大半の教員に十分な給与が支払われているか?」という問いに対し、「そう思う」と答えた日本人は31%で半数以上が十分ではないと考えているとのこと。さらに、「あなたの国では、大半の教員が仕事に熱心に取り組んでいるか?」という設問に「そう思う」と答えた日本人は47%で、同率の韓国とともに29カ国中の最下位。教員という職業自体への信頼も(極めて)低いことが、改めて浮き彫りにされたようです。

 実際、教員のなり手不足は深刻で、例えば2020年度採用の教員試験における公立小学校の採用倍率は過去最低の2.7倍。(こちらも倍率が低下している)中学校の5倍、高校の6.1倍と比べても、その人気は際立って低いとされています。

 そうした中、最も「狭き門」だった20年前と比べ小学校教員の採用者(全国)は約1万6700人と5倍近くも増えており、一方の受験者は約4万4700人で1500人近くも減少。定年退職を迎える教員に採用が追い付かず、人材の質の低下を懸念する声も大きくなっているということです。

 若者たちがこぞって「安定」を目指すこの時代、「学校の先生」という職業はなぜこれほどまでに輝きや魅力を失ってしまったのか。10月9日の経済情報サイト「PRESIDENT Online」に、現職の公立小学校教師である松尾英明氏が『「学校の先生は不人気職業」は真っ赤な嘘…大企業並の退職金をもらえる"教員ブランド"を貶める犯人は誰か』と題する一文を寄せていたので、小欄にその概要を残しておきたいと思います。

 現場の感覚から言っても教員の数が不足しているのは否めない。しかし、だからといって(よく言われるように)「教員=不人気」かといえば決してそういうわけではないと松尾氏はこの論考で指摘しています。

 この20年間の小学校教員採用試験の希望者数の変化を見ると、2000年に4万6156人だったものが2022年には4万636人。小学校教員採用試験の受験者総数はマイナス約5500人で、1割弱しか減っていないと氏は言います。

 一方、同時期の新成人の総数自体はマイナス44万人と、この20年で3割近くも減っている。つまり、母数である新成人全体に対して占める割合で言うと、元の2.8%程度から3.3%程度へ上昇しており、(新成人の人口に対する割合で考えれば)以前に比べ小学校教員の人気はむしろ上がっているというのが氏の認識です。

 教員採用試験の倍率が下がったのは(小学校教員が不人気になったからではなく)、単に労働人口総数に対し募集人数が大きく増えたから。現在の学校は、以前にも増して人手がかかるようになっており、例えば特別な支援を必要とする子どもへの対応や特別支援学級の増加、少人数指導への対応、算数のTT(ティームティーチング)などにより、1校あたりの定数が大きく増加していることを加味する必要があるということです。

 もとより、昭和の時代に大量採用した教員の定年により人員にぽっかり穴があいてしまった部分への補塡が急務であることは言うまでもなく、急にたくさんの教職員が必要な状況に陥り、慢性的に大量採用に至っているというのが実情とのこと。そうした中、採用試験の受験者人数を見る限り、現状でもかなり多くの人が教員を志望してくれていると氏は話しています。

 小・中学校教員の平均年収は約698万円で、2021年における民間の給与所得者の平均年収443万円よりもかなり多い。また、定年退職金は大企業並みの2417万円で、中小企業平均の約2倍。公務員として身分的にも安定しており、多くの優秀な学生の進路先の選択肢になっているということです。

 では、そこにある問題は何かといえば、文科省や自治体などの募集する側(そして肝心の教員自体)の世間に対する「足りない」キャンペーンが強すぎて、「教員不人気」というイメージに余計な拍車をかけていることだというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 それ故、職業選択の幅の最も広い東京都においては、今年度ついに小学校教員採用試験で1.1倍という超低倍率を叩き出してしまった。情報に最も敏感な大都市ならではの現象として、キャンペーンの影響が悪い方向で直撃しているように思われるというのが氏の見解です。

 確かに、教員の仕事は楽とはいえないし、業務時間が長いことも周知の通りかもしれない。子どもだけでなく保護者への対応を求められる教員の難しさは否定すべくもない現実だと氏はしています。

 しかし、業務時間が長くなりがちなのは、「より良い授業をしたい」と思いから来る授業準備や、部活動指導などへの情熱による積極的な長時間勤務によることも多い。それが問題だと言われれば立つ瀬はないが、少なくとも嫌々残らざるをえない場合とそうでない場合が混在しているのが常であり、これらはやりがいのある仕事に共通するものではないかというのが氏の感覚です。

 現場の人間が、「大変だ」「人手が足りない」と愚痴をこぼし続けるばかりでは、優秀な人材には敬遠されるばかり。まずは先生たち自身が仕事の魅力を語ることが、若者を惹きつける最大のアピールになるということでしょう。

 どんな仕事であっても、真剣にやれば大変さと楽しみの両面がある。そんな「学校の先生は楽しいぞ」ということを実感として伝えるのは、現役教員の大切な役割ではないか話す松尾氏の指摘を私も興味深く読んだところです。


#2470 必要なのは問いを立てる力

2023年09月23日 | 教育

 教育サービスを提供する「ベネッセコーポレーション」が、自動で文章を作る生成AIを活用し、小学生の夏休みの自由研究を支援するサービスを始めることになったと多くのメディアが伝えています。

 夏休み期間を前に7月25日から小学生向けに無料で提供を始めたのが、パソコンやスマートフォンで自分の興味や関心があること文字で入力すると、生成AIが研究のテーマや調べ方についてアドバイスしてくれるというサービスとのこと。

 実際には目的外の利用を避けるため、自由研究以外に使ったり不適切な言葉を入力したりすると注意のメッセージが出されるほか、子どもが自分で考えながら利用できるよう一日の質問回数に制限を設けるとされています。

 読書感想文やら朝顔の観察記録やらが一番苦手だった我が身を振り返れば、自分が小学生の頃に(生成AIのような)こんな便利なものがあったならどんなに良かっただろうと心から思いますが、あったらあったで大変なこともあるのでしょう。

 人と同じにはならないように(少しは差別化)しなければならないし、先生に質問された時には何か答えられるようにしておかなければならない。何より(AIに頼ったことを)親や先生に見つからないように細かく気を使わなければなりません。

 結果はコンピュータに任せればよいとしても、人は人で考えなければいけないことがそこかしこにありそうな感じ。さらに、もしも生成AIを生徒全員が使うようになったら、「何をやるのか」というそもそもの発想や問題への興味・関心の度合い、疑問を突き詰めていく執念みたいなもので差がついていく…ということになるのでしょう。

 そんなことをつらつらと考えていた折、7月11日の日本経済新聞のコラム「経済教室」に、東京大学教授の柳川範之氏が(生成AIの普及を見据え)「問われるのは『問う力』」と題する一文を寄せていたので、その概要を小欄に残しておきたいと思います。

 生成AIの登場によって世の中は大きく変わるといわれているが、生成AIが今後さらに発達・普及していった場合、必要とされる人間の能力とは何かについて考えてみたいと氏はこの論考で問いを立てています。

 もしも、2人の経営者が、完璧に質問に答えてくれる同じ生成AIを使うことができたら、両者の差はどこに表れるだろうか。それは当然、どのような質問をAIに投げかけるのかで決まってくると氏はこの論考に綴っています。

 どのような問いかけをするか、どんな情報をAIから引き出そうとするかで、返って来る結果は大きく違ってくる。言い方を変えれば、「質問をする力」「問いを立てる能力」こそが、生成AIが発達した時代に必要とされている能力だというのが氏の見解です。

 そう考えれば、「どこまで斬新な質問ができるか」「どこまで深掘りの質問ができるか」は、今後の知的作業の多くの部分を占めることになるだろうと氏は言います。「問いを立てる能力」が問われているのは、もちろん、生成AIを活用するときばかりではない。これからの人材に求められるのは、与えられた作業をこなすだけではなく、それぞれの持ち場で、創意工夫を行っていく能力と意欲だというのが氏の指摘するところです。

 それが今後のイノベーションや付加価値生産性の高まりにつながっていく。その基礎となるのが、「問いを立てる能力」だと氏は言います。

 その点では、学校教育も大きな岐路に立っている。もちろん、生成AIをどこまで生徒や学生に使わせるべきかというのは(足元で浮かび上がっている)大きな課題だが、より重要で深刻な問題は、問いを立てる能力をどうやって育てるかだというのが氏の認識です。

 学校教育においては、伝統的に教師が問題を出題し、生徒がそれに答えるというスタイルがとられてきた。しかし、その能力(=問いを立てる能力)を大きく育てようとすれば、生徒の側が積極的に課題や問題を考える方向性に大きくかじを切る必要が出てくるだろうと氏は話しています。

 そこでは、それぞれの分野について、関心を持ち好奇心を失わせないことが不可欠となるだろう。関心がなければ、何かを深く考えようとしないだろうし、問いが湧き出てくるようなこともないということです。

 それに加え、出てきた答えに対して(簡単に)納得しないクセというのも重要だろうと氏はしています。伝統的には教師が伝えた「正解」を、生徒や学生は素直に受け入れて、覚えるという教育スタイルがとられてきた。しかし、これではなかなか新たな問いは生まれにくい。誰が言おうとその答えに安易に納得せず、突き詰めるクセをつけさせることが、教育の現場では重要だということです。

 問いがまずあって、それに対する模範解答を導き出すだけであればAIでもできる。そんな環境で人が行う意味があるのは、そもそもの問いをどこに求めるのか、そして出された(標準的な)答えを疑い突き詰めていくことということでしょう。

 これまでのような(「正解」「不正解」と答え合わせができる)テストでは必要なスキルは手に入らない。これは社内教育においてもリスキリングにおいても、とても大事なポイントになるのではないかと考える柳川氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2467 0点から始める英語教育

2023年09月17日 | 教育

 文部科学省が全国の小学6年と中学3年を対象に2007年度からほぼ毎年行っている「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」。7月31日に2023年度の結果が公表され、特に中学3年の英語の「話す」問題の正答率が(わずかに)12.4%だったことがメディアで話題となっています。

 正答率は4年前の前回調査(正答率30.8%)をさらに18.4ポイント下回り、テストを受けた生徒の6割が出題された5問全問を不正解だったとのこと。「聞く」と「読む」の正答率が5~6割だったことを考えれば、日本の英語教育において「話す」能力がおざなりになれている実態が改めて明らかにされた格好です。

 英語の授業を巡っては、2020年度に小学5、6年で正式教科され、中学では2021年度から授業は基本英語で行うこととされています。今回受験した中学3年生はそうしたカリキュラムの変更を受ける前とは言え、読み書きを中心とした英語の授業に対する生徒の受動的な態度が、こうした結果に表れているのでしょうか。

 非英語圏の英語レベルを測る「EFエデュケーション・ファースト」(スイス)の調査によると、111カ国・地域の約210万人を対象とした2022年調査で日本は80位だったとのこと。自分自身の英会話の実力を慮っても「さもありなん」といった感じです。

 こうした状況に対し、8月3日の「Yahoo!Japan news」にジャーナリストの前屋毅(まえや・つよし)氏が、『全国学テで「6割が0点」から考えるべきは、〝英語嫌い〟の子どもを増やさないことである』と題する論考を寄せていたので、参考までにその一部を本稿に残しておきたいと思います。

 文科省が7月31日に公表した全国学力テストの結果。英語の「話す力」を測定する試験で、出題された5問のうち1問も正解できなかった生徒が6割を超え、正答が1問しかなかった生徒(20.9%)を加えると全体の8割に達したとのこと。一方、5問すべてに正答できた生徒はわずかに0.4%に過ぎなかったという惨憺たる現実を、日本の英語教育に携わる人々はどのように受け止めるべきなのか。

 2021年に中学校で全面実施となった学習指導要領では、英語でのコミュニケーション能力を育むことを大きな目標に掲げている。「コミュニケーション」というからには、「話す力」は欠かせない要素だが、これまでの学校での英語教育では重視されてこなかったのも事実だと氏はこの論考に記しています。

 従来の英語教育で育ってきた教員の多くにとってもそれは得意な分野ではない。それでも学習指導要領が新しくなって、学校現場では試行錯誤の取り組みが続けられていると氏は言います。

 一方、今回の結果について、文科省は出題の難易度が高かったと認める一方で、「出題内容は学習指導要領に沿ったもの、話す力の育成に課題があることも事実」と講評しているとのこと。これは「学校現場の教え方に問題がある」と言っているようなもので、学校現場では、ますます話す力の育成に力を入れることになるだろうというのが氏の見解です。

 もちろん、それが本当にコミュニケーションのための「話す力」ならいいのだが、日本的な傾向として「テスト対策としての話す力」になりかねない。テスト対策のための授業は、「ほんとうの英語」につながらなくなる可能性も大きいということです。

 学校における英語教育は、学習指導要領が新しくなって生徒にとっても「やらされること」が増えるばかり。そこに「もっと話す力をやれ」というのでは、益々「やらされてる感」が強まるばかりだと氏は言います。それは、子どもたちにとって「楽しいこと」ではないはずで、教員もあくせくするだけなのでなおさら楽しい授業にはならないのではないかというのが氏の懸念するところです。

 ただテストで点数をとるための強制的な学習では、英語嫌いの子供を増やすだけ。それは、これまでの「テストのための英語学習」でも証明されていることであり、「コミュニケーションのための会話力」といいながら、英語嫌いを増やしてしまっては本末転倒でしかないということです。

 「0点が6割」の状況から始めるべきことは、テストで点数をとらせる方法を教えることではない。(この機会に)学校現場における英語教育の在り方そのものを考え直すことから始めるべきではないかと、氏はこの論考の最後に話しています。

 これまでのような教え方で、本当にコミュニケーションの役に立つ英語を身につけることができるのか。テストでプレッシャーをかけるやり方で、本当に英語が身につくようになるのか。今、最もやるべきことは、これ以上英語嫌いの子どもを増やさないことのように思われて仕方がないとする前屋氏の指摘を、私も(結局、学校英語に親しみを持てなかった者の一人として)大変興味深く読んだところです。


#2462 古くて新しい「制服」の問題

2023年09月07日 | 教育

 世界の経済覇権をかけた米中対立を背景に、日本に対する風当たりも強まっている中国の若者の間で、日本の女子高校生の「制服」が流行っているという記事が7月8日の「文春ONLINE」に掲載されていました。(「“愛好家”は118万人で平均21歳、破産三姉妹と呼ばれることも…中国で流行中の日本風JK制服の正体」2023.7.8)

 記事によれば、日本の若者を象徴する「JK制服」が、ネットメディアの普及とともに日本アニメやAKB、日本の青春映画などに触れた中国の若者層の間で人気を博しているとのこと。中国の代表的なSNSサイトWeiboではその愛好家が118万人以上確認でき、今や(いわゆる)「コスプレ」からサブカルチャーの領域にまで一般化しつつあるということです。

 因みに、中国では「学校の制服」といえば通常は運動用のジャージであり、アニメや映画で目にするかわいらしい女子高生の姿が新鮮に映るのもわからないではないとのこと。最近ではJK制服を模した子供服やJK制服をアレンジした「ネオ制服」とも言うべき商品も発売され、トレンドとしては現在進行形で発展中だとされています。

 さてその一方で、日本国内に目を向ければ、髪型の指定や下着の色の指定など、厳しすぎる校則の存在が近年大きく報じられるようになっています。

 朝日新聞などを見ると、生徒の誰もが着用を義務付けられている「制服」を強制されない「標準服」にすべき、靴下の色や髪型などを細かく規定した校則の廃止に向け文部科学省が積極的に関与すべき…といった要望書が、現職の高校教員らによって文部科学大臣あて提出されたといった報道も目にします。

 とはいえ不思議なのは、大きな動きを見せているのは教職員組合や一部メディアに偏っているように見えることと、第二次世界大戦の敗戦によって教育が「民主化」されて70年以上の歳月を経た現在でも、学校の制服や細かな校則が(私が子供の頃とほとんど変わらないまま)「現役」として活きているということ。この合理的な世の中の一体どんな要請が、(あのかったるい)制服をここまで延命させているのかについては純粋に興味が湧かないでもありません。

 ともあれ、この論点は今でも教育を巡るホットな話題の一つの様子。7月11日の情報サイト『AERA dot.』において、劇作家の鴻上尚史(こうがみ・しょうじ)氏が 「そもそも学校の制服は不要では?」と尋ねる読者の質問に応え、「学校の制服の要否」について語っているので概要を小欄に残しておきたいと思います。(『学校の制服は不要では?』」と長年の疑問をぶつける43歳女性に、鴻上尚史が示した『強制』か『自由』かの問題」)

 そもそも制服のメリットとは何なのか?…中・高校生や教師へのアンケート結果を覗くと、(ほぼどの調査でも)一番のメリットとして出てくるが「毎日の服装に悩まなくていい」というものだと鴻上氏は記事の冒頭に綴っています。

 確かに、それは楽かもしれない。そこで問題となるのは、「悩まないことには、どんな意味があるのか?」ということだろうと氏は続けます。学校は、そのまま社会につながっている。言い方を変えれば、つながるように教育するのが学校の存在理由だと氏は言います。

 なので、「学校にいる間は黙って従え。試行錯誤はするな。卒業した後は知らない」は、教育ではないし校の存在そのものの存在意義を否定するものとなる。そう考えれば、制服のメリットの一番「毎日の服装に悩まなくていい」は、生徒が試行錯誤して、悩んで、「社会に生きる知恵」を獲得する機会を奪っていることになりはしないかというのが氏の指摘するところです。

 さて、多くのアンケートにおいて、「制服のメリット」として次(二番目)に多く挙げられているのが、「経済的である」というものだったと氏は言います。もちろんこれは、「私服を買わなく済む」ということ。確かに、制服が貧富の差を隠し、経済問題を学校に持ち込まないために必要な時代は確かにあったかもしれないと氏は振り返ります。

 しかし、今や子供の6人から7人に1人が相対的貧困に苦しんでいると言われる日本のこと。(学校指定のカーディガンやコートを含め)入学時に制服一式を買うことが重い経済的負担になっている家庭は多いと氏は話しています。

 子供はどんどん成長するので、制服を買い続けなければいけない。兄弟姉妹で別の学校に行けば、お下がりは使えないし、制服は経済的負担が大きいというのが氏の認識です。一方、現代では、古着屋やメルカリではるかに安く私服を買うことができるようになった。「私服の方が経済的負担が少ない」という理由が、私服を求める重要な理由になるとは、昭和の教師達は想像もできなかったろうということです。

 そして…、制服のメリットとしてその次辺りに挙げられているのが、「服装による個人差がでなくていい」「どこの学校か一目でわかる」「仲間意識ができる」といった理由だろうと氏は話しています。

 簡単に言ってしまえば、制服を着ることで「みんな同じ」「心をひとつに」できるということ。実際、昭和の高度成長期に求められていた人材とは、「会社に対して忠誠心と協調性とがあって、上司の言うことをよく聞き、粘り強く心をひとつにして働く」労働力だったと氏は言います。

 しかし、今や日本の産業構造は変わり、社会で求められているのは「協調性」ではなく「多様性」の時代となった。同じ方向を見つめ、同じ価値観で団結する労働者ではなく、多様なニーズに応えられる多様な価値観を持つ労働者が求められていると氏はしています。

 一方、学校は「社会で生きる知恵」を試行錯誤しながら身につける場所であることにかわりはない。(そうした意味で)学校はまさに「多様性」を学ぶ場所にアップデイトする必要があるというのがこの記事における氏の見解です。

 さて、こうした理由から僕(←鴻上氏)は現在、制服の必要性を感じていない。しかし、だからといって「今すぐ制服を廃止!」と言っているわけではないと、氏はこの記事に記しています。

 制服に誇りを持っているという学校もあるだろう。制服が大好きだから、廃止は嫌だという生徒もいるかもしれない。そうした観点に立てば、公立の学校では「標準服を着たい人は着る。私服にしたい人は私服にする」のがいいというのがこの記事における鴻上氏の結論です。

 これは、「標準服」か「私服」か…ではなく、「自由」を選ぶということ。選択肢があるのは、現代社会においてとても重要なことだと氏はここで話しています。

 「選択的夫婦別姓」を、「同姓」か「別姓」かの問題だと思っている人もいるかもしれないが、これは違う話。これは「強制」か「自由」かの問題だと氏は言います。自分の苗字を選ぶことが「強制」なのか「自由」なのか…。そして制服もまた、「制服」か「私服」かの問題ではなく「強制」か「自由」かの問題だというのが氏の指摘するところです。

 子どもたちが自分の頭で考え、自ら選び取れるようにすること。時代が求めている多様性も、そうした自由や選択の中から生まれてくるということでしょうか。

 私服を選ぶ自由を子供達に保障することが、彼ら彼女らの未来にとってとても重要なことだと、氏は記事の最後に綴っています。試行錯誤し、悩み、考えること。子供達はそうした経験とともに成長していくと語る鴻上氏の指摘を、私もある種の共感を持って受け止めたところです。


#2402 制服をめぐる不自由な議論

2023年04月27日 | 教育

 気が付けばGWを前にして、汗ばむ陽気の日も増えてきました。入学当時はなんとも借り物のようだった制服姿もようやく板についてきた新入生たちが、夕方の街を友達と楽しそうに歩いている姿などをしばしば見かけるようになりました。

 中高生と言えば、何かと自己主張したいお年頃。こうして次第に学校生活にも慣れ、夏休みが過ぎるころには制服の着こなしにも様々個性的なアレンジが加わっていくことでしょう。

 私自身は制服の決められていない学校に通っていたのであまり思い入れはないのですが、イマドキの中高生(特に女子高生など)にとって、制服は学校生活に欠かせないアイテムとのこと。制服のかわいらしさで学校を選ぶ生徒も(それなりに)多いと聞きます。

 街を行く彼女らの姿を見ると、短いスカートや化粧はもはや当たり前。髪を明るく染めたり大きなピアスをつけている大人びた姿も目立ちます。一昔前なら親が呼び出され、生徒指導の先生にガンガン絞られていたような格好も、今では周囲の大人たちにとって普通の光景。誰も気に留める様子はないようです。

 まあ、(程度の差こそあれ)誰もが通る道ですからそれはそれで結構なこと。ここまで来たら、この際(アメリカのハイスクールのように)制服などなくしてしまえば…とも思うのですが、現場には大人の事情や様々な意見があって、なかなか簡単にはいかないようです。

 そうした折、週刊『AERA』の4月10日号が『加速する「ジェンダーレス制服」導入の動き そもそも制服制度は必要なのか』と題する記事を掲載していたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 多様な性自認やジェンダーへの配慮から、制服の選択肢を増やす学校が増えている。これからの制服制度がどうあるべきか、改めて議論が必要なときではないかと記事はその冒頭で指摘しています。

 記事によれば、学校制服の歴史は長く、軍服をベースに士官学校や師範学校で洋装の制服が用いられるようになった明治時代に遡るとのこと。女性用の洋装の制服が生まれたのはさらに40年ほど後のことで、男性を支える『良妻賢母』として女性らしさを強調したデザインが用いられ、以降、性別役割を強調した男女別の制服が現在まで続いているということです。

 平成の時代に入っても(こうして)学校現場で男女の区別は色濃く残った背景には、「男女で分けた管理方法を変えると現場が混乱する」と考える教員が多かったことがあると記事は説明しています。

 しかし2010年代に入ると学校にも次第に「ジェンダー平等」や「多様性への配慮」が求められるようになった。学生服大手のトンボによると、同社の制服を採用する全国の中学校・高校のうち、女子制服にスラックスを導入している学校は2018年には370校だったが、21年には1千校を超え22年には1500校超に増えているとの話。最近では、制服のモデルチェンジを検討する学校の9割以上が、要望事項に「多様性に配慮した制服」を挙げるようになっているということです。

 しかし、一般に「ジェンダーレス制服」と呼ばれるこうした取り組みは、必ずしもセクシュアルマイノリティーだけを対象にしたものではないと記事は続けます。「ジェンダーレス」や「多様な性への配慮」をアピールしすぎると、当事者が恩着せがましく感じたり、着づらくなったりと逆効果になりかねない。現在では(そうした観点から)着用する全ての生徒に精神的な負担がかからないよう、さりげなく配慮されているということです。

 もちろん、ジェンダーレス制服の導入は、管理・規律の中で(次善の)選択肢を提供しているだけのこと。手放しで称賛することには違和感が残ると記事は話しています。自由に人間らしく生きるために、そもそも制服は必要なのか。教育現場、ひいては社会全体のあり方が本当にこれでいいのか、制服制度も含めて考える時だというのが記事の見解です。

 今の中高生に制服は本当に必要なのか。この問題への回答としてしばしば言及されるのが、経済格差による「スクールカースト」の発生を防ぐことだと記事は話しています。服やファッションなど、様々なものに興味・関心を持つのが思春期だが、しかし彼らには経済的な自立はできていない。こうした中、私服では家庭環境によって大きな『差』や『負担』が生まれることになるというものです。

 しかし一方で、現在の制服は決して安価ではなく、ファストファッションを活用すればよりリーズナブルに学生生活を送ることが可能だという意見もある。1879年に学習院が日本最初とされる学生服を導入してから140年以上がたった現在、多様な性自認やジェンダーへの配慮を前提に、極めて保守的だった学校現場もいよいよ変化を受け入れる時期が来ているということです。

 さて、ユニクロやワークマンなどに行けば、全国の(概ね)どこのロードサイドでも(2~3000円のお小遣いで)ファストファッションが手に入るこの時代。おそろいの制服を無理やりあつらえさせたり、上履きや運動着をそろえさせたりする必要がどこにあるのか。

 もしも、生徒の身なりがTPOに合っていなければ、その都度生徒に指摘すればよい。「ルールだから」と権力的に押し付けるのではなく、その場で「なぜ受け入れられないのか」をきちんと説明し、納得させる責任が学校(教員)にはあるような気がします。

 そもそも学校は、生徒の良いところを見つけ出し、そして成長させるところ。ジェンダーへの配慮も勿論その一環なのでしょうが、それ以前の議論が何か欠けているような気もするところです。

 学校の規律や節度は、制服がなければ本当に保てないものなのか。どうしても必要だというのであれば、目安となる「標準服」のようなものを示したうえで、個々の服装については個別に議論していけばよいのではないかと単純に思うのですが、果たしていかがでしょうか。


#2393 少人数学級へのハードル

2023年04月09日 | 教育

 いじめ問題や不登校の児童生徒の増加など、学校教育を巡る問題が様々に取りざたされる中、教育現場を担う教員を志す若者が急激に減少しているという指摘があります。

 文部科学省の調査によれば、去年、全国で採用された公立の小中学校や高校などの教員の採用倍率は3.7倍で過去最低となり、このうち小学校の採用倍率は2.5倍と、4年連続で過去最低となったとされています。

 特に東京都の場合、2013年度の採用試験では受験者数が1万7326人だったものが5年後の2018年度では1万3335人になり、さらに5年後の2023年度では7911人と10年間で半減しています。合格率は実に49%と、受験をすれば2人に1人が受かる状況で、(人気のない)小学校に限ると合格率は7割に達しているということです。

 こうして教員採用試験の受験者が大きく減る中、横浜市教育委員会は2023年度から小学校教員を志望する大学3年生に、内々定を出す選考を始めるとしています。これまでの採用実績に応じて全国の大学に「推薦枠」を割り当て、一般教養などの1次試験免除して、面接と模擬授業、論文で合格すれば、4年生の4月に正式な採用内定を出すということです。

 若者に人気のない「教員」を確保するため、自治体ごとに涙ぐましい努力をしている様子がうかがわれますが、こうなると懸念されるのは新規採用教員の「質」の問題。実際、文科省の委託調査(2022)によると、小学校の20代教員の26%が「出身大学の入学難易度は高くない」と答えているとされています。

 折しも、現在効率の小学校では、35人学級について21年度から25年度までの5年間で整備を図っているところであり、現場の準備も進められています。また、加配定数についても、小学校高学年の教科担任制に対応して22年度から4年程度で改善を図るとされており、新採教員は引く手数多というところでしょう。

 これまで「ブラック」と呼ばれ続けてきた学校の職場環境は、果たして改善の方向に向かうのか。『週刊プレイボーイ』の2023年1月30日発売号に、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「教員のなり手が減っているのに少人数学級が実現できる?」と題する一文を寄せているので、参考までに小欄にその概要を残しておきたいと思います。

 2021年3月に、公立小学校の1クラスあたりの生徒数を35人以下に引き下げる改正義務教育標準法が成立した。これによって、22~25年度に教職員定数を毎年3000人超ずつ増やし、計1万3500人程度の増員が予定されていると橘氏はこのコラムに記しています。

 その目的は、少人数学級の方が、先生は一人ひとりの生徒に目が行き届き、学力の向上や、いじめ・不登校の改善が期待できるというもの。(これだけ聞くと)よいことばかりに思えるが、実は大きな問題が隠されているというのが氏の認識です。

 それは、教員のなり手がどんどん減っているという現実である。実際、公立小学校教員の23年度採用試験の受験者は、全国で3万8641人と前年より約2000人も減っていると氏は言います。

 教員の志願者が減れば、当然、採用倍率は下がってくる。10年前は4.4倍だった公立小学校の採用倍率も現在では過去最低の2.5倍まで落ち込んでおり、35人学級が完全実施される頃には、大学で教員免許さえ取得すれば誰でも公立小学校の教師になれる時代がやってきそうだということです。

 一方、公立学校では日常的に教員の欠員が生じていて、山梨市では教委が「病気や出産で休暇に入る教員の代替の確保が非常に厳しい」という内容の文書を保護者に配り、教員免許保持者の紹介を頼んで話題になったと氏はしています。

 教育委員会もこの事態に手をこまねいているわけではなく、山梨県は、小学校教員採用試験の受験者に対する奨学金の返済の一部を「肩代わり」する事業を始めている。その他の都道府県でも、「大学訪問を通じて志望者を掘り起こす」(秋田県)、「受験年齢制限の撤廃や東京会場での試験の実施」(福島県)、「教員の魅力を発信する説明会を高校生も対象に実施」(三重県)など、思いつく限りの様々な努力をしているということです。

 少子高齢化と人口減で慢性的な人手不足の時代を迎えている日本では、いまや若者は(よほどの)プレミアムがなければ集まらない。民間との人材獲得競争はますます厳しくなっていると氏は話しています。

 そうした中、残業代ゼロで長時間労働し、部活で土日もなく、授業だけでなくモンスターペアレントの相手までしなければならないのでは、どれほど高い志があったとしても二の足を踏んでしまうということです。

 一方で、教員の質が下がれば保護者の不満や苦情が増え、学級運営はさらに難しくなるだろうと氏は言います。教員の不祥事が増えれば、学校はメディアやSNSで世間から(丸ごと)はげしくバッシングされる。これでは教員志望者はますます減り、富裕層は子ども私立に入れるので、経済格差は拡大するばかりだというのが氏の見解です。

 少人数学級の実現を目指した理想主義の教育関係者は、自分たちの子ども時代と同様に、志の高い若者がいくらでも教師になってくれると思っていたのかもしれない。しかし、少人数学級の導入がたどる先を見ると、(いつものように)「地獄への道は善意によって敷き詰められている」と話す橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

 


#2368 スポーツが人格形成に果たす役割

2023年02月21日 | 教育

 一般に「スポーツマン」という言葉には、男らしく純粋で爽やか、健康で正義感が強く友情に熱い…といった、(あくまで)健全なイメージが漂います。私的には、慶応ラグビー部のスタンドオフを任されるような、お金持ちだけれどそれを鼻にかけない、温和でやさしい力持ちという感じ。松任谷由実や竹内まりやの歌に出てくるような(お嬢様の)女子大生が憧れる、ちゃらちゃらしないタイプのナイス・ガイの印象です。

 確かに、「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた昭和の昔から、野球選手やプロレスラーは子どもたちのあこがれの的でした。そしてこの令和の時代になっても、サッカー選手のトレカなどを集めている子どもたちはまだまだ多いのではないでしょうか。

 彼らは、全身全霊で試合には臨むけれども、勝ち負けという結果にはこだわらない。友情に熱く仲間思いで、スポーツマンシップを持ちルールーに厳しいというのが、世の中一般の評価というものでしょう。

 こうして誰もが憧れるスポーツマン。しかし、その実態はどうなのか?

 名桜大学准教授の大峰光博氏は、12月20日のPRESIDENT Onlineに寄せた『「運動部の部活は人格形成に必ず役立つ」はウソ』において、「スポーツ」のはらむ欺瞞、とりわけ学校における部活動が人格に及ぼす影響について、大変興味深い指摘を行っています。

 スポーツ基本法では、運動部活動で行われるスポーツは他者を尊重し、公正さを尊ぶ態度を培うと記されている。しかしそれでは、運動部活動に属さない生徒は、(運動部の生徒に比べ)他者を尊重し、公正さを尊ぶ態度を養う機会を失っているということなのかと、大峰氏はこの論考に綴っています。

 何をもって人格形成や人間形成がなされたとするかは見解が分かれるところだが、他者を尊重し公正さを尊ぶという社会性が包含される点については合意が得られるだろう。それでは、運動部の部活動が社会性(他者の尊重、公正さを尊ぶ態度)を養う上で(実際に)有効なツールになっていると言えるのか。

 氏によれば、運動部活動に参加する生徒には(いじめや、授業中に大声を出して騒ぐ行為など)反社会的傾向が強く、学校での逸脱傾向が高いという研究も存在しているとのこと(「部活動への参加が中学生の学校への心理社会的適応に与える影響」岡田雄司2009年東京都立大学)。また、哲学者の川谷茂樹氏は、スポーツは日常の倫理との緊張関係にあり、ほとんど不可避的に倫理的問題を引き起こす危険性を持っていると指摘しているということです。

 確かにスポーツには、相手の弱点を攻める、嫌がることをする、場合によっては殴る、蹴る、体当たりするといった日常生活で禁止される行為が許容される場合も多いと氏は言います。

 そうした中で、アスリートとして勝利を追求するためには、普通の人間としては「えげつない」行為を遂行する能力・技能が必要になる。審判に見えないところで(判らないように)ファウルを犯すことなども、勝つための技術として容認されるということです。

 一方、もしも運動部活動が社会性において必ずプラスに働くのであれば、中学生の4割が運動部活動に加入していない現状は極めて由々しき事態だと氏はこの論考で指摘しています。

 しかし現実社会では、飲酒、喫煙、薬物使用、いじめ、暴力といった事件が運動部活動に加入している学生によって繰り返され、また、運動部活動に長期にわたり加入していたトップアスリートが他者を尊重せず、公正さを尊ぶ態度が培われていないスキャンダルを頻発させている。こうした事例を見ればわかるように、スポーツや運動部での経験が必ずしも人格形成にプラスの影響をあたえるわけではないというのが氏の見解です。

 そもそもスポーツの語源はラテン語の"deportare"であり、「気晴らし」を意味するものだと氏はこの論考に記しています。身体を動かすこと、労働や日常の規範からの逸脱が、日々のストレスからの気晴らしとなる。もしも、スポーツそのものが労働や日常の規範の連続になってしまえば、それはもはや日常の規範にとっての「危うさ」にもなりかねないということです。

 さて、(その程度は違っても)技術として「えげつない」行為が要求されるスポーツは、それほど(例えば「スポーツ基本法」が言うほど)上等なものではないというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 スポーツの魅力に、日常の倫理とは異なる倫理を求められることを挙げるアスリートも多い。そのようなスポーツを用いる運動部活動において、日常の倫理を重んじる社会性が育まれないことに何の不思議もないと、氏はこの論考の最後に綴っています。

 指導者が運動部活動において部員の社会性を養うことを目標とするのであれば、ひたすらに高いレベルを目指す必要はない。もちろん、生徒たちに甲子園や花園を目指させ、勝ち負けに一喜一憂する必要もないということでしょう。

 確かに、(例えアマチュアであっても)ボクサーが対戦相手の弱い部分に集中してパンチを浴びせるのは褒められるべきことのはず。卓球やバドミントンのポイントは、相手の嫌がる場所にいかに打ち返すかだというのは誰もが知るところです。

 先日のワールドカップサッカーでも、ファウルの判定欲しさに(相手選手かすっただけの足を)大げさに痛がってみせるスタープレイヤーの様子などを見るにつけ、スポーツとはそういうもの、多少えげつなくても結果に貪欲な方が勝つゲームだということが判ります。

 そうした観点に立ち、スポーツをする、学校で運動部に入るだけでは、(政府の言う「人格形成」のような)崇高な目標は到底達成されるはずがないことを肝に銘じておく必要があるとこの論考を結ぶ大峰氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2367 部活動の地域移行を巡る雑感

2023年02月20日 | 教育

 少子化によって学校単位での活動の維持が困難になっていることに加え、働き過ぎと言われる教員の負担軽減などを背景に、学校における部活動の「地域移行」が本年度から段階的にスタートすることとされています。

 国の検討会議は2023年度から2025年度末をめどに、公立中学校の(まずは)休日の運動部の活動を、民間のスポーツクラブなどに委ねる方針を示しています。文部科学省では、平日は学校で顧問の指導で行っている運動部の活動を、(休日は)外部指導者の元で行うよう自治体の教育委員会に求めていくということです。

 文部科学省の方針転換をふまえ、日本教職員組合(日教組)は昨年の12月22日に記者会見を行い、「2022年学校現場の働き方改革に関する意識調査」に基づく(学校現場における)地域移行の課題を指摘しています。

 これによれば、部活動のある中学校教員2300人に(地域移行の課題を)複数回答で尋ねたところ、「指導者を確保できない」が72.5%で突出。次いで「移行のイメージや将来がわからない」(39.9%)、「指導者・施設など地域間格差がある」(36.3%)と続いていたというということです。

 この話を聞いて私などは、部活動の運営などは地域や学校の実情に沿って、それぞれ柔軟に対応できるようにすれば良いのではないか、ましてやそもそも土・日・休日まで、子どもたちに部活動をさせる必要などあるのか…と単純に思います。

 しかし、何事も(平等に)統一しなければ気が済まない文科省のこと。学校に独自性を発揮させるのはお嫌いのようで、また、現場の教員たちも、国や教育委員会の「指示待ち」が身についてしまっている観があります。

 子どもたちが本当に休日も部活をやりたがっているかどうかは別にして、一方の「運動部」の現場には、(教員の負担軽減以外にも)様々な課題が残されているようです。

 昨年12月20日のAERAdot.(『部活顧問の「暴力・暴言」に苦しんだ娘 「子どもの未来を預けられない」親が訴えを決意』)は、学校のスポーツ指導の現場にはびこる暴力や暴言、ハラスメントの存在を指摘しています。

 2012年に大阪市立高校のバスケットボール部でおきた、顧問からの暴力やパワハラに苦しむ生徒の自死。その年度の文部科学省による全国調査によれば、小中高など国公私立学校における体罰発生件数は6721件におよび、翌13年に全国高等学校体育連盟などが「暴力行為根絶宣言」を採択したということです。

 以来、体罰の文科省への報告件数は年々減少し、2020年度は485件にまで減っている。一見すると大幅な改善に映るが、その実態はどうなのか。

 日本スポーツ協会の「暴力行為等相談窓口」に寄せられた相談件数は2014年度の23件から、コロナ前の19年度は251件と、5年で10倍に増えていると記事は指摘しています。窓口の存在が知られるようになり、(子どもを人質にとられている)学校には訴え出られない声が、徐々に漏れ出してきている可能性があるというのが記事の認識です。

 思えば、「スポ根」という(日本独特の)言葉があるように、スポーツの世界において、①結果が出ないのは努力が足りないせい→②努力が足りないのは根性がないから→だから③「根性を叩きなおす」…と称して暴力やパワハラが横行するのは、日本スポーツ界の悪弊と言ってよいでしょう。

 実際、中・高学校の運動部などでは、今でも「1年生は球拾い」「下級生は声を出せ」「上級生には直立不動で挨拶」などの慣例が続いているところも多く、話を聞く限り「ここは昭和の暴走族か?」とおどろかされるばかりです。

 また、こうした状況は大学生になってもあまり変わらず、体育会系の運動部などでは先輩やコーチ、監督の言うことには絶対服従。「4年神様、1年奴隷」などという言葉も、未だに死語にはなっていないと聞きいています。

 一時は大きな話題となった日大アメフト部における暴力事件、相撲の世界での様々な「かわいがり」、プロ野球選手による賭博問題などに加え、例えば東京オリンピック開催にかかる贈収賄事件なども、(広い目で見れば)人間関係は「力が全て」と錯覚させ、(かけひきによって)「親分子分の関係」を生み出す日本スポーツ界の悪弊に起因するものではないかと感じないではありません。

 競技や競技団体という狭い世界の中での全能感。ボーイズクラブのヒエラルキーが全てと考え、弱い立場の者を虐げる日本スポーツ界の(伝統的な)子供っぽさをどうしたら変えていけるのか。

 「スポ根アニメ」などを斜に見てきた私などは、まずは(子どもが初めて競技スポーツに出会う)学校の部活動から、根本的にその在り方を見直す必要があるのではないかと感じるのですが、果たしていかがでしょうか。

 


#2347 なぜ公立ではダメなのか

2023年01月24日 | 教育

 東京都が来年度予算に向け、都内の私立中学校に通う生徒の授業料について、各家庭に年間10万円の助成金の給付を検討していることがわかったと、大手新聞各紙が報じています。

 報道によれば、東京都の小池百合子知事は1月19日、都庁内で都議会自民、公明両党の幹部と面会。私立中学に通う生徒の親(年収が910万円未満)に対する助成を求められたのに対し、「急ぎ検討する」と回答したということです。

 東京都の「公立学校統計調査報告書」によれば、2022年度の都内の中学生は31万3364人で、そのうち私立中学校に通う生徒は25.5%にあたる7万9896人とのこと。特に都心部における私立への進学率は高く、教育熱が高いことで有名な文京区では、50%近くになるとされています。

 来年7月に選挙を控える小池都知事は、既に(2023年度から)0~18歳以下の子供全員を対象に月額5000円、年6万円を給付することを公表しており、また同じタイミングで2歳までの第2子の保育料無償化もスタートするということです。

 (タイミングがタイミングなだけに)メディアを巻き込み、給付、給付で一気に支持率の巻き返し(と自・公都議団の取り込み)を図る小池氏の手法に、舌を巻いている関係者も(きっと)多いことでしょう。一方、潤沢な都財政を後ろ盾に札びらを切るこうした小池氏のやり方に、批判を投げかけるメディアも多いようです。

 1月23日の総合情報サイト「日刊ゲンダイDIGITAL」は『小池都知事「私立中学校世帯10万円助成」は不公平…特定のバラマキは“選挙対策”と批判殺到』と題する(かなり辛口な)記事を掲載しています。

 都議会自民・公明両党幹部からの要請を受け、小池百合子都知事が私立中に通う生徒のいる世帯への年間10万円の給付を都の当初予算案に盛り込むという。都内で私立中に通う中学生は25.5%(22年度)。75%は公立中学に通っているため、不公平さに焦点が集まっているが、問題はそれだけではないと記事はその冒頭に記しています。

 東京都「令和5年度 都内私立中学校の学費の状況」によれば、都の私立中学校の23年度の初年度の学費(授業料、入学金、施設費などの総額)は、調査対象となった182校のうち既に43校(23.6%)が値上げを決めている。値上げ幅は上位から実践学園の27万8400円増(値上げ率28.9%)、日本学園の11万3600円増(同14.5%)、清明学園の10万5000円増(同13.5%)などとなっており、授業料(平均額)だけでみても、21年度は48万2168円、22年度は48万6976円、23年度は49万2209円と、年々上がっているということです。

 こうした中、今回の子育て支援策の対象が“私立中学”と極めて狭く、それも急遽の予算付けとなった背景には、今後も値上げが予定されている私立中高への選挙対策が考えられると記事は見ています。公明党の支持母体の創価学会には系列中学があるので、こちらも政治的に引き込みやすいというのが記事の見立てです。

 子育て支援でいえば、2023年度から(国が財源を負担する)出産育児一時金が42万円から50万円に引き上げられるとされている。そのタイミングで、都内の有名な産科が今年4月から8万円弱の値上げを発表していて、SNSでも騒がれたと記事は言います。全国旅行支援の際に開始後のホテルの便乗値上げが問題になったように、業界の値上げに合わせて補助を出している傾向はあるというのが記事の指摘するところです。

 ツイッターの反応を見る限り、《意味不明…好き好んで私立中学へ行かせてるところへ助成?いつものパターンだがこれ助成したら多分学費上げるよね?東京のことやし関係ないけど選挙対策に金ばらまくのやめーや…》《政策意図が全然分からん…。私立中学が値上げして終わるのでは。》などと冷めた反応だと、記事はしています。

 ツイッター上の少数意見を大きく取り上げるのも「いかがか」とは思いますが、(ただでさえ、私立学校の運営には国や都から莫大な補助金が交付されている現状を踏まえれば)学校ごとに任意に決められる授業料や入学金に(さらに)公金を投入することには、納得がいかない納税者もきっと多いことでしょう。

 今回の報道に対し、投稿サイト「2ちゃんねる」の創設者で実業家のひろゆき氏は、1月21日のツイッターに「『お金がないなら公立に行け』という話しかと…」とつぶやいたとされています。

 「都内の私立の学校は『有名デザイナーの制服』とかで学費が高かったりもします。それを当事者ではない赤の他人が税金で払わされるのは違うと思うんですよね。『お金がないなら公立に行け』という話しかと。」とツイートし、助成の必要性はないという見解を示したということです。

 さて、そのココロは、「中学は義務教育なんだし、無理をしなくても(近所の)公立があるじゃないか」ということなのでしょうが、今回の件に関しては私も(珍しく)ひろゆき氏と同じような印象を持っています。

 都内の公立中学の運営には、東京都の教育委員会にも大きな責任があるはずです。であれば、都は公立中学の教育内容の充実にこそ、お金をかけるべきではないかと思わないでもありません。

 公立学校は一体何のためにあるというのか。私立中学に行けないお金のない家の子は、(私立で「ちゃんとした教育」を受けられなくて)「可哀そう」なのか。少なくとも都内の公立中学の教員たちは、今回の小池知事の決定に怒り、奮起しなければならないと感じるのですが、果たしていかがでしょうか。


#2345 「子どもに夢を語らせてはいけない」という話

2023年01月21日 | 教育

 今年は1月9日が「成人の日」。1999年までは1月15日に固定されていましたが、ハッピーマンデー制度により、以降1月の第2月曜日が充てられることとされています。

 「国民の祝日に関する法律」によれば、この日は「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているとのこと。各市町村では新成人を招いて成人式が行われるため、(昭和20年代以降のことではありますが)お正月の風物詩としても知られてきました。

 一方、民法(および関連法)の改正により2022年4月1日から成人対象者が18歳に変更されたことで、今年は成人式の取扱いに悩んだ自治体も多かったようです。結果、18歳は高校3年生が中心で、就職や進学に忙しい対象者が多いことから、例年通り対象を20歳とし、「20歳の集い」として開催する自治体が殆どだったと報じられています。

 こうして、「成人」の定義が曖昧になる中、全国の中学校では、刑法の対象となる14歳を迎える2年生を対象に、日本で古くから行われていた「元服」にあたる「立志式」と呼ばれる行事を行う例が増えているという話を聞きました。

 聞けばこれは、一人の人として『志』を立て、人生の指針と強い意志を表明し、前向きに自己の将来を設計する力を培うための式典とのこと。栃木県、愛媛県、宮崎県、熊本県、石川県ではほとんどの中学校で開催され、東京都でも一部の中学校で実施。愛媛県や熊本県では「自覚・立志・健康」を深く考える日として、40年以上前から学校の重要な年間行事として実施されているということです。

 多くの中学校では、父母などの保護者に加え自治体の長や議員、地域の人たちなども参加し、生徒たちが親への感謝や自らの夢や希望を語る場を設けているとのこと。それはそれで節目となることなのでしょうが、生意気盛りの生徒たちにとっては多少「鬱陶しいな…」と感じるイベントなのではないかと思わないでもありません。

 そんなことを感じていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年暮れ(12月29日)の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に『子どもに夢を語らせてはいけない』と題する一文を掲載しているのを見かけたので、参考までにその一部概要を残しておきたいと思います。

 人は何のために学ぶのか。勉強するのは自我を強化するためではなく、(逆に)自己解体・自己刷新のために勉強するのだと、内田氏はこの論考に綴っています。

 自分が知っていることを人に誇示することには全く意味がない。なぜかと言えば、それは自分がもう知っていることだから。そんなことをしても自分の成長には1ミリも資するところがないと氏は言います。

 そんな暇があったら、自分が知らないことについてもっと勉強して、自分を壊してゆきたい。自分を固めてしまったら、新しいことを学べなくなる。絶えず変化し、より複雑なものになってゆくというのは生物の本質だというのが氏の認識です。

 今の教育現場では、もう中等教育から自分のキャリアについて精密な「キャリアプラン」を子どもに作らせたりしている。将来どういうところに進学して、どういう資格を取って、どういうところに就職して・・・そんなことについての具体的な見通しを、できるだけ早い段階で決定させようとしているということです。

 しかし、「僕は(おとなが)そんなことをさせてはいけないと思う」と氏はこの論考に記しています。それは、中学生の子どもが知っている職業なんて本当にごくわずかのものだから。実際、世の中には子どもたちがその名前も知らないような無数の職業が存在していて、そして、かなり高い確率で、今の子どもたちがその名も知らない職業にいずれ就くことになるということです。

 アメリカの研究によると、今年小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業後には「今はまだ存在しない職業」に就くとのこと。今の子どもがなりたい職業の第1位は「ユーチューバー」とされているが、20年前にはそんな職業自体が存在しなかったのがよい例だというのが氏の感覚です。

 なので、子どもたちに「将来、何になりたいの?」というようなことをうかつに訊くものではないと氏は話しています。子どもに将来の夢をうっかり語らせてはいけない。あまり深い考えなしに「将来〇〇になりたい」というようなことを一度でも口にしてしまうと、それが子どもの呪縛となって、それ以外の可能性を視野から遠ざけてしまう可能性があるということです。

 それよりも、子どもたちにはできるだけ開放的な未来を保証してあげることの方が、ずっと大切ではないかと氏はしています。今の子どもたちが将来どんな仕事に就くことになるかなんて、誰にもわからない。だから、「しっかりした将来設計」なんか左折必要がないというのが氏の見解です。

 人が仕事に就くときは、だいたいは向こうから声がかかるもの。「ねえ、ちょっと手を貸してよ」と言われて、つい「いいよ」と返事をして、気がついたらその道の専門家になっていたということは、実際によくあることだと氏は言います。

 別にその仕事が「将来の夢」だったわけでもないし、自分にその適性や能力があるとは思ってもいなかった。でも、他にやる人もいないみたいだから、じゃあ自分がやるかというふうにして人は「天職」に出会うことが多いということです。

 自分が面白いと感じる方に進んでいって、気づいたら(そういうものに)なっていた。可能性は、そうした「想定」を超えた(ある意味「運命」のような)出会いの中にあるということでしょうか。

 自身が自ら『志』を建てることは、確かに人生のどこかで必要かもしれないけれど、子どもの限られた経験と視野から見える将来、景色はあくまで限定的なもの。(余計なお節介はせず)そこに囚われることのないよう見守るのも大人の大切な仕事なのではないかと考える氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2258 子どもたちの視覚・聴覚を守るには

2022年09月18日 | 教育

 新型コロナウイルス感染症拡大により子どもたちの生活環境が変化したことで、特に視力の低下(近視になる子供の増加)への懸念が報じられています。

 実際、1979年に統計を取り始めて以降、子どもの視力は40年余りにわたって低下傾向が続いているとされています。

 文部科学省が公表している2020年度の学校保健統計調査によれば、裸眼視力が1.0未満の小中学生の割合は小学生で37.52%、中学生で58.29%高校生が63.17%と過去最悪を更新しています。

 統計を取り始めた1979年度は小学生で17.91%、中学生で35.19%、高校生で53.02%。それが10年後の1989年度には、小学生で20.60%、中学生で40.90%、高校生で55.81%となり、20年後の1999年度には、小学生で25.77%、中学生で49.69%、高校生で63.31%となっています。

 さらに2009年度には、小学生で29.71%、中学生で52.54%、高校生で59.37%まで落ち込んでいましたが、今回の調査ではそこからさらに数ポイントの低下が見られています。

 こうした子供たちの視力低下に関し、その要因の1つとされるのが、テレビやスマートフォン、ゲームなどの視聴時間(スクリーンタイム)増加です。

 「スクリーンタイムが増えると、近視が進む」という指摘は、既に世界のさまざまな研究論文で行われてきました。そうした中、国立成育医療研究センターが全国の小・中・高校生を対象に実施した調査では、2020年1~6月の約半年間で、どの世代もスクリーンタイムが実に8割程度も増加していること、1日当たりのスクリーンタイムが4時間以上の子供の割合は、小学生で約3割、中学生・高校生では5割を超えていることなどが判ったということです。

 文部科学省が進めるGIGAスクール構想の下、オンライン授業の普及など、教育現場でもデジタル機器の活用が進む現在、子どもたちの視力低下を防ぎ健全な成長を促すために何ができるのか。

 7月18日の日本経済新聞に、「若者の視覚・聴覚、低下の恐れ 生活習慣改善し歯止めを」と題する記事が掲載されていたので、参考までに小欄で紹介しておきたいと思います。

 文部科学省の2021年度の学校保健統計調査によると、裸眼視力が1.0未満の割合は小学生で約37%。年齢が高くなるにつれて増加する傾向にあり、中学生と高校生では6割超を占めている。

 外遊びが減り、ゲーム機やスマートフォンなどを操作する時間が長くなった影響とされているが、不適切な生活習慣によって数十年後、目がよく見えない、耳が遠いといった人が高齢者の多くを占めるようになれば、社会的影響はあまりに大きいと記事は記しています。

 21年度からは小中学校で1人に1台、パソコンやタブレット端末を配って行うデジタル授業が本格的に始まった。今後さらに視力低下の傾向が進めば、緑内障や黄斑変性など眼病を発症する人が増えるリスクも大きくなると、専門家は懸念しているということです。

 一方、聴力の低下は、内耳にある有毛細胞が加齢や騒音などによって壊れることが原因となると記事はしています。難聴は60代後半から急増するが、毎日のようにヘッドホンやイヤホンで音楽を聴く人が若年層を中心に増えていることから、難聴になる年齢が早まるとみる専門家も多いというのが記事の指摘するところです。

 いったん難聴になると治す方法は限られている。WHO(世界保健機関)からは、「世界で10億人以上の若年成人が有害な聴音習慣により永続的で不可逆的な難聴となり、2050年までに25億人近くが難聴になる可能性がある」という報告もなされているということです。

 では、どう予防すればいいのか。東京医科歯科大学の大野京子教授によれば、子どもが近視にならないため(1)デジタル機器を操作する際は背筋を伸ばした正しい姿勢をとる(2)画面と目との距離を30センチ以上離す(3)20~30分に1回遠くを見る(4)できるだけ屋外に出る時間を確保する――などの対策を講じるよう勧めているいると記事はしています。

 一方、難聴の予防では、音量を上げ過ぎないこと、連続して長時間音楽を聴かないことなどを専門家は呼びかけている。いずれも子ども任せにせず、親ら周囲も目を配っていくべきことだというのが記事の見解です。

 年齢を重ねると、何十年にもわたって使い続けた感覚器が"経年劣化"するのは避け得ない。ただ、高齢者の多くが光や音を感じる大切な機能を失っていく事態を座視すべきではないと記事は話しています。

 確かに、朝夕の通勤・通学の電車の中でも、学生たちは一様に耳にワイヤレスのイヤホンを差し、スマホを繰りながらゲームやSNSに興じている風情です。6インチかそこらのスマホの画面を、一日何時間を集中して見つめているのが成長期の身体にいいはすがありません。

 現代の利器とはいえ、不適切に使用し続ければいずれ、生活の質を低下させてしまうことにもなりかねない。一方で対処法も明らかになっており、教育や啓発活動を通じて歯止めをかけていく必要があろうと結ばれたこの記事を、私も興味深く読んだところです。


#2220 ベルマーク運動の罪

2022年07月30日 | 教育

 6月19日の女性のための総合情報サイト「週刊女性PRIME」に掲載されていた、『コロナを言い訳に断ってきたイヤなこと』と題する記事。「全国の女性1000人に聞いた(再開して欲しくないイヤなことの)TOP5」の第1位は、195人が挙げた「職場の同僚や友人との飲み会」の再開というもの。そして僅差の第2位は、こちらも全体の約2割(121人)の女性が挙げた、「脱マスクでメイクが必要に」なったというものでした。

 ここまでは、「なるほどな」「やっぱりな」という感じだったのですが、続く第3位が「子どもの学校行事の再開」というもので、堂々の131票を獲得していることには若干の驚きを禁じ得ませんでした。

 回答には「PTAの会合や運動会などのイベント準備が煩わしい」との悲鳴や、ママ友との付き合いの面倒くささを訴える声が多数残されているということです。学校でのPTA活動などについては、以前から活動内容の不合理性や運営の不透明さから「時代遅れ」との指摘を耳にしてきましたが、さすがにこれほどまでに(世のお母さん方に)嫌われているのは驚きといえば驚きです。

 確かに、周囲の(働く)お母さん方に聞いても、PTAの活動や役員への就任を強制されたり、平日の昼間の会合に出席を求められたり、さらには「誰得(誰が得するのかわからない)」なイベントの準備をさせられたりと、不満は募るばかりのようです。

 そんな話を聞いていた折、6月25日の総合経済誌『週刊東洋経済』に、「ベルのマークは非合理的な社会への警鐘」と題する興味深い記事が掲載されているのが目に留まったので、小欄にその内容を残しておきたと思います。

 子どもの学校の代表的なPTA活動のひとつ「ベルマーク運動」によって、ゴールデンウィークの貴重な一日をつぶされたという愚痴を友人から聞かされたと、筆者は記事に記しています。

 ベルマーク運動は、各校の備品整備を目的に、文部科学省の認可を受けた財団が行う活動として広く公立学校に定着している。協賛企業の商品に付いているベルマークを集めて財団に送ると、1点を1円に換算して協賛企業から資金が提供されるというもの。PTAはその資金を学校に必要な各種備品の購入代に充当する仕組みだということです。

 記事によれば、この仕組みには60年以上の歴史があるということで、(そう言えば)私自身も当時の担任の先生に言われ、母親の目を盗んではお菓子や食品など、家じゅうの商品から手当たり次第にマークを切り取ったのをよく覚えています。

 子どもの数が多く、学校の備品整備が追い付いていなかった時代、この制度が一定の役割を果たしたのは確かだろうと、筆者は記事に綴っています。

 しかし、大人になって、この活動が、学校にマークを持っていけばそれで終わりではないことを知った。集まったマークを協賛企業ごとに仕分けし、点数を計算して、それぞれの会社の整理袋に入れたうえで、財団に送る必要があるということです。

 一般的に、この作業を担っているのはPTAで、学校が開いている平日の昼間に、親が動員される学校も多いと記事はしています。

 数十人の大人が半日作業しても、得られる経済的価値はごくわずか。その拘束時間分を働いて時給を寄付した方が合理的という声にも納得できる。増してや最近は共働きの家庭も多い。わざわざ有給休暇を取得して、子どもと遊ぶ時間を犠牲にしてまでもやるべき作業ではないだろうというのが筆者の見解です。

 それでは、全国でこの運動を中止したらどうなるのか。子どもと外出する時間が増えて消費が増えるかもしれないし、仕事をして所得が増える親がいるかもしれない。どちらもGDPの増加に寄与するもので、協賛企業にとっても(外装のデザインコストなどを考えれば)寄付などの別の形で社会貢献をした方が効率がいいはずだと筆者は話しています。

 友人の子供の学校のPTAでも、過去に(一部の親たちから)運動廃止の提案があったが、「先人の気づき上げてきたものを自分の代で終わらせられない」との反対でとん挫したとのこと。いかにも日本的で笑ってしまうが、停滞する日本にはこの手の非効率・非合理が山のようにあるのだろうというのが、この記事で筆者の指摘するところです。

 さて、私も(私の親たちも)子どもの頃に参加させられてきたベルマーク運動。令和の時代まで延々と続けられてきていることがまず驚きですが、その間のデジタル技術の進歩にもかかわらずシステム自体が全く変わっていないことにも、学校という場所の持つ「保守性」のようなものが伺われる気がします。

 もとより、ベルマークのような取り組みについては、「みんなで集め合う気持ちが大切なのだ」といった「精神論」を持ち出す人もよく見かけます。しかし、戦時中の「千人針」ではないのですから、子どもたちによる廃品回収やペットボトルのキャップの回収なども含め、同調圧力を使って「努力」を無駄遣いするこうした効率の悪い取り組みはさっさとやめるべきだと私も思います。

 因みに、ベルマーク運動を主宰しているベルマーク教育助成財団は文部科学省認可の公営財団公人で、その設立や運営には朝日新聞や文部科学省OBなどが大きくかかわっていると言われています。

 半世紀以上に及ぶ活動で全国レベルのネットワークや利益の仕組みが固まってしまうと、市町村レベルの教育委員会や個別の学校長、ましてや一介のPTA会長では、なかなか簡単に「一抜けた」とは言い出せないプレッシャーのようなものがあるのでしょう。

 しかし、元来、学校教育に必要な備品の整備は自治体の役割のはず。ベルマーク運動などの保護者による労働奉仕に頼っていてよいはずがありません。コロナの影響も一段落したこの際、PTAの会員諸氏は(子どもを人質に取られているから…などとは言わず)はっきりと声を上げるべきだと思うのですが、果たしていかがでしょうか。


#2202 発達障害の子供が増えている理由(その2)

2022年07月08日 | 教育

 発達障害は、広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害とされています。発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどが苦手とされますが、他方で優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子(それは往々にして本人の「生き辛さ」として現れるのですが)が理解されにくいという特徴もあるようです。

 その行動や態度は「自分勝手」とか「変わった人」「困った人」と誤解され、敬遠されることも少なくないと言われています。物事へのこだわりが強かったり、人の気持ちに無頓着だったり、衝動的な行動を繰り返したり、そのほかにも不注意、多動、多弁などその行動を「うっとおしい」と感じる人は多いことでしょう。

 そんなとき、「彼は発達障害だから…」と誰かに聞けば、「それじゃしょうがないな」と確かに思うことでしょう。それで、彼に対して抱いていた「反感」のようなものが、きれいに消え去る人も多いかもしれません。

 しかし、その瞬間に芽生える「上から目線」というか、「諦め」というか「許し」というか、そうした感情が、それまでのお互いの(対等の)関係を崩すものであることは想像に難くありません。自分たちとは違った人、対等に話ができない可哀そうな人として保護される側に回った彼らは、(大げさに言えば)既に大切な人権の一部を奪われていると言ってよいかもしれません

 さて、そんな発達障害の子どもたちが一人の人間として人格を認められ、生き生きのびのびとその才能を発揮できるようにするにはどうしたらよいか。そこには、障害の実態をよく知る専門家と、開かれたな教育環境としての学校の存在が重要であることは言うまでもありません。

 現在、発達障害による学習や生活の困難の改善・克服を目的とした特別の指導である「通級指導」を受けている児童生徒数は、全国で約10万人に及ぶとされています。その数はこの16年ほどの間に約4倍にも増え、特別支援学級に在籍する児童生徒数もここ10年で2倍以上に増えているということです。

 (逆に言えば)これは、学校の(他の子どもと一緒の)授業だけでは学業についていけない子供や授業の妨げになる子供などが、それだけ急増しているということ。学校現場にとって、(彼らの存在が)教育上の深刻な問題(あるいは「差しさわり」)として受け止められていることの証左と見ることもできるでしょう。

 そうした中、深刻な問題としては、「発達障害」と診断された児童生徒の(こうした)増加に伴い、脳の中枢神経に作用する「抗精神薬」の(低年齢層への)投与が増えているという実態を懸念する声も大きくなっているようです。

 医療経済研究機構が2014年に発表した研究によれば、13歳~18歳の患者のうちADHD治療薬を処方された割合は、2002年~2004年と2008年~2010年を比較すると2.5倍にまで増加しており、ADHD薬ばかりでなく、抗うつ薬、抗精神病薬の投薬量についてもそれぞれ1.4倍に膨らんでいるということです。

 これらの薬剤の多くは脳の中枢神経に作用する抗精神病薬で、気持ちの高ぶりを(一時的に)抑えるといった効果を期待するもの。つまり、いずれも自閉症の根本的な治療薬ではないとされています。

 集団生活になじめなかったり、パニックを起こしやすかったりする子どもに対し、学校側が(こうした抗精神薬の)服用を勧めるケースなども多いと聞きます。しかし、眠気の誘因や意欲の減退などの副作用を伴う抗精神薬の(幼い頃からの)常用に関しては、その影響がよくわかっていない部分もあるようです。

 そもそも「発達障害」は病気ではなく「特性」であるため、「治る」とか「回復する」とかいった性格のものではありません。「ちょっと変わった人」である彼らを社会が受け入れるにはそれなりのハードルはあるとは思いますが、なぜここまでして子供を「障害」の枠にはめ、「治療」を行おうとするのか。

 一部には、子どもを「障害児」と見なすことで、子どもが「普通にできない」ことに苦しむ親たちが「自分の育て方のせいではない」(障害があるだから仕方がない)と気持ちを楽にさせることができるからだと指摘する声もあるようです。

 実際、子どもが「発達障害」と診断されたことで、「肩の荷が下りた」「穏やかに接することができるようになった」と話す親たちも多いという話をしばしば耳にします。

 勿論そこには親や学校ばかりでなく、現代の日本社会が、「普通」であることにそれだけの価値を置いているという現実があるのでしょう。発達障害と見なされる子どもたちが増えている背景にある、「普通でないものを認めようとしない」「普通でないものを排除する」力の存在を無視するわけにはいきません。

 さらに言えば、学校や社会において「普通」の範囲が狭まっているという現実もがあると考えられます。これまでは(「しょうがないな」とか「ああいう人だから」と」)大目に見られていた人や出来事を許容できない不寛容な時代、(「障害者」というエクスキューズでもなけれ)ば「ちょっと変わった人」が生き残れない容赦のない時代が、既に訪れているということなのかもしれません。