MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2587 MT車のメリット

2024年05月25日 | うんちく・小ネタ

 私の車はアニュアル車。イマドキ何でそんなものに乗っているのかとよく聞かれますが、慣れ親しんでしまったものは仕方がない。マニュアル車(以下MT車)にはMT車なりの乗り味もあって、なかなか離れがたいのが現実です。

 特に私は、オートマ車のアクセルから足を離している間の(ニュートラルレンジに入っているような)頼りない状態が大嫌い。街中を走っていても、パワーをかけているのかエンジンブレーキをかけているのか「どちらかにしろよ!」言いたくなるのは、元オートバイ乗りの性のようなものかもしれません。

 とはいえ、先日のようにGWの高速道路で大渋滞にはまったりすると、隣の車線の自動運転と思しき高級車やオートマSUVが羨ましくなるのもまた事実。クラッチを踏む左足がかったるくなってくるのをさすりながら、己れの意固地さを呪ったりしています。

 欧州車の一部を除いて、今ではほとんど見かけなくなったMT車。今後、乗用車のEV化がさらに進めば、トランスミッションすら要らない時代が(そう遠くない将来)確実にやってくることでしょう。

 そんな折、私のようなこだわりのドライバーにも朗報が。4月30日の自動車情報サイト「ベストカーWeb」に、『運転は「ちょいムズ」のほうがいい!? 安全運転には3ペダルマニュアル車のほうがいいってホント!?』と題する記事が掲載されていたので、この機会に紹介しておきたいと思います。

 国内を走るクルマの実に98%がAT車であるといわれる現在、新型車ではマニュアルミッションのモデルを探すことすら難しい。スポーティな走りや燃費面でのメリットがあるといわれていたMT車だが、技術的な進化によってそうしたポイントですら、今やAT車に軍配があがるケースも多くなったと記事は話しています。

 もはやAT車と比べてMT車にはメリットはないのか…とMT車好きの人は落胆するかもしれないが、実はMT車にはもうひとつ、AT車と比較して大きなメリットがあるというのが記事の指摘するところです。

 それは、AT車と比べてMT車のほうが事故を起こす確率が低く、安全性が高いとされていること。実際、2000年に鳥取環境大学・情報システム学科の調査においてAT車とMT車の事故率を比較した結果、全てにおいてAT車のほうが高く、「右左折時」や「出会い頭の衝突」、「追突」では、AT車はMT車と比較してほぼ2倍という高い事故率を記録していると記事はしています。

 高度な安全装備が備わる現代のクルマでは少々事情は変わってくるかもしれないが、ここで言う「MT車の安全性の面でアドバンテージ」とは、具体的にはどんな点なのか。

 例えば、最近は社会問題ともなっているアクセルとブレーキの踏み間違いによる暴走事故。高齢者ならずとも、誰もがその加害者になる可能性があるが、(記事によれば)MT車ではその踏み間違いによる急発進が、構造上起こりづらいということです。

 確かにAT車は、ブレーキペダルから足を離し、アクセルを踏み込むだけで走り出すことができます。しかし一方のMT車は、一度クラッチペダルを踏んだうえで、アクセルペダルで徐々にエンジンの回転数を上げながらクラッチペダルを戻して駆動をつなげなくては走り出すことができません。

 こうして、かなり複雑な手順を踏む必要があるMT車では、意図しない急発進をした場合でも、エンストやクラッチペダルを踏み込むことで、AT車のような暴走を防ぐことができると記事は説明しています。

 最近では、意図しない急発進を防ぐ「誤発進抑制機能」を備えるAT車も増えてきているが、(全ての車に搭載されているわけではないため)構造的に踏み間違いが起きにくいMT車は、安全面での安心感はより高いということです。

 さらにMT車は、エンジンブレーキを使用しやすいことから長い下り坂が続く峠道などでの減速を含めたスピードコントロールがしやすく、フットブレーキの踏みすぎによって発生する「フェード現象」や「ペーパーロック現象」を防ぐことができるのも大きな利点だと記事は言います。ブレーキのトラブルは即事故につながる。それだけに、これもMT車の安全面でのメリットと考えていいということです。

 加えて、(これは私も前々から感じていたことですが)運転時の操作や負担が少ないAT車では、運転に余裕があるぶん、ほかのことに気を取られることも多くなるというのが記事の認識です。

 テレビを見たり、スマホを操作しながらのいわゆる「ながら運転」ができるのも、操作に余裕があればこそ。わき見をしたり眠気が起こったりと、運転をするための手順が少ないAT車では、そのぶん注意力が散漫になって事故につながる可能性もあると記事は指摘しています。

 MT車を運転するには手数が必要で、ほかのことに気をとられる余裕が少ない。「余裕がない運転」というと何だか危険なイメージがあるが、MT車はほかのことに惑わされることなく、運転に集中ができる環境にあるということです。

 AT車しか乗ったことがないという人からすると、「MT車の運転は難しい」と敬遠してしまうかもしれないが、ひとつ間違えば周りの人を傷つける可能性があるクルマの運転は、少々面倒で難しいくらいの方が緊張感を持って臨めるのかもしれないと記事はしています。

 データによれば、令和3年中に運転免許を取得した人のうち、AT限定で取得した人は70%を超えている由。確かにこの数字を見る限り、MT車はやはり「昭和の遺物」、MTを操る技術も日本人の間から失われていくのかもしれません。

 それだけに、「クルマを操る楽しさを感じられる」という感覚的な部分だけで語られがちなMT車の魅力について、安全性という面でもAT車と比較してメリットがあるという点をぜひ忘れないでいてほしいと話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2583 ネガティブなのも悪いことばかりじゃない

2024年05月16日 | うんちく・小ネタ

 「困難に出会っても前向きに受け止めよう」「ネガティブな私にさようなら」…ソーシャルメディアに並ぶそんな見出しに辟易としている御仁も、日本には(もしかしたら)多いかもしれません。

 誰にでも(物事がうまくいかず)嫌になったり不安になったりする状況は訪れるはず。そんな時、周囲から掛けられるのがこんな言葉ばかりだったら、「大きなお世話だ」と言ってやりたくもなるでしょう。

 このちっぽけな島国日本で生まれ、狭い人間関係の中で「人様に迷惑をかけないように」と育てられてきた私たち。そうした中で、まっすぐ前を向き自由にポジティブに生きていくには、(それなりに)恵まれた環境が必要なような気もします。

 実際、周囲を明るくするポジティブ思考が何よりも重要だと説く人は多いけれど、「自己肯定感が高くなければ幸せになれない」というのでは、それ自体ずいぶんネガティブな発想だなという気がしないでもありません。

 そんなことを漠然と考えていた折、「主婦の暮らしの情報サイト」を標榜する『シュフーズ』(4月19日)に「悪いことだけではない?『ネガティブな性格の人』における5つのメリット」と題する記事が掲載されているのを見つけたので、参考までに内容を小欄に残しておきたいと思います。

 最近では良くないイメージを持たれがちなネガティブな性格。しかし、(嫌われがちな)ネガティブ思考も、実は全てが悪い方向に働くわけではないと記事は指摘しています。 それでは、ネガティブな性格には一体どのようなメリットがあるというのか?その一つに、ネガティブ思考の人は危機管理能力や察知能力が高いことが挙げられると記事は説明しています。

 ネガティブな人は、不安や恐怖といった感情が優勢なので、周囲をよく観察している。当然、周囲の人間関係の変化を敏感に察知しやすく、派閥の存在や危険人物をかぎ分け、自分がどうすべきなのかを見極めて行動するよう心がけているということです。

 彼ら・彼女らは、内輪もめなどに巻き込まれそうなど、自分の身に不利益が降りかかりそうなときは、いち早く気が付き対処し始める。周囲の人との距離感も保ちやすい環境を整えていることが多いので、ごたごたに巻き込まれず軽やかに危機を回避できることが多いというのが記事の指摘するところです。

 ネガティブな性格の第二のメリットは、いつでも最悪の事態を想定しているので、意外と打たれ強いところにあると記事は指摘しています。ネガティブな人は、常に最悪の事態を予想しながら行動している。そのため、本当に最悪の事態が起きても想定内なので冷静に起きたことを認め、冷静さと打たれ強さを維持できるということです。

 そして3つめのメリット。それはネガティブな人は慎重に物事を進める点にあると記事はしています。

 ネガティブな人は周囲の人に対しての警戒心が強く、誰かを頼り切って作業や仕事を進めようとはしない。(言い換えれば)自分で慎重に丁寧に物事を進めていくので、想定外のミスが起きにくい面を持っているということです。

 そして、4つ目のメリットとして、記事はネガティブな人は基本的に疑り深く、そのため騙されにくいことを挙げています。

 なかなか心を許さない疑い深い性格は、人と打ち解けにくい側面がある一方で、初対面の人やかかわりが薄い人を丸ごと信用することはほとんどない。相手が信頼できる人だと確信するまでに時間がかかることが多いため、薄っぺらなウソにはだまされないというのが記事の見解です。

 そして、最後にもう一つ。「自分を鼓舞して成長するパワーを持っている」というのが、ネガティブな性格の人が持つ基本的な長所だと記事は話しています。

 ネガティブな人は自己肯定感が低く、自分が周囲の人よりも劣っていると思いがち。だからこそ、常に向上心を持って仕事に取り組む姿勢を持てるというのが記事の認識です。

 彼や彼女らは、周囲の人に迷惑をかけるわけにはいかないとがむしゃらに仕事に取り組む。人に迷惑をかけないよう惜しみなく努力を重ね、自分を鼓舞して成長するパワーは持っているということです。

 さて、以上の説明のとおり、ネガティブな性格だからと言って、決して自らを卑下する必要はないと記事はしています。そして、そこに必要なのは、自分のネガティブな性格をポジティブに捉えることのようです。

 最後に記事は、ネガティブな性格をうまく生かすコツをいくつかアドバイスしています。

 例えば、自分がネガティブであることを自覚し、自分自身を追い詰めないようにすることや、ストレスをため込まないよう(気分転換となる)趣味などを持っておくこと。さらには、自分の状況を客観視する目を持つことなどです。

 ネガティブな性格や思考回路は、絶対にポジティブ変換できるようになるべきではないと記事は最後に指摘しています。まずは、ネガティブな自分を受け止めて知ること。そのうえで、特徴を活かした仕事の取り組み方などができると話す記事の指摘を私も共感をもって読んだところです。


#2582 宇宙に始まりや果てがあるとしたら

2024年05月14日 | うんちく・小ネタ

 5月に入り、太陽の表面で起きる大規模な爆発現象「太陽フレア」の発生により、世界的な規模で広範囲に「オーロラ」とみられる現象が観測されていると各メディアが報じています。

 この日本でも、北海道に加え本州でも赤い夜空の撮影報告が相次ぐなど、その確認情報は枚挙にいとまがありません。一方で、フレアから生じた電磁波によって通信障害が起きる恐れも指摘されており、情報通信研究機構などにより十分な注意が呼びかけられています。

 テレビやネットなどでも各地で確認されたオーロラの映像が日々公開されており、見られやすい場所には毎夜天文マニアが押しかけている由。こうした情報に、遠い宇宙の出来事に(柄にもなく)思いを馳せている人も多いかもしれません。

 さて、一体、私たちの生きるこの宇宙とはどういうものなのか。そのそも、この宇宙はいつどのように始まり、そしてそこには「果て」があるのか。子供の時分、誰もが一度はそんな疑問を親や先生に投げかけたりしたことがあることでしょう。

 実際20世紀初頭まで、天文学の専門家も含めほとんどの人々が宇宙は定常的なものだと考えていたとされています。「宇宙には始まりがある」とする天文学者は皆無であり、宇宙の膨張を発見したとされるエドウィン・ハッブルも、一般相対性理論を確立させたアインシュタインですら、「宇宙に始まりがあった」という考えには否定的だったということです。

 そうした考え方を覆すことになった「ビッグバン理論」は、1922年にソ連の天文学者アレクサンドル・フリードマンが膨張する宇宙のモデルを発表したことに始まります。1927年にはベルギーのジョルジュ・ルメートルが、渦巻銀河が後退しているという観測結果に基き「宇宙は原始的原子 (primeval atom) の爆発から始まった」という仮説を提唱。次いで1929年、前述のハッブルが、銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっており、その速度が地球から各銀河までの距離に比例していることを発見したことで、「宇宙は膨張している」(かもしれない)という可能性が驚きとともに認知されるようになったということです。

 Wikipediaによれば、「Big Bang」とは、(宇宙が非常に高温高密度の状態から始まり、それが大きく膨張することによって低温低密度になったとする)ビッグバン理論における、最初の爆発的膨張を指す言葉。それは今から138.2億年前の出来事とされ、以来宇宙はどんどん膨張を続けていると考えられています。

 確かに、我々が観測できる宇宙空間が毎日毎日膨張しているとしたら、そこにはそうした動きが始まった「場所」と「時間」と「きっかけ」があったはず。それを何かの「爆発」とみるのは、最もわかりやすい推論と言えるでしょう。

 そこで気になるのは、それではこの宇宙が始まる前のこと。そこには一体何があったのか。爆発によって今の宇宙が生まれたとしたら、「その前」の状態はどんなだったかという部分です。

 そればかりではありません。宇宙が今も膨張し続けているとすれば、それではどこに膨張しているのか。膨張するためには「その先」の空間があるはずで、宇宙の果ての向こう側は一体どんなところかというところも気になるところです。

 さて、こうした(わかったようでよくわからない)問題に関し、5月14日の総合情報サイト「DIAMOND ONLINE」が、デイヴィッド・ベイカー氏の著書『早回し全歴史 宇宙誕生から今の世界まで一気にわかる』の一部を紹介していたので、参考までに小欄に概要を残しておきたいと思います。(「ビッグバン以前には何があった?という謎への答えとは?」2024.5.14)

 「ビッグバン以前」に関する疑問への答えとしてそこに記されているのは、「ビッグバン以前には宇宙は存在しなかった」というもの。空間はビッグバン後に生まれたもので、ビッグバン以前は何かが動けるような空間はなく、何らかの変化が生じるような場もなかったと記事は言います。

 変化がなければ何も起こらず、従って時間として計られる意味あるものは何も存在しなかった。もう少し簡単に言えば、要するにビッグバン以前に(我々が把握できるような)「空間」というものはなく、変化もなく動いたり形を変えたりするものもなく、もちろんそこには「時間」もなかったということです。

 なので、もしもビッグバン以前に何かが「存在」していたとすれば、それは(我々が知る)宇宙の基本法則では理解できない異質なふるまいをする何かであるはずだと記事は説明しています。そこには、原因があって結果があるという順序も、過去・現在・未来という時の流れもない。よって、私たちの宇宙(の歴史)はビッグバンから始まったと言えるということです。

 なるほど、時間とか空間とか物質とかいった(今の世界を形作っている)「決まりごと」というか「システム」自体がビッグバンとともに始まり、今もすごい勢いでその範囲を広げているということ。なので、もしも宇宙の果てまで行きつけば、そこから先には空間や時間は存在しない(つまり、そこはまさに「宇宙の果て」)ということなのでしょう。

 「ビッグバン以前」を気にする人は多いが、ビッグバン以前には「時間」自体が存在していない。したがってビッグバン「以前」は(そもそも)存在しないと記事はしています。ビッグバンの前にも何かがあったという考えは、子どもが父親と母親を引き合わせたと考えるようなもので論理的に不可能だと話す記事の解説を、私も興味深く読んだところです。


#2579 生き残るための優先順位

2024年05月05日 | うんちく・小ネタ

 ネットを使ったオンラインゲームの世界では、(とくにヨーロッパを中心に)ホームレスとして無法都市を生き抜くサバイバルをテーマとするRPG(ロールプレイングゲーム)の分野が一定の人気を保っているのだそうです。

 広く知られているのが、チェコのゲーム企業Perun Creativeが公開しているサバイバルRPGの「Hobo: Tough Life」というもの。(正直、私はやったことありませんが)2年ほど前に日本語版もリリースされていて、価格は2570円(税込)で誰でも参加できるということです。

 本作の設定は,冷戦の終結により共産党政権が崩壊し,政治的混乱から回復しつつあるヨーロッパのPraslavという架空の都市。新しい社会経済情勢に適応できずにホームレスとなったプレイヤーは、ホームレスとして厳しい日常において命をつないでいかなければなりません。

 生き抜いていくためには、食事や体調管理に加え、気候への対応や住処(シェルター)の確保などが求められ、食事ひとつとってもゴミ箱漁りから始めなければならないとのこと。ドラム缶に火を焚いて暖を取り、理不尽な暴力に耐え,行き交う人に施しを求めたり,犯罪行為に手を染めたりしながら物資を調達し,シェルター(住処)での生活環境を整えていくということです。

 命さえ明日に繋いでいければ、(とりあえずは)なんとかなる。ゲームのような状況ばかりでなく、毎日テレビの画像を通してウクライナでの戦場の毎日やガザでの難民生活を見ていると、今、ここにある逆境を生き抜くことの重要さというのがよくわかります。

 と、いうことで、4月19日の情報サイト「日刊SPA!」に『知らないと死ぬ!人間が生きるために「水、食事よりも必要」な最優先事項とは』と題する記事が掲載されていたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

人間が生存するために必要な要素を優先順に並べたものを「セイクレッドオーダー」という。危機的状況に陥ったときに死なないためには、生存するための優先順位を知っておき生存計画を立てることだと記事は解説しています。

 まず確保しなければならないのは(当然ながら)「空気」で、これがないと3分で命を落とす。通常の環境では空気を心配することは少ないが、火災などが起きればそういう状況も十分あり得るということです。

 空気に次ぐ2つ目は、「体温」とのこと。命を落とすまでの時間の目安は3時間ほどで、夏でも濡れた状態で風にあたると急激に体温を失ってしまう。実際、アウトドアでの死亡の原因のほとんどは低体温症によるものだと記事はしています。

 そして優先順位の3つ目は「水」です。人間が水を飲まずに生きられる時間はおよそ72時間。それまでに何らかの方法で飲料水を得なければならないと記事は説明しています。

 ちなみに、優先順位の4つ目は「火」、さらに(素人が考えがちな)「食」は5番手だと記事はしています。

 火が4番手に入るのは意外かもしれないが、調理をする熱や明かり(安心感)となる光が得られる火は、人にとってとても重要なもの。一方、人間は食料がなくても3週間から30日は生き延びることができるで、「食」は優先順位としてはそのあとに位置づけられるということです。

 さて、取り敢えずの問題として、緊急事態で優先するべきは「獲得する」ことよりも「保持する」ことだと記事は指摘しています。

 これは体温も同じで、焚き火などで体を温めることを考える前に、自分の体温を逃さないことを考えるべき。因みに体温を逃さない3カ条は、①濡れない、②風に当たらない、③冷たいものに触れないで、そのために必要なのが衣服の重ね着「ウェアリング」の技術だというのが記事の認識です。

  焚き火ができるアウトドアなら、シェルターと寝袋などの装備があれば、屋外でも快適に夜を過ごすことができる。しかし、災害時に十分な装備もない状態で寒い夜を過ごすのはとてもつらいはずだと記事は言います。

 発汗や風よけを考えながら、重ね着などで衣類の内側に空気の層を作ること。装備があり、状況が許すのであればむろん横になりたいが、そうすると体と地面が触れる面積が広がり体温がどんどん逃げていってしまう。体温を保持するためには、できるだけ地面に触れる面積を小さく、つまり座った状態でいられることも重要だということです。

 いずれにしても、災害が発生したばかりで未知の危険がある状態だとすれば、ぐっすり眠ること難しい。そうした中で可能な限り体力と体温を温存し、明日に命をつなげていく工夫が大切だと話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2578 思い出の旧き良きホンダ車たち

2024年05月02日 | うんちく・小ネタ

 「主婦と生活社」の男性向け情報サイト『LEON』に、自動車ジャーナリストの岡崎宏司(おかざき・こうじ)氏が「岡崎宏司の車備忘録」と題する連載を行っています。

 11月19日のお題は『ホンダの熱かった日々。N360、1300、バモス……カッコ良くて面白いクルマが次々誕生した!』というもの。1970年代のホンダは、私自身の記憶の中でもかなり個性的で魅力的な車を数多く発表していた印象があり、記事を懐かしく、そして楽しく読ませてもらったところです。

 「エスロク」や「エスハチ」などの軽量スポーツカーでクルマ好きをワクワクさせてくれたホンダ。そして、次に世に送り出した軽乗用車もまた、多くのクルマ好きを痺れさせるものだったと岡崎氏は記事に綴っています。

 そう、ホンダは、1967年に初の軽乗用車「N360」をデビューさせたが、これがまた驚くようなクルマだった。庶民の日々の足とはいえ、「走りに賭けるホンダの熱い想い」は、結果的に「元気よく、楽しく走る!」方へと、より力を注ぐことになったというのが氏の思うところです。

 31ps/8500 rpmの最高出力を引き出す強制空冷4サイクル2気筒エンジンは、気持ちよく9000rpm辺りまで回るまるでバイクのようなエンジンだった。それもそのはず、これはドリームCB450のエンジンをベースにしているもので、同時代の軽エンジンの主流であった2サイクルが20ps台前半の出力だったのに対し、N360のパワーは突出していたというのが氏の記憶です。

 それに、初期型ではオートバイの構造に近いノンシンクロの4速ドグミッションを採用していたのも(マニアックで)楽しかったとのこと。回転合わせのためのアクセル操作も案外簡単にでき、時々ガリッといわせたりはしても、大概の人は大過なく運転できたということです。

 9000rpmまで回るエンジンと4速ギアボックス。もちろん回せば気持ちいいが、ふつうの人がふつうの乗り方をしても、ストレスのないフレキシビリティも兼ね備えていたと氏は言います。この車を「初めての自家用車」として購入した若者も多かったはず。実際、N360はデビュー後数カ月で、軽自動車の販売台数首位を記録し、「安価で、使いやすくて、楽しくて、カッコいい」といった多くの魅力で、黎明期の日本のモータリゼーションを強力に牽引したということです。

 私も、20代前半の時分、知り合いのN360やバイト先のアクティ(軽トラ)をよく運転していましたが、ホンダの高回転型しかも粘り強いエンジンはスズキやダイハツの2サイクルよりもずっと運転しやすかったのを今でもよく覚えています。

 さて、3年後の1970年には、そんなN360をベースにしたスペシャルティカー「Z360」がデビュー。これはいわば、N360の2ドア クーペ版で、斜めにカットされ、太く黒い枠のガラスハッチをもつルックスは個性的で印象的だったと氏は話しています。デビューの翌年に追加された「GS」は、36psのエンジン、ドグミッションの5速MT、前輪ディスクブレーキを採用した、カッコよさと走りの楽しさを併せ持ったものだったということです。

 そして、Z360より少し早い1969年に送り出されたFFの「ホンダ 1300」も、時代を先取りした強烈な個性の持ち主だったと氏は(さらに)振り返っています。

 オーソドックスなデザインの4ドア セダンと流麗なスタイルの2ドア クーペがあったが、最大の特徴はそのエンジンにあった。「DDAC=一体式二重空冷」と名付けられたエンジンは、世界初にして世界最後のエンジンで、ホンダらしいアイデアと個性、そして強力なパワーを持っていたと氏はしています。オールアルミ製の1298cc 4気筒のエンジンはドライサンプ機構を持ち、上位のスポーツモデルはオートバイ並みの4キャブレター仕様。115ps/7500rpmの出力は、当時の1.8〜2.0ℓ並みだったということです。

 パワフルでスムース、エンジン単体としては非常に魅力的だったが、難点はエンジンの仕組みが複雑で、重くて、高コストだったこと。FWDだったこともあり、とくに前輪荷重の大きさがもたらす、ハンドリング面でのマイナスは大きかったと氏は言います。アンダーステアは強く、迂闊にアクセルを戻すと強烈なタックインに見舞われる。そんな癖を上手くコントロールしてワインディングをいかに速く走らせるか、仲間内で競ったりしたことなども記憶に残っているということです。

 実は、このホンダ1300は、私にとっても思い出深い車の一台です。新しもの好きの父親が1970年にこのクーペを新車で購入。家族で大阪万博などに出かけたのは子どもの頃の良い思いです。この車の個性的なスタイルにほれ込んだ父はその後もこの1300を10年以上乗り続けましたが、最後の方はオーバーヒートやエンジンの不調に随分苦しめられていたようです。

 ホンダ 1300 は決して成功作とは言えない。いや、間違いなく失敗作だと岡崎氏も記事に記しています。確かに、弱点欠点はいくつも挙げられた。でも、不思議なことに「妙に惹かれる、妙に気になる!?」クルマだったことは間違いないというのが氏の見解です。

 一方、同時期、1970年にデビューした「バモスホンダ」も楽しかったと、氏は次に振り返ります。定員2名と4名の2種があったが、基本フルオープンで幌は座席部分のみと「フルホロ」が用意された。ドアはなく、転落防止用のガードパイプが設けられているだけ。車体前面にマウントされたスペアタイヤは「衝突時のショック吸収」との説明はともかく、ルックス面での魅力を大きく引き上げていたということです。

 バモスのシンプルさは、ストレートにカッコよさに繋がっていた。その魅力は50年以上経った今でも旧さを感じさせず、これほど理屈抜きでカッコいい車は今でも見当たらないだろうというのが氏の見解です。

 そして、ワクワク時代のホンダを締めくくるのは、何と言ってもシビックだろうと氏は話しています。同車は、1972年に登場したコンパクトHB。現在のSUVにも通じるようなシンプルでバランスのいいデザインは世界的にも拍手で迎えられ、ホンダ1300の失敗で窮地に立たされたホンダの救世主になったと氏は指摘しています。もちろん、(デザインとともに)成功の牽引役を果たしたのがCVCCエンジンで、厳しい排気ガス規制「マスキー法」を、後処理装置なしでクリアした世界初のエンジンとして、自動車史氏に残る存在となったということです。

 第4次中東戦争に端を発する第1次オイルショック。その影響で、燃費のいいコンパクトカーの世界的需要は一気に高まったが、CVCCシビックのデビューは、そのタイミングにもピタリと合ったと氏はしています。

 そんな時代背景もあって、CVCCシビックは世界的な大ヒット車になった。中型車や大型車に乗っていた人たちからの乗り換えも少なくなく、(米国を中心に)コンパクトでクリーンなイメージのシビックに乗っていると、「インテリに見られる」といった知的側面も人気を後押ししたとされるということです。

 さて、栃木県にある「モビリティリゾートもてぎ」に、ホンダ創立50年を記念して開館した「ホンダコレクションホール」という施設があります。ホンダが生み出してきた歴史ある車たちが所狭しと並び、車やオートバイ好きであれば丸一日を十分に楽しんで過ごせる空間となっています。

 かつては浜松の町工場のひとつにすぎなかったホンダも、時代と共に様々な変貌を遂げっていったことがよく分かります。現在では、押しも押されもしない世界企業となったホンダですが、たまには、クルマ好きはもちろん、そうでない人たちをもワクワクさせながら、4輪メーカーへの基盤を着々と固めていった歴史を振り返るのも悪くないと話す岡崎氏の視線を、私も興味深く受け止めたところです。


#2571 「ドリトス理論」を考える

2024年04月14日 | うんちく・小ネタ

 スーパーマーケットやコンビニの棚で、自らの存在感を主張するスナック菓子の袋たち。ポテトチップスやポップコーンの袋が並ぶ中、特に(日本離れした)ラテン系のパッケージで食欲を煽るのが、トウモロコシを原料とする「ドリトス」と言えるでしょう。

 ドリトスは、世界最大のスナック菓子メーカーであるフリトレーが、1966年にアメリカで発売を開始。現在では世界55ヶ国で販売されている、(いわゆる)トルティーヤチップスの代表選手です。

 製法は、コーンをすり潰して薄くのばした生地をオーブンで焼いてから油で揚げるとのこと。パリっとした独特の食感と香ばしさが特徴で、ディップなどを用意すれば、ちょっとしたパーティなどに出しても恥ずかしくないおつまみにも生まれ変わります。

 以前は都内の高級スーパーなどでしかお目にかかれない(輸入)スナックでしたが、1987年にカルビーの商標で知られるジャパンフリトレーが国内販売を開始して以降一般家庭にも次第に浸透し、最近では(以前はかなり大きかった)袋も小さくなって気軽に手を伸ばせる存在として認知されるようになっています。

 ポテトチップスよりも少し硬い独特の歯ごたえが病みつきになるドリトス。個人的には、インパクトのある赤い袋のメキシカンタコス味が好みですが、撮りためたビデオなどを見ながら夜中にビールと共に一袋を開けたりすると、「やっちまったぜ…」という不健康な罪悪感に襲われるのも事実です。

 次に買うときは、もう少しソフトな「タコス味」にしようかな…などと考えていた折、2月25日の総合情報サイト「Forbes JAPAN」に、ニューヨーク市立大学教授のBruce Y. Lee氏が、『不健全なモノや人に依存してしまうのはなぜ? ネットで話題の「ドリトス理論」を考える』と題する論考を寄せているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 SNSへの依存やろくでもない彼氏と縁を切れない状況と、人気のトルティーヤチップス「ドリトス」との間には、一見何の関係もなさそうに見える。しかし、最近TikTokで拡散した「ドリトス理論」に関する投稿動画は、こうした不健全な関係性について(改めて)考えさせてくれるものだと、リー氏はこの論考に綴っています。

 氏によれば、(現時点で)9万2600件以上の「いいね」を集めているこの動画では、アカウント主の女性が、ドリトスをはじめとするチップス系スナックの魅力を次のように説明しているとのこと。

 「ポテトチップスって食べだすと止まらなくなるよね。それは、その体験のピークが味わっているさ中に起こるから。食べた後じゃなくてね」。そして(続けて)「体験が終わってしまえば、そこには何も残らない」と断言しているということです。

 たしかに、ポテトチップスを一袋むさぼり食べた後に、空になった袋をしげしげと見つめて「食べられて本当によかった。これで社会的地位やキャリア、健康にもよい影響があるだろう。魂もレベルアップするはずだ。最高じゃないか!」と思うことは、まずないとリー氏は言います。

 薄いチップスを1枚、また1枚と噛み砕く際には、(確かに)つかの間の喜びを味わえたかもしれない。しかし一度胃袋に入ってしまえば、頭に浮かぶのは「あれ? あの味はどこに行っちゃったんだろう。次に食べるスナックの袋はどこにあったっけ?」といようなうこと(だけ)だというのが氏の認識です。

 本格的な食事なら、食後に満足感が残る。だが、満足感を得られないチップス系スナックの場合、次から次へと手元の袋が空になるまで口に運び続けてしまいかねないということです。

 勿論こうしたスナックは栄養満点とは言いがたく、一気食いは塩分とカロリーの過剰摂取という不健康な習慣につながる。甘い菓子や炭酸飲料、アルコール飲料などでも同様だと氏は話しています。

 しかも、この現象は飲食に限らず、依存性のあるさまざまな行動にも当てはまる。たとえば、デートや交際のパターンがそれ。新しいパートナーとの初セックスがたまらないという人もいれば、自分のためにならなくてもドーパミンが瞬時にどばっと出るような相手や状況に引きつけられる人もいる。ドラマチックに乱高下する関係性に心揺さぶられるという人もいるというのが氏の見解です。

 こうした絶え間ない「もっと欲しい」という衝動が、交際相手をとっかえひっかえしたり、波乱に満ちた恋愛関係にはまったりする原因となっている可能性がある。氏によれば、安定していて一貫性があり、究極的に高い満足感を得られるパートナーではなく、不適切な相手との付き合いを求めてしまうのもそのせいかもしれないということです。

 そして、おそらくソーシャルメディアにも、(こうした)同じ「依存を引き起こすリスクがあるのだろうと氏は指摘しています。

 たしかに、投稿の中には琴線に触れるものがある。だが、一過性の感情以上の何かが心に残るような投稿がどれだけあるだろう。携帯端末を置いてトイレに行ったり、寝たり、家族と団らんしたりする気になれるほどの満足感をもたらす投稿は、そんなにあるような気はしない。結果、満たされない心を抱え、SNSから得られる一時の感動を求めて、スマートフォンの画面を延々とスクロールし続ける羽目になるということです。

 こうした「ドリトス理論」は、依存のメカニズムの一要素のみを取り上げたにすぎない。何かに依存したり、悪い習慣をやめられなかったりする要因は、他にもいろいろ考えられるからだと氏は言います。

 しかし、この「理論」は、自分の行動を新たな視点で振りかえるのに役立つ。それは(何であれ)「ドリトスを一袋食べ尽くす」ような状況に陥りつつあるときには、自問してみる必要があるということ。それは、「これが全部終わった後に、自分はどう感じるだろう?」というもので、その答えが「それほどよい気分じゃなさそうだ」だった場合は、やめておくのが得策かもしれないというのが、氏がこの論考で示した結論です。

 夜中に、しょっぱいドリトスを一袋完食し、手に就いた赤いスパイスを舐めながら強い後悔を感じたことがあるのは(恐らく)私だけではないでしょう。

 実際、あの「背徳感」がまた「たまらない…」と感じる「M感」も分からないではありませんが、できることなら(ずるずると)繰り返したくはないものだと、氏の指摘を読んで私も改めて考えたところです。


#2534 コーラを飲むと骨が溶ける?

2024年01月27日 | うんちく・小ネタ

 先日、新作のスイーツをゲットしようとコンビニを訪れた際、サッカークラブの帰り道でしょうか、たまたまやってきていた母子のこんな会話を耳にしました。それは…

少年:「お母さん、ボク、コーラがいい。」

母親:「コーラはダメよ、骨が溶けるから…サイダーにしなさい。」

少年:「ダッサ、骨なんて溶けるはずないじゃん。コーラじゃなきゃいらない。」

というもの。

 そう言えば子供の頃、そのほかの飲み物に比べ結構値段の高かった(くびれた薄緑色のガラス瓶に入った)コカ・コーラは、背伸びがちな少年たちの憧れでした。「スカッと爽やか!」と、海辺でサングラスなどをかけたお兄さんやお姉さんが飲み干すテレビCMなどもあり、「大人の飲み物」として駄菓子屋などでも別格の存在だった記憶があります。

 そして、言われてみれば、当時の親たちも(なぜだか)子どもにコーラを飲ませたがらなかった。母親にねだったりしても、やはり返って来るのは「コーラを飲むと骨が溶ける」というものだったことを、かなり久しぶりに思い出した次第です。

 半世紀の時を超えて、母親たちの間で語り継がれてきた「コーラを飲むと骨が溶ける」という話。当然、子どもに「買い食い」をさせないための母親の知恵、よくある都市伝説だとばかり考えていたのですが、どうやらそうでもないようです。

  11月23日の総合情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に東京農業大学名誉教授で医学博士の田中越郎氏が『コーラを飲むと歯が溶けるは科学的に正しい…砂糖たっぷりのコーラが腐らないゾッとする理由』と題する一文を寄せていたので、参考までにその概要を残しておきたいと思います。

 世界的に非常にたくさん飲まれているコーラ類。しかしその成分は、単純な炭酸水とはまったく異なった飲み物だと田中氏はこの論考に記しています。コーラには、医学的にはまったくオススメできない、特に非常に困った点が4つあるというのがこの論考における田中氏の見解です。

 一つ目は「大量の糖が加えてある」ということ。コーラの最大の元凶は糖。しかも、糖のなかでもタチの悪い異性化糖(とうもろこしデンプンを分解してつくった果糖とブドウ糖)が大量に使われていると氏は説明しています。

 世界の貧困層の子どもたちに肥満児が多い原因のひとつにコーラの飲み過ぎ、つまり異性化糖の摂り過ぎが挙げられる。特に、途上国の子供を取り込むためのコーラ業界の戦略はえげつないほどで、10年後は肥満者がもっと増えているだろうと田中氏は予測しています。

 二つ目は、「強い酸が加えてある」ということ。炭酸飲料は普通酸性だが、炭酸水のそれは(pHおよそ4~5と)極めて弱いものだと氏はしています。一方、「コカ・コーラ」のpHは2~3とかなり強い酸性を示している。これは、「ウィルキンソン」など一般的な炭酸水の約100倍の強さで、腐敗防止、つまり殺菌の目的で加えられたリン酸やクエン酸によるものだということです。

 リン酸やクエン酸は蒸発しないため、気が抜けたコーラでもpHは3以下のまま。このためコーラは開栓して1週間放置しても、腐敗が進むことはないと氏は話しています。しかしそこには問題もある。コーラはこのように酸性度が極めて強いので、飲んだあとにその一部が少しでも口腔内に残っていると、その強い酸により歯を痛めるというのが氏の指摘するところです。

 そして、これが「コーラを飲むと骨が溶ける」という都市伝説発生の原因だろうと氏はしています。実際のところ骨は溶けないけれど、歯は溶ける。ということで、氏によれば、コーラを飲んだあとは歯を守るため、口を丁寧にゆすぐよう心がけるのが賢明だということです。

 そして三つ目の困った点は、「成分や添加物が明らかにされていない」ところだと氏は話しています。非公開ということは、何が入っているかがわからないということ。コカ・コーラの秘密主義は筋金入りで、製作者とも言えるエイサ・キャンドラーは1901年の裁判で「『コカ・コーラ』にコカインは含まれているか」という質問に対し、答えなかったとされているそうです。

 因みに、「コカ・コーラ」のリン酸含有量は非公開だが、「ペプシコーラ」(日本での販売会社はサントリー)のリン酸含有量はホームページで公表されている。氏によれば、隠蔽体質の多国籍企業と、正直に公開している日本企業との差がこんなところにも現れているのだろうということです。

 さて、四つ目に当たる最後の問題点として、田中氏は「子どものころから常飲していると『コーラ中毒』になること」を挙げています。

 食べ物の嗜好は18歳くらいまでに完成すると言われている。従って、18歳くらいまでコーラを常飲していたら、コーラが好物となり、一生飲み続けることになると氏は話しています。

 実際、氏の知人(欧米人)の中には、「コーヒーブレイク」ならぬ「コーラブレイク」を定期的にとっている人が大勢いるとのこと。幸い日本では、お茶やミネラルウォーターの牙城があるせいか、コーラのシェアはそれほど伸びていないが、コーラ類は飲まないで済めば飲まないに越したことがない飲み物だということです。

 さて、それでもコーラが飲みたくなることがあるかもしれません。そうした時はどうすればいいか。

 コーラ類は最初のひと口、もしくは最初の一杯がさわやかなのであり、惰性でペットボトル1本を全部飲むのは好ましくないというのが氏の意見です。従って解決策は、コップに取り分けて飲むということ。冷たいと舌の甘みの感度が低下するので、あまり冷やし過ぎないほうがよい。低カロリーを強調している商品もあるものの「カロリーゼロ」の商品でも25キロカロリー弱はあり、完全にゼロではないことに注意する必要があるということです。

 さらに言えば、砂糖の代わりに使われているのは人工甘味料。大人は多少摂取しても構わないが、やはり子どもには飲ませないほうが無難とのこと。私自身、コカ・コーラの営業妨害をするつもりはさらさらありませんが、コンビニのお母さんは(そして私のお袋も)正しかったということでしょうか。

 都市伝説に聞こえるようなお母さんの忠告にも、一度は真剣に耳を傾ける必要があるということでしょうか。もしも子どものことを大切に思うならば、コーラへの嗜好は育てないほうが幸せな人生を歩めると思うとこの一文を結ぶ田中氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2533 エナジードリンクはなぜ効くのか?

2024年01月25日 | うんちく・小ネタ

 先日、テレビのインタビューで、岩手県内にお住いの大正2年(1913年)生まれの久保田イチさん(110歳)が「長寿の秘訣は?」と聞かれ、「これまで生きてこられたのはリポビタンDのおかげ。今はリポビタンのおかげで元気になりました」と答えているのを聞いて、思わず笑ってしまいました。

 実際、リポビタンDは息子さんが毎回箱で50本くらい届けくれているものだとか。イチさんはそのリポビタンDを毎日欠かさず1、2本、それも一気に飲むのではなくて、日中にちびちびと長い時間をかけて飲んでいるのだそうです。

 「ファイト一発!」のリポDが本当に効いているのかどうかはわかりませんが、我々の世代にとっても親しみのあるリポビタンやオロナミン、ユンケル、リゲインなどの栄養ドリンクを口にすると、なんか疲労回復に役立っているような気がするのは事実です。それでは現代の若者たちも、こうした飲み物から元気をもらっているのでしょうか?

 株式会社RCCOO(東京都渋谷区)が運営するリサーチサービス『サークルアップ』が今年の9月、Z世代に対し「エナジードリンク」に関する調査を行っています。これによると、(いわゆる)エナジードリンクを「一日に1回以上飲む」と答えた若者は回答者全体のわずかに1%。以下、一週間に数回が6%、2~3週間に1回程度が8%、1カ月に1回程度が26%で、「ほとんど飲まない」との回答が全体の過半(58.5%)を占めたということです。

 コンビニによく並んでいるエナジードリンクと言えば「若者の飲み物」というイメージが強いですが、調査結果からはまだまだそれほど一般化していないことが見て取れます。なお、この調査において「エネジードリンクの好きな銘柄」を聞いたところでは、MONSTER ENERGYが34.7%とトップで、以下、「好きなものはない」が27.1%、Red Bullが21.8%、リアルゴールドが8.9%、デカビタが7.6%という結果だったそうです。

 自分自身ほとんどエナジードリンク系のものを口にしないので正直よくわかりませんが、(とは言え)黒いのやら青いのやら、あれだけコンビニの棚にたくさん並んでいるところを見ると、日常的に親しんでいるヘビーユーザーがそれなりにいるということなのでしょう。

 欲物による健康被害の危険性を知らせる横浜市のホームページによると、エナジードリンクの摂取には習慣性が生まれる可能性があるとのこと。依存状態が進行するとドリンクでは十分な効果が得られなくなり、市販のカフェイン錠剤や別の覚醒作用のある市販薬を多量に服用してしまうこともあるとされています。

 また、飲むのをやめても、身体からカフェイン(依存対象)がなくなった際に、離脱症状として、睡眠障害や精神不安、疲労感などの(過眠、イライラ、集中困難など)を起こす場合などもあるようです。

 さて、こうした話を聞いていると、コーラなどの炭酸飲料なども含め結構危険な香りがしてくるのですが、それでも(それだからこそ?)、あのほのかに甘酸っぱい口当たりやシュワっとした爽快な喉越しが恋しくなるのも(「スカッと爽やか」で育った)昭和の世代だからということでしょうか。

 東京農業大学名誉教授で医学博士の田中越郎氏によれば、イライラしているときに炭酸水を飲むとリラックス感が増し、気分を落ち着かせる効果があるとのことです。(「コーラを飲むと歯が溶けるは科学的に正しい…砂糖たっぷりのコーラが腐らないゾッとする理由」PRESIDENT ONLINE 2023.11.21)

 そのメカニズムははっきりしていないようですが、炭酸水に溶け込んでいた二酸化炭素が胃のなかで発泡して胃を膨らませ、胃の神経を刺激して副交感神経を活発化させるのではないかとのこと。胃の中の二酸化炭素は胃腸で吸収されて血液中に溶け込んだあと、最終的には肺から呼気中に捨てられる。その際、効率よく余計な二酸化炭素を捨てるために呼吸が深くなり、その呼吸運動が副交感神経を活発化させるという影響もあるようです。

 さて、そして次は「栄養ドリンク」の話。疲労回復には栄養ドリンクという人も多いが、その主成分は、①タウリン、②ビタミン、③カフェイン、④その他―に大きくまとまられると田中氏はこの記事で説明しています。

 ①のタウリンは肝臓の機能を助けるもの。お酒を飲んで疲れたときに適しているということです。一方、②のビタミンには代謝を助ける効果が期待できる。肉体的に疲れたときになどには効果があるかもしれないと氏は言います。

 そして、③のカフェインです。興奮剤の一種であるカフェインは精神的に疲れたときに適しているが、これは脳を興奮させて疲労感をゴマかしているだけとも言えると氏はしています。④の「その他」の代表選手は漢方薬や乳酸菌だが、いずれにしろ、1本飲んだからといって疲労が完全消滅することは期待しないほうがいいというのが氏の見解です。

 まあ、どれも「気休め」と言われれば気休めに過ぎない。この手のドリンクの最大の効果は、「効くはずだ」という本人の思い込みだろうというのが氏の指摘するところです。

 例えば、氏が試しに飲んでみた多数の栄養ドリンクの中で、最も効いた感じがしたというのが(ヤクルトが製造販売している)「タフマンスーパー」というドリンク剤だとか。元気が出たような気がしたが、これも「高麗人参1000mg」に加え、多くの人参エキスなどが入っている」というラベルを見たことが思い込みに火を付たからだろうということです。

 「病は気から」というのはよく聞きますが、健康に生きるためにもまずは「気持ちが」大切だということでしょうか。まあ、もしも毎日1本の「リポD」が長寿の秘訣になるのだとすれば、それはそれで安いものだと思わないでもありません。


#2500 哀愁の京浜急行

2023年11月23日 | うんちく・小ネタ

 地域を走る鉄道の風景は、その存在が日常的であるがゆえにその地域のイメージと結びつけられることが多いようです。そういう意味で言えば、東京の品川区から大田区にかけての下町の夕暮れ時、沿道を急ぎ足で家路につく人たちを追い抜いていく京急電車などはまさに絵になる光景と言えるでしょう。

 さらには、蒲田を越えたあたりの多摩川の河川敷に沈む夕日や、川崎から横浜の海岸地域にそびえる京浜工業地帯の夜景など、京急には様々に移りゆく東京湾岸地域の景色がよく似合います。沿線の家屋の軒下ギリギリを結構なスピードで駆け抜ける赤い京浜急行。そう、京急と言えばやはり「赤い電車」のイメージが強いのが特徴です。

 赤と白を基調とした塗装は1953年に初登場し、長らく京急の伝統として受け継がれてきたものとのこと。私が子供の頃などは「サハ280系」と呼ばれるおもちゃのような床が木でできた可愛らしい車両も(大師線を中心に)まだ時折走っていて、「戦後」と呼ばれる時代の郷愁を醸し出していました。

 改めて記せば、京浜急行電鉄(略して「京急」)は東京都港区の泉岳寺駅から京急川崎駅、横浜駅を経て神奈川県横須賀市の浦賀駅を結ぶ56.7kmの鉄道です。1899年に旧東海道川崎宿に近い川崎駅(後の六郷橋駅)から川崎大師近くの大師駅(現在の川崎大師駅)間を「大師電気鉄道」として開業し、2018年には創立120周年を迎えた国内でもかなり由緒のある鉄道路線といえるでしょう。

 現在、始発駅となる都営浅草線泉岳寺駅周辺は、隣接する山手線高輪ゲートウェイ駅周辺に行われている再開発事業の真っただ中。札ノ辻交差点に近い1街区から品川駅に繋がる4街区にかけ、泉岳寺駅、高輪ゲートウェイ駅を核に4棟の高層ビルを中心とした近未来的な交流空間が生まれる予定です。

 その泉岳寺駅を出発し横浜・三浦半島方面に向かう快特列車は、500mほどで地上に上がり都心のターミナル駅である品川駅に向かいます。2022年に開業150年を迎えた品川駅。京急電車はここで西に向かう大勢の客を乗せると、羽田空港方面への空港線を分ける京急蒲田駅を経て六郷川橋梁を渡り神奈川県に入っていきます。

 この間の乗り鉄たちのお楽しみは、何と言っても先頭車両。品川駅から八ッ山橋の鉄道橋を大きく車輪をきしませながら曲がっていくダイナミックな車両の動きは他の鉄道では体験できないもの。そして新馬場の駅を過ぎた辺りから続く直線区間に入ると、家並みをくぐる狭い空間を、京浜急行は(その名のとおり)急激に加速していきます。

 さらに線路は高架に上り、赤い電車は京急蒲田駅まで(「これでもか」と言う感じで)ぶっ飛ばします。運転代のスピードメーターは見る見る上がり、時速120kmに届こうというところ。実際、京急電車の子のスピードは首都圏の私鉄の中でも一・二を競う速さだということです。

 京急蒲田駅までジェットコースター並みのスリルを堪能したところで、多摩川を渡ってすぐの場所に位置しているのが京急川崎駅。ここでは大師線が北に分かれ、赤い電車は京急鶴見駅や幕末の「生麦事件」で知られる生麦駅などを経て海岸沿いをさらに西に進みます。

 川崎駅から先、景色は打って変わって親しみやすい古くからの住宅街。たくさんの踏切や小さな駅をやりすごし、間もなく電車は横浜駅に到着します。ここで多くの乗客を降ろした電車は、東京湾沿いに三浦半島の東縁をなぞるように南下。マンションなどの開発が続く上大岡駅や逗子・葉山線に分岐する金沢八景駅、米軍基地のある横須賀中央駅などを経て、線路は終点三崎口駅に向かって伸びています。

 京急蒲田駅の高架化を経て、近年では最高時速120kmの快特が走り「とにかく速い」というイメージが先行する京浜急行。しかし、気分を変えて品川駅で各駅停車に乗り換えると、また違った景色が浮かんでくるから不思議です。

 実はこの京浜急行、優等列車と普通列車の差が首都圏近郊各線で最も大きいことで知られています。確かに京急では、快特と各駅停車は車両の雰囲気からしてかなり違う印象。古い車両が多く編成も短い「普通」(←各駅停車)は塗装もいい感じにくすんでいて、ある意味ほのぼのとした雰囲気を醸し出しています。特に3年ほど前まで走っていた800型などは、がたつくモーター音だけでもそれとわかるのんびりしたものでした。

 その「普通」列車に乗ると、品川から9駅目の梅屋敷(7.2km)まで23〜25分。表定速度(停車時間などを含む地点間の速さ)は実に20kmを下回る17.2kmで、首都圏の通勤電車でも断トツの遅さとされています。一方、「特急」はスイスイと24駅目の横浜(22.2km)まで22分で走り、表定速度は60.5km。同じ時間で行ける距離は3.08倍もの差があるとされています。

 さて、こうして新しさと古さが入り混じった京浜急行は、より庶民的な香りの高い京成線や少しお高く留まった東急の各線、埼玉の田舎っぽさを引きずる西武鉄道や東武鉄道などとはまた違った、独特の味わいを醸し出しているといえるでしょう。

 特に、JRなどで用いられている軌間1.067mの狭軌に対し40cm近くも広い広軌(軌間1435cm)を採用している京急の安定感は抜群で、すれ違うごとに様々な型式の電車がみられることもあって乗り鉄の間では高い評価を受けているということです。

 そう言えば私の周囲でも、そのスピードと運転技術の確かさ、さらには地域密着型の親しみやすさなどから、「首都圏で最も好きな路線は?」と聞かれて胸を張って「京急」と答えるマニアが多い気がします。

 同じ東京23区でも、北部や東部に暮らす人には(羽田空港に行く時くらいしか)あまり乗る機会のない京浜急行は、暑い夏が似合う電車。折からの温暖化で、来年の夏もきっとまた暑い日が続くでしょう。そんな時は是非、冷房のギンギンに効いたかわいい赤い電車の先頭車両に陣取って、三浦半島の海に海水浴にでも出かけてみてはいかがかとお勧めするところです。

 


#2478 女性はなぜ長生きなのか?

2023年10月09日 | うんちく・小ネタ

 「人生100年時代」と言われて久しい昨今、中でも日本は世界で一、二を誇る長寿国とされています。2020年に行われた厚生労働省の調査によれば、女性の平均寿命は87.74歳と世界一。男性も81.64歳で世界2位と、日本の高齢者のタフさは際立っている様子です。

 しかし、そこで気になるのは男女の平均寿命の年齢差が約6歳もあること。長く生きることだけが幸せとは限りませんが、ジェンダー平等が叫ばれるようになったこのご時世に(初老を迎えた男性のひとりとして)何だか不公平な気がしないでもありません。

 実は、女性の寿命が男性より長いのは日本だけではなく世界的な傾向とのこと。WHOが発表した「世界保健統計(2021年)」を見ても、先進国、開発途上国を問わず、ほぼ全ての国で女性の方が長寿だとされています。

 また、女性が男性よりも長生きするようになったのは最近のことではないとのこと。100年以上前の1891年~1898年の資料をみても、平均寿命は男性42.8歳、女性44.3歳だったとのことで、日本でも明治の当初から女性の方が長寿だったことがわかります。

 戦争や事故、犯罪などに巻き込まれるケースが男性の方が多い可能性はあるとしても、総合的な体力や出産などのリスクを考えれば女性だって生きていくのは決して簡単ではないはず。それなのになぜ、女性の方が(こうも明確に)長生きなのか。

 そんな疑問に対し9月4日の経済情報サイト「PRESIDENT Online」が『進化生物学が解き明かした「おばあちゃん仮説」をご存知か』と題し、解剖学者の養老孟司氏と生物学者の小林武彦氏の対談を記録した『老い方、死に方』(PHP新書)の概要を紹介しているので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 動物学的には、子どもを産めなくなった時期、つまりメスの閉経を「老化」、それ以降を「老後」としていると小林氏はこの対談で説明しています。そして、その定義で言えば、ヒト以外の哺乳動物で老後があるのはシャチとゴンドウクジラだけ。ヒトとゲノムが99%同じ寿命40~50歳のチンパンジーでも、死ぬ直前まで排卵があって生殖可能なので「老後」という時期はないということです。

 ではなぜヒトの女性は、50歳前後で閉経した後も30年以上生きるのか。進化学の世界では、その理由の一つを「おばあちゃんは若い世代の子育てを手伝うなどの役に立つから」だとしていると小林氏は話しています。

 これをその世界では(親しみを込めて)「おばあちゃん仮説」と呼んでいるとのこと。ヒトの先祖は今で言うところの類人猿のように、体が毛で覆われていた。変異で徐々に体毛を失い今の姿になったが、そのためヒトの赤ちゃんはチンパンジーやゴリラのように母親にしがみついて移動できなくなったと氏は言います。

 赤ちゃんはそれにより、大人に抱っこされ、世話をしてもらわないと生き残れなくなった。これは親からすれば、子育てに大変な時間と労力がかかるようになったことにほかならないということです。

 そこでおばあちゃんの出番がやって来る。(集団生活の中で)閉経後の女性が、子どもの子育てを手伝う、あるいは子どもに代わって孫の世話をするという使命を担う必要が生じた。閉経したからといって人生を終わりにするわけにはいかず、結果、ヒトは老後の人生を生きることになったというのが氏の見解です。

 これはおそらく、男性(「おじいちゃん」)も同じだったろうと氏はしています。生物学的に言えば、「おばあちゃん」や「おじいちゃん」が長生きな家庭が、より子どもを多く残せて選択されたということ。子育ての期間が長くまた、子供に手がかかったからこそ、じいちゃん・ばあちゃんの手と知恵が求められたということでしょう。

 また男女を問わずシニアには、若い世代の子育てを手伝うことに加えて、社会をまとめるという重要なミッションがあったと氏は続けます。

 シニアがこれら2つの役割を果たしたことが、結果的に乳幼児の生存率を上げ、同時に生き延びるのに有利な集団が形成されていった。繁殖能力を失い老化した後も社会の役に立つ人たちのいる集団が生き残り、彼らの子孫としての私たちが存在しているというのが氏の認識です。

 なので、現代人の寿命が(さらに)ここまで延びたのは、シニアが社会に求められて存在しているおかげだと見ることができると小林氏はここで指摘しています。求められているからこそ長生きしている。逆に言えば、人間のシニアには求められている役割をしっかり果たす必要があるということでしょう。

 だから私自身は、年齢で一律に解雇する「定年制」には反対だと氏は話しています。辞めたかったら定年を待たずに辞めて、ほかのやりたいことをやってもいいし、会社に残って働きたい人は仕事を続ければいい。(高齢化が進めば進むほど)定年制の名の下にシニアを排除していくようなシステムはあってはいけないと考えるということです。

 この社会では現在、一生懸命働いているシニアに向かって「老害」と揶揄したり、社会から排除しようとしたりする向きが一部に起こっている。しかし、誰だってやがて年を取るのに、そういう見方はないだろうと氏は言います。

 シニアが社会基盤を整えて、そのうえで若い人が自由にイノベーティブに生きる。そういう2層構造があるからこそ、人間の社会は高い生産性を達成でき、発展していくものではないか。

 若者だけだったら、自分たちが欲望のままに暴走するのを誰も止められず、社会の秩序が乱れてしまうかもしれない。(そんな社会に)いいことはあまりないように思うと話す小林氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2477 日本のおいしい水道水

2023年10月07日 | うんちく・小ネタ

 夏の暑さもピークを迎える毎年8月1日は、「水の日」とのこと。この「水の日」から1週間が「水の週間」とされており、水道事業の啓発などを目的に全国的で様々な行事が実施されているということです。そんな水の日を前に、総合情報サイト「All About」が7月中旬、全国の10~70代の1000人を対象に行った「飲料水・水道水」に関するアンケート調査の結果が7月30日の同サイトに掲載されました。

 この調査結果からわかったのは、普段飲んでいる飲料水としては「水道水(そのまま)」が34.1%。次いで、「ペットボトルの水」が26.7%、「水道水(浄水器使用)」が25.4%と続き、約6割の人が普段から「水道水」を飲んでいるということ。ペットボトルのミネラルウォーターがこれだけ普及している状況をみると、「案外多いな…」と思わないでもありません。

 また、水道水を「そのまま」もしくは「浄水器を使用して」と回答した人が多かったエリアは、「北海道」が60%でダントツのトップ。次いで「中国・四国」(45.36%)、「中部」(41.67%)と、やはり(水のきれいな)地方部の方が高いような印象です。もっとも、同調査における「ペットボトルの水をよく飲む」ランキングでは、1位が「東北」の32.39%、2位が「関東」の31.13%、3位が九州・沖縄の27.38%ですので、まあ「よくわからない」ということもできるかもしれません。

 ともあれ、水道の蛇口をひねって流れ出た水をそのまま飲むことができるこの日本は、世界的に見れば極めて恵まれた状況にあるといえそうです。国土交通省の資料によれば、世界の国のうち、「水道水をそのまま飲める国」は日本を含む12ヵ国のみ。「そのまま飲めるが注意が必要な国」を含めても32ヵ国とされています。

 アジアで水道の水が飲めるとされているのは、日本とアラブ首長国連邦の2ヵ国のみ。ヨーロッパは水道水を利用できる国が多いエリアですが、カルシウム分の多い硬質の水は日本人には合わないと言われています。カナダやアメリカでは水道水を直接飲む習慣がなく、アフリカでは衛生面の問題から(現地の人以外は)ミネラルウォーターの購入がおすすだということです。

 様々な条件の下、水道設備のようなインフラ整備には大きな投資が必要なことは言うまでもありません。政府の資金が乏しい国、技術があっても国土が広い国などでは、(インフラを隅々まで整備するよりも)水は買って飲むという選択を採ること現実的だということでしょう。

 もちろん世界の中には、多くの子供たちが飲料水を原因とする下痢で命を落としたり、女性たちが毎日半日かけて井戸まで水を汲みにいかなければ生活が成り立たたない地域があるのも事実です。水道水として日常的な飲料可能な水を提供できるということは、(環境に恵まれた)我々が思っている以上に重要なことなのかもしれません。

 さて、(ともあれ)日本の水道水がどこよりもおいしいのは、海外に出かけたことのある人ならわかるはず。9月4日の経済情報サイト「ITmedia ビジネスオンライン」では、ユーザーが選んだ(その中でも)えりすぐりの県を紹介しているので、参考までに小欄でも紹介しておきたいと思います。(「水道水の満足度調査を実施、結果は…」2023.9.4)

 蛇口からそのまま飲めることを売り物にする自治体も増えてきた水道水。水道水の満足度が高い都道府県の1位は「長野県」(満足度86.7)であることが、ホワイトループ(東京都渋谷区)の調査で分かったと記事は記しています。2位は「青森県」の満足度83.3。以下「鳥取県」の80.0、「熊本県」の77.8、「新潟県」の75.9、山梨県の75.0と続いたということです。

 長野と言えば北アルプスや中央アルプス、青森は奥入瀬渓谷、鳥取は大山、そして新潟は越後の雪解け水や山梨の南アルプス天然水など、確かにどの県もきれいな水源には事欠かないことでしょう。実際、回答者からは「子どもから大人までみんな水道水の水をそのまま飲む」(長野県、40代男性)、「蛇口をひねるとミネラルウオーターサーバーが出てくるような感覚」(青森県、40代女性)といった声が挙がっているということです。

 一方、水道水の満足度が低い都道府県の1位は、「沖縄県」(同18.8)とのこと。以下「山口県」(同21.4)、「長崎県」(同25.0)、「奈良県」(同26.7)、「和歌山県」(同28.6)、「東京都」(同33.7)と続き、結果から見れば水道水の評価は西日本でやや低いといった印象です。

 なお、自然が豊かな沖縄の水道水の満足度が低い理由として、調査を実施したホワイトループ社は「水道水に適した軟水の水源がそもそも少ないことがある。海に囲まれていることからミネラル分が多く、水の硬度が高すぎて日本人がおいしいと感じにくいのではないか」とコメントしているということです。

 ともあれ、山奥の限界集落から沖縄の離島に至るまで、飲料可能な水道がしっかり整備されているのが日本の行政のすごいところ。昨今では浄水場や管路網などの老朽化が進みその維持もかなり大変なようですが、いつの時代も水道は最重要の生活インフラ。ここはひとつ、役所の意地を今後も示してもらいたいと感じるところです。

 因みに、私が最もおいしいと感じたのは、静岡県の三島市の水道水。この地域の水道水はすべて地下水を源としており、富士の雪解け水がもたらす湧水群がある柿田川近辺で取水されています。各家庭に供給されている水はまろやかな軟水で、水温は16度前後で安定。pH値も申し分なく、この水で飲む水割りは最高だったと(特に)記しておきたいと思います。


#2415 生成AIのリスクとは?

2023年05月25日 | うんちく・小ネタ

 国内外の企業の間で、対話型の人工知能「チャットGPT」などの(いわゆる)「生成AI」を活用する動きが広がっていると報じられています。

 現在注目されている「生成AI」とは、インターネット上などの膨大な情報を基に、あたかも人が作ったような文章や画像などを作成する機能を備えた人工知能のこと。業務の大幅な効率化につながると期待される一方で、セキュリティや著作権の取り扱いの問題なども指摘されており、リスク管理のための制度の方が追い付いていない印象も受けます。

 実際、4月末に群馬県で開催された主要7カ国(G7)デジタル・技術相会合では、「責任あるAI」の推進が共同声明に明記され、個人情報の保護や偽情報に対処するルール作りが必要との認識で一致したものの、日米や欧州諸国で認識の差が大きく具体的なルール作りには踏み込めなかったとされています。

 なお、大臣会合での議論を受け、先般閉幕したG7広島サミットの首脳声明には、「チャットGPT」に代表される「生成AI」について「年内に国際ルールを取りまとめる」との目標を定めるとともに、「民主的価値に沿った信頼できるAIを達成するために国際的な議論を進める」と明記されることとなりました。

 今後、担当閣僚による協議にあたっての枠組みである「広島AIプロセス」を新たに立ち上げ、生成AIの利活用や規制のあり方などに関する見解を年内に取りまとめるということです。

 誰にでも気軽に利用できる、まさに身近な存在になるであろう「生成AI」.。しかし、それはそれで「両刃の剣」のようなもの。汎用性の高さ、利便性の高さを活かすためにも、国際間で多くルールを定めておく必要があるということでしょう。

 いよいよ現実のものとなってきた「生成AI」を巡るこうした状況を踏まえ、5月1日の時事通信が、「企業に広がる生成AI リスクを管理、効率化へ先取り」と題する記事において、件の「生成AI」の潜在的なリスクを整理しているのでこの機会に紹介しておきたいと思います。

 蓄積された多くのデータから、人の手を介さずに高精度な文章や画像を生成する生成AI。インターネット上に公開された情報を学習して生成した人工的な画像やイラスト作成には、(まず)著作権侵害などの可能性が指摘されていると記事はしています。

 また、生成AIはそれ自体、誰でも簡単に使える反面、間違った情報を拡散する危険性や偏見を助長する懸念もあり、(悪意なく)生み出された偽情報が社会に混乱をもたらすといった「脅威論」は相当に根強いということです。

 こうした不安感から、イタリア当局が3月末、データ利用の扱いを問題視して米オープンAIの「ChatGPT(チャットGPT)」の国内利用を一時禁止したのは記憶に新しいところ。また、企業によっては、機密情報を入力しないなどのルールを設けるところも多いということです。

 そうした中、記事は生成AI導入に当たってのリスクについて、以下の5つに整理しています。

 その一つ目は「ハルシネーション」というもの。ハルシネーションとは、AIモデルが事実とは異なる不正確な回答を生成する問題を指す言葉です。

 AIモデルは、意識を持った人間ではなく、あくまで訓練とデータにのみ基づいて回答を提供するためこのような問題が発生する。訓練に使われるデータが、偏った回答や的外れな回答につながる可能性があり、特に生成AI製品が信頼され活用されるようになればなるほど、誤りを発見することは難しくなるというのが記事の指摘するところです。

 二つ目は、(広く知られた)「ディープフェイク」が生まれるリスクです。ディープフェイクとは、生成系AIを使用して、実在する人間の特徴を模倣した偽りの動画や写真、音声を作成すること。ハルシネーションと同様、ディープフェイクは偽のコンテンツや誤った情報の拡散につながり、深刻な社会問題を引き起こす可能性があるというのが記事の見解です。

 そして三つ目のリスクは「データプライバシー」の問題だと記事は指摘しています。 生成系AIでは、大規模言語モデルの訓練のためにしばしばユーザーデータが保存される。このデータプライバシーに対する懸念が、イタリアがChatGPTを禁止した最大の理由であり、同国は、①データ収集についてユーザーに適切な情報提供がなされていないこと、②大規模なデータ収集を正当化する法的根拠がないこと、および③年齢確認がされていないこと…などを懸念材料として挙げているということです。

 そして四つ目に挙げられているのは、「サイバーセキュリティ」に関するリスクです。 生成AIモデルはコーディングなどの高度な能力を備えるが、悪用されて、サイバーセキュリティの懸念を引き起こす可能性がある。より高度なソーシャルエンジニアリングやフィッシング攻撃に利用されたり、攻撃者が悪意あるコード生成を簡単に行うために生成系AIを利用する可能性もあると記事はしています。

 そして五つ目、最後のリスクとして記事は「著作権の問題」を挙げています。生成 AIモデルは、インターネット上にある大量のデータを使用して回答を生成するため、著作権も大きな懸念材料となる。原作者が明示的に共有していない作品も使用して新しいコンテンツを生み出すため、(どこまでが許容されるのか)コピーライトの在り方に関する新たな議論が必要だということです。

 さて、こうしてみてみると、親しみやすく簡単に扱えそうに見える「生成AI」も、(初めてこの技術に出会った)人間の方にはまだまだいろいろな準備が必要だということが判ります。実際、私もお試し版のChatGPTを使ってみましたが、本格的な利用には相当のトレーニングが必要だろうなと強く感じているところです。

 とはいえ、遠い将来、人類のパートナーともなりうべきAIとのおつきあいは、まだまだ始まったばかりです。善意も悪意も持たない彼らに、我々は一体何を教え込んでいくのか。この技術を生かすも殺すも、私たちの心がけ次第と言うことでしょうか。


#2409 かかりつけ医の選び方

2023年05月13日 | うんちく・小ネタ

 いつでも、誰でも、どの医療機関でも、同じ値段で必要な医療サービスを受けられることを建前とする日本の医療制度。普段は(当たり前すぎて)あまり有難いとも感じませんが、こうした制度を有する国は世界の中でもそんなに多くはありません。

 おさらいをすれば、日本の医療制度は、①国民全員に公的医療保険への加入を義務付ける「国民皆保険」、②誰もが保険証1枚さえあれば医療機関を自由に選ぶことができる「フリーアクセス」、そして③窓口負担だけで診療や薬の給付などの必要な医療サービスを平等に受けることができる「現物支給」…の3点に特徴づけられるとされています。

 中でも、患者が望めば、病院でも診療所でも自由に受診医療機関を選べるフリーアクセスを採用している国は案外少なく、多くの先進国では、医療機関受診に関してかなり厳重なアクセス制限をかけている例が多いようです。

 患者が自由に自分の信ずる医療機関を選べるフリーアクセスは、患者にとってはありがたい制度のように感じますが、総合的に見れば良いことばかりではないのも事実です。

 例えば、多くの人が「軽症」であるにもかかわらず大病院を受診したり、軽い病気で救急車を利用したりすれば、結果として医療従事者の疲弊を招くリスクが高まります。また、(需給の偏りによって)限られた医療資源の利用に無駄やロスが増え、それが医療費の高騰につながっているという指摘もしばしばなされているところです。

 しかし、そうはいっても現在の日本の制度が「そういうもの」になっている以上、これを上手く使わない手はありません。人は誰でも(同じお金を払うなら)より良いサービスを受けたいもの。少しでもいいお医者さんを選びたいと考えるのは、(市場原理から見ても)当然のことと言えるでしょう。

 それでは、件の「いいお医者さん」はどのように選んだらよいのか。なかなか素人には判断し難いこの問いに関し、作家で精神科医の和田秀樹氏が4月19日の「PRESIDENT ONLINE」に、『これの有無で「いい医者か」がわかる…医院の待合室で真っ先に確認すべき"備品の種類"』と題する一文を寄せているので、参考までにそのポイントを残しておきたいと思います。

 「かかりつけ医」を選ぶときに、注意したい点の第一。当たり前のことだが、まずは「通いやすい医院」を選ぶことだと氏はこの論考に記しています。

 通院にかかる時間もそうだが、待ち時間や駐車場の様子も重要な要素となる。「評判がいいから」「知人にすすめられたから」といっても、診療を受けるまでに時間がかかる医院は、避けたほうが賢明だというのが氏の最初のアドバイスです。

 そして、さほど苦労をせずに通えそうな医院に目星をつけたら、足を運ぶ前に、まずは電話を一本かけてみること。質問内容は「駐車場の様子」や「何時頃、すいているか」などの無難なものでいいと氏は言います。

 もしも、そんな(簡単な)質問に対して医院側の対応がぞんざいであれば、それはやる気がないか、人手不足で電話をとるのも大変という状態だということ。いずれにしても、避けたほうが賢明だというのが氏の意見です。

 次に、医院に着いたらまず確認してもらいたいことがある。それは、待合室に空気清浄機や加湿器があるかどうかだと氏は話しています。

 それらは、院内感染を防ぐための必需品。見当たらないようなら、感覚が古く、配慮の足らない医院とみてかまわない。清潔で整理整頓が行き届いているか、働いている人がハツラツとしているかなどと併せて観察してみてもらいたいということです。

 次に、肝心の医師について。診察室に入ったら、患者側からも医者をよく「診察」しようと和田氏は提案しています。

 そこでの一番のポイントは、患者の話をよく聞くかどうか、治療方針や薬についてきちんと説明するかどうかという部分。とりわけ、高齢者に対しては、(多少心得のある臨床医なら)「過去の病歴」を詳しく聞くはずだということです。

 そして、それ以上に大切なのが、待合室の患者さんたちの様子だと氏は言います。

 診療を待つ患者さんたちが元気であれば、患者に合わせ適量の薬を出す医者で、そうでなければ薬を出しすぎる医者だと考えられる。これらのことは「歯科医」を選ぶ場合も同様で、歯科医の場合は、「保険治療と自費治療」について詳しく説明をしてくれるかどうかもについても評価のポイントになるというのが氏の見解です。

 患者と話しをする際もパソコンのディスプレイから目を離さず、症状に対処するための薬を出せば自分の仕事はそれで終わり。きちんと服用しているかどうかなどには興味のない医師も多いと聞きます。

 患者の症状だけでなく、既往や日常の食事や暮らしぶりにも関心を示し、個人の状態を意識したうえで生活のアドバイスに乗ってくれること。素人にはなかなか難しい部分はありますが、それでも(良い医者を見極める)ポイントはいくつかあるのだなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。


#2388 「悟り」はどこにあり、何をもたらすのか?

2023年03月29日 | うんちく・小ネタ

 「宗教は人を幸せにするのか?」…こうした問いに対する明確な答えを、少なくとも日本人の多くは未だ持ち合わせていないようです。

 普段は知られることのないオウム真理教などのカルト宗教の実態や、(最近では)統一教会の権力との癒着、(「幸せになりたい」という)人の心の弱さにつけ込んだ布教の様子などがしばしば報道される昨今。不遇にあえぐ人を社会とは隔絶された空間に囲い込み、教団の利益を最優先する「洗脳」によって無抵抗の信者に変えていくその手法に、こうした問いの難しさと闇の深さを感じるばかりです。

 とは言え、「信仰」を持つことが、私たち弱い人間にとって社会の在り方や人生の大きな進路を示すものになっていることは歴史が証明する通りです。

 迷い苦しんだ時に人々の道標となり、どうにもならない不安や苦しみに傷ついた心を救ってくれる存在。また(例え)そうした追い詰められた状況になくても、日々の生活を導き理想と現実のギャップや欠落感を埋めてくれるものとして、信仰は人々を支えていると言えるかもしれません。

 そうした個人による「信仰」(への努力)が、最終的に目指しているもの。それが「悟り」の体験であることは、多くの宗教に共通していると言っても良いでしょう。

「悟り」とは、修行や信心によって神様や仏様の境地に近づくということ。凡俗から逃れ、宇宙の真理たどり着くことで究極の平安を得たいと考えるのは、「生」というものに多くの不安を抱える人間の、まさに「業」のようなものかもしれません。

 人はどうすれば幸せになれるのか。こうした根源的な問いに答えるために研究を進める科学者の話が1月26日の「Forbes JAPAN」に掲載されていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。(『薬物を使わない「自発的な覚醒体験」を探求する最新研究』2023.1.26)

 世界的な評価の高い心理学の学術誌『Frontiers in Psychology』に掲載された新しい研究は、自発的な覚醒(悟り)という曖昧な現象を探求している。英国グリニッジ大学の心理学者ジェシカ・コルネイユはその論文において、「スピリチュアルな覚醒とは、認識された究極の現実、宇宙、宇宙意識、または神との直接的な接触、結合、もしくは完全な一体感の体験を突然感じることを特徴とする主観的な体験」と定義づけていると、記事はその冒頭に記しています。

 実際、スピリチュアルな覚醒(の体験)については、文化圏を跨いだ膨大な逸話的証拠があるにもかかわらず、主流の心理学においてほとんど研究が進んでいない。一方、スピリチュアルな覚醒は双極性障害や統合失調症などの精神障害に見られる特定の症状と重なるため、医学界では通常、病的なものとして扱われていると記事はしています。

 コルネイユによれば、スピリチュアルな覚醒は、例え関連する診断可能な精神的疾患がなくても、「単独の体験」としてしばしば起こることがあるとのこと。さらに、逸話的証拠によれば、スピリチュアルな覚醒は多くの長期的なポジティブな結果をもたらすことが示唆されているということです。

 このような「覚醒」によってもたらされる(ポジティブな)影響には、①精神的・肉体的なウェルビーイングの大幅な改善、②親社会的および親環境的な行動の促進、③精神病理的傾向のリスク軽減などがあるとコルネイユは述べているということです。

 その具体的な心理的・霊的変化には、例えば

  1. 意識が現実の客観的なフィルターにかけられない性質として認識するものについて、内なる深い知見または理解の感覚を経験する。これは通常、宇宙のすべての人、すべてのものとの相互関係の深い感覚をともない、しばしば感謝、エクスタシー、至福、畏敬の深遠な感情を引き起こす
  2. 不安や恐怖、特に死への恐怖が減少する
  3. 超感覚的知覚の強化、例えば、偶然の一致の増加、自分の人生に望むものを引き寄せる能力が亢進する
  4. 精神的・身体的なウェルビーングの増進(慢性的な痛みがなくなったという報告など)や社会性の向上「使命感」または無私の奉仕をしたいという気持ちが高まるとともに、自然の中でより多くの時間を過ごしたいという気持ちなど環境保護的な行動が増加する
  5. 物質主義への関心が薄れ、人間関係や進路の変化などが具体的に変容する

などが(共通する)特徴として挙げられるということです。

 さらに、コルネイユの研究では、スピリチュアルな覚醒は次のような要素と深い関係性が認められることを指摘していると記事はしています。

 それは、①感情的感受性、開放性、創造性、共感性、好奇心の高さ、② 「トランスリミナリティ」と呼ばれる内的外的物質が意識の閾値を越える傾向(トランス状態への親和性)、③催眠術にかかりやすい、空想癖…など。

 そしてコルネイユは、この特性は、「詠唱、祈りなどの共同的反復活動や、向精神薬の摂取などによる恒常性のバランスのくずれ」によって増大することがあるとしていると記事は指摘しています。

 加えて、論文では、側頭葉てんかんに特徴的な症状を示す側頭葉不安定性が、スピリチュアルな覚醒を予測することにも触れているとのこと。側頭葉てんかんは、すでにスピリチュアルな体験と関連づけられており、宇宙的、あるいは神のような存在やエネルギーを強く感じたり、無限とのつながりを深く感じたりするなど、スピリチュアルな覚醒と特徴を共有しているということです。

 一方、記事によれば、このような精神状態は(DMT、LSD、MDMA、大麻などの)薬物による変容状態や(浮遊タンク、無響室暗室、ホロトロピックブレスワークなどを利用した)非薬物による変容状態と一連の感情を共有しているとのことです。

 しかし、ユイネルは研究の成果として、スピリチュアルな覚醒のほうがより深い経験であると報告している。さらに、スピリチュアルな覚醒は、神秘体験を引き起こす強力なサイケデリック物質であるシロシビンやDMTによって生じる変容状態に、最も類似していることも判ったということです。

 さて、記事によれば、コルネイユはこの論文の最後に、スピリチュアルな覚醒に関するこうした研究の意義を「このような経験は、私たちに別の生き方を示している」と話しているということです。

 彼女はそれを「生命に対する畏敬の念と献身、そして愛を育むことへの深い願望に満ちたもの」と説明しているとのこと。で、あれば、もしもこうした(慈愛に満ちた)「悟り」の境地を科学的に解き明かすことができれば、人類は現代社会を突き動かしている「利益」や「合理性」を超えた新しい社会規範を獲得できるかもしれません。

 個人という枠を超えて意識を広げ、宇宙や生命が存在することの「意味」を(ある意味)納得することは、人間として生きるに当たっての価値観や世界観の変容にも繋がっていくはず。(「荒唐無稽」と言ってしまえばそれまでですが)個人の幸福感はもとより、人間社会全体を根底から大きく変える可能性を秘めているのではないかと、記事を読んで私も改めて感じたところです。


#2387 幸せに生きるための(案外お手軽な)方法

2023年03月28日 | うんちく・小ネタ

 1月の前半の日本経済新聞の経済コラム「やさしい経済学」に、京都大学総合人間学部准教授の柴田悠(しばた・はるか)氏が『幸せに生きるために』と題する興味深い連載を残しています。

 幸福を感じることはそれ自体で価値のあるものだが、それぞれの個人に対しても(実際に生きていくうえでの)さらなるメリットをもたらすと氏はこのコラムに綴っています。

 米カリフォルニア大学のソニア・リュボミアスキー教授らの研究などによれば、幸福感がより高い人は、例え生活水準などが同じでも、他人の利益を意識した行動に向かう傾向や仕事の質・満足感・収入がより高く(収入は約20パーセント増加)、人間関係はより豊かだったとされている。さらに、負傷や疾病、死亡のリスクがより低く、寿命が7.5年ほど長いことも分かったということです。

 また、「幸福感」の研究を進める関西福祉科学大学の島井哲志教授は近著において、「各瞬間の幸福感」ではなく、「後で幸福感をもたらすような行動や経験」が人の行動や考え方に大きな影響を及ぼすことを示唆していると柴田氏は語っています。

 人はどうすれば幸福になれるのか。それ自体は人文科学が追い求めている究極の目標なのかもしれませんが、実は日常的な行動の中で試せる案外簡単な方法によって、私たちも(自身の)幸福感を高めることができるというのがこのコラムにおいて氏の指摘するところです。

 その一つ目は、毎日の食事を「味わって食べる」ということ。カナダのブリティッシュコロンビア大学ヤン・コーニル准教授らの調査では、味わって食べる習慣は学歴や所得とは有意な関連はないが、幸福感とは有意な正の相関があることがわかったと氏は言います。

 つまり、学歴や所得にかかわらず、この習慣が顕著な人は幸福感が高い傾向があるということ。もちろん、味わって食べることで幸福感が高まるのか、幸福感が高いから(日々の糧に感謝して)味わって食べるのかは分かりません。しかし、味わって食べていない人からは「幸せ」が逃げて行ってしまうというのは何となくわかるような気もします。

 因みに、この習慣と肥満の程度は(必ずしも)相関していないと氏は話しています。むしろこの習慣が顕著な人は、(有難いと思い噛みしめている分)小食の傾向が強いということです。

 幸福感を高めるための二つ目の方法は、「経験を味わうこと」だと柴田氏はこのコラムに記しています。

 カナダのビクトリア大学のポール・ホセ准教授らのグループの調査では、この傾向が強い人は、ポジティブな出来事が少なくても(つまり「上手くいかないこと」が続いても)、多い人と同程度の高い幸福感を感じていたということ。しかも、「ポジティブな出来事が多くてもそれを味わうことのない人」と比べ、幸福感が有意に高かったということです。

 詳細を見ていくと、「経験を味わう」ことのない人はポジティブな出来事の頻度によって幸福感が影響を受け、一喜一憂していたと氏は説明しています。一方、経験を噛みしめ味わえる人は、(「気持ちいいね」とか「辛いね」などと)他者とその感情を共有することなどによって、自身も救われることが多かったということです。

 そして、幸福感を高める三つ目の方法は、「自然と触れ合うこと」だと氏はしています。

 米アラバマ大学のホセ・ユン教授らの調査によれば、自然の豊かな公園で20分以上の時間を過ごすと、活動量とは無関係に幸福感が高まることが判ったとのこと。また、シンガポール国立大学のリ・二エム氏らの実験では、自然公園で20分以上歩く場合、①より長時間歩く、②自然とのつながりを感じる感性が強い、③公園が混雑していない、④公園の動物多様性が高い…場合ほど幸福感を高めることが示されたということです。

 自然との繋がりや自然の多様性を感じながら自然豊かな場所でできるだけ長い時間を過ごすことが、人間に幸福感をもたらすということでしょうか。人もやはり自然の中から生まれ出でた「生物」のひとつであり、対人ストレスの中で傷ついた心が、多様性の高い自然に触れ合うことで「癒される」というのは一つの道理かもしれません。

 今日からでも実践できるこれら三つの方法で誰もが必ずしも幸せになれるとは思いませんが、人生を「流す」のではなく、経験をきっちりと受け止め、自身の感情をひとつひとつ確認しながら生きることが、(もしかしたら)「幸せ」の近道なのかなとコラムを読んで私も改めて感じたところです。