Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

アジフライ

2024-06-01 06:00:00 | エッセイ

 

麦藁帽の隙間から汗が額から頬へと伝い、

かすかな風にシャツがそよいでいた。

そのシャツは確か、開襟シャツ風なものだったと思うが、

その時僕は小学3年生だったか、それとも4年生だったか……。

何せ70年ほども前の話だ、定かではない。

生地は水色に白の水玉模様、これははっきりと覚えている。

8歳違い、母親代わりだったとも言える姉が、 

1日がかりで縫ってくれたものだった。

姉はこのシャツを僕に着せ、この海辺の町に連れて来たのである。

ここには姉のボーイフレンド、後に義兄になる人がいた。

後に考えれば、嫁入り前の姉が一人で彼に会いに行くのは

両親が許すはずがなく、それで許しを得るため僕を連れて行く、

姉なりの苦心の策だったのだと思う。

 

           

   

そんな姉の思いはともかく、僕にとっては心弾む小旅行だった。

ここで初めて釣りもした。

釣りを教えてくれたのは、もちろん、義兄である。

初心者でも比較的簡単にできるサビキ釣りだった。

面白いようにアジゴがかかった。

たちまちバケツはアジゴで溢れるほどになった。

そして、僕が釣ったこのアジゴは

フライになって晩御飯の食卓に置かれていた。

もちろん、姉の手料理だった。

 

        

 

姉、義兄と3人の食卓は何か不思議な感じがした。

姉がお母さん、義兄がお父さんみたいな……。

「姉ちゃんは、なんで大浦小町とか言われとると?」

いきなり僕がそう尋ねると義兄は、

「ウハッ」と吹き出し、姉は顔を赤らめた。

なぜ、こんな話をしたのだろう。自分でも分からない。

ここに来てからずっと姉が嬉しそうな顔をし、

輝いているように見えたからかもしれない。

「おうち、そがんことば、どこで聞いてきたんね」

「近所の兄ちゃんたちが、そがん言うとらした」

「タケオ君、小町というのは美人、きれか女の人ということたいね。

タツコ姉ちゃんはきれかやろうが。そいで、小町って言われとるとさ」

「ふーん、じゃ大浦って何?」

「そいはね、タケオ君たちが住んどる所が大浦町やろ。

そいで、大浦町でいちばんきれか女の人を、大浦小町と言うわけたいね」

「そがんことね。やっぱい、姉ちゃん、きれかもんね。

だから、おじちゃんも姉ちゃんを好いとっとね」

今度は義兄が苦笑いだ。

「ほんと、せからしか子やね。早よ、ご飯ば食べんね」

姉はそう言いながら、義兄の顔を見てニコリとした。

フライは瞬く間になくなり、

義兄が作った食後のアイスキャンディーは、満足のおまけだった。 

 

 

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シングルレコード

2024-05-26 06:00:00 | エッセイ

 

「テーブルの上にお菓子の箱があるでしょう」

帰宅すると、「お帰りなさい」に続けて妻はそう言った。

「ほほう、どんなケーキかな」甘党の僕はニンマリとする。

「では早速……」開ければ、そこにケーキはなく、

ドーナツ盤、つまりシングルレコードが何十枚も重なっていた。

でも、がっかりもせず、腹も立たなかった。

むしろ、ケーキへの思いはたちまち消え、

「どれ、どれ」とそれらのレコードを探り始めたのだった。

「押し入れの中を整理していたら、そんなのが出てきたのよ。すっかり忘れていたわ」

そう言えば、妻は前日から押し入れをゴソゴソやっていたっけ。

 

五行説では「青」は春の色とされ、そこから夢や希望に満ち、

活力みなぎる若い時代を春にたとえて「青春」と言うようになったのだそうだ。

もう60年ほども前。確かに心身に活力がみなぎっていた。

そんな頃、どんな歌を聞いていただろうか。

僕はやはりビートルズ、これに尽きる。

歌も髪型もファッションも、何もかもが新鮮だった。

 

 

だが、菓子箱の中にビートルズは一枚もない。

さだまさしの「防人の詩」、日野美歌の「氷雨」、

佐藤隆の「12番街のキャロル」などといった邦楽、

アニマルズ、ロッド・スチュアート、レイ・チャールズ、

コリー・ハートなどの洋楽——何だかまったく一貫性のない

レコードが全部で34枚あった。

「防人の詩」「12番街のキャロル」などは40年ほど前に出ているから、

ビートルズに夢中だった頃に集めたレコードでないのは確かだ。

おそらく40歳ちょっと手前の頃に聞いていたものだろう。

 

「青春」とは高校生の頃から30歳手前、そのあたりに違いないとは思う。

だが、年齢だけでそう決めつけなくてもよいのではないか。

知人は「幾つになろうとも、〝ときめき〟をなくしてはいけませんね。

むしろ、年を取るほどに〝ときめき〟が必要かもしれません」と言った。

その言葉が、なぜか僕の胸の中に張りついたままになっている。

 

菓子箱の中に重なる34枚のレコード。

これらは最初の「青春」を終え、さまざまな喜怒哀楽を積み重ねた末の、

ちょっぴり大人の哀歓をにじませた40歳あたり、

「第2の青春」とも言うべき時を過ごした証しに違いない。

これらの歌に、心ゆらし、ときめきながら聞いていた記憶がじわりと蘇ってくる。

僕にとり、あの頃もまた大切な青春時代であり、

それを押し入れの中にしまい込んだままにしていたのだ。

 

今、ボーカルのレッスンに通っている。

かつてのように歌を聞く機会は減ったが、逆に歌っている。

ビートルズをはじめとする洋楽も、またフォークソング系の歌も。

その時はかつての日々を思い出し心弾み、和む。

「青春」というのは年齢に関係ないことかもしれない。

僕は今、「第3の青春」を楽しんでいる。そうに違いない。

 

 

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僕の先生

2024-05-20 10:32:59 | エッセイ

 

腰は右にくの字に折れ、脚はOの字。時に歩きにくく、汚れた道を、身を打ちつけながら凌いできた81年という時。懐かしい。無垢な幼い日々。

 

一 福島のおねえちゃん

 

小学1、2年生の時の担任だった福島先生は、学校でも僕を「たー坊」と呼んだ。僕も「福島のおねえちゃん」と言った。何せ50㍍と離れていないご近所さん同士。年の差を考えれば一緒に遊ぶなんてことはあるはずもないが、小さい頃から出会うたびに「たー坊」「おねえちゃん」と親しんでいたから、そう呼び合うのはごく自然なことだった。母にすれば、そうであっても先生を「おねえちゃん」なんて呼ぶのは申し訳ないことだと思ったのだろう、「学校では先生と呼ばんといかんよ」と言った。「うん、分かった」頷いてはみたものの、やっぱり、ひょいと「おねえちゃん」と出てしまうのだった。

「たー坊行くよ。用意出来てるね」おねえちゃんは毎朝決まって、そう声をかけてくれた。学校へ一緒に行くのだ。母は笑顔ながらに「先生が迎えに来てくれるよ。ほれ早く」真新しい布製のランドセルを背に急かせた。玄関の戸を少し開け、そこからおねえちゃんが来るのを待ちわびたように覗き見る。ほどよく日に焼けた顔、すらりと引き締まった体、まるでスポーツ選手のようだ。「たー坊」と呼ぶのと同時に戸を開け、「おねえちゃん、おはよう」と言った。「あっ」あわてて母を振り返り、ちょんと頭を下げた。

学校の途中には長い石段があった。「さあ頑張って」おねえちゃんが手を引いてくれる。それがまたうれしくて、少しくらいの風邪なんかでは決して休まなかった。

そんなおねえちゃんが、突然いなくなってしまった。二年生の二学期頃だったと思う。おねえちゃんの名が「鈴木」に変わった。「結婚されたのよ」母がそう教えてくれた。結婚がどんなものかも分からず、まして結婚すると姓が変わるのだということなど理解できようもない年頃。

「結婚されたので学校を辞められ、引っ越されたの」おねえちゃんは学校からも、ご近所からもいなくなった。どこか遠くへ行ってしまった。もう「たー坊行くよ」と声をかけてくれることも、手を引いてもくれないのだね。「なぜ、なぜ」と責め、わあわあと泣き出した僕を母は困惑顔で抱き締めたのだった。小さな小さな、初恋とも言えぬ物語。恋しいなあ、おねえちゃん。

 

二 出口先生 痛かった

 

出口先生のビンタは痛かった。教室の後ろにクラスメート3人と一緒に立たされ、いきなりパン、パン、パン、パンとやられたのである。さらに屋上へ連れていかれ、コンクリートに直接正座させられた。授業一時限の間だったから40分ほどだったと思う。置き去りにされた4人はポロポロ涙を流した。小学6年生になったばかりの頃だった。

なぜなのか。思い当たることはあった。仲良くしていたクラスメートが転校することになった。それで僕ら4人は何かプレゼントすることを思いつき、それぞれ小遣いから50円を出し合って学校帰りに繁華街のデパートへ揃って買いに行ったのである。手ごろなボールペンを買い、「明日渡そうね」と話しながらデパートを出たところに、帰宅中の出口先生とばったり。「お前たち、何しているんだ」「実は、○○君にプレゼントを買いに来たんです」先生に隠すことでもないので正直に話すと、「そうか、早く家に帰れ」僕らは先生に分かってもらえたのだと思っていた。

   

         

ところが翌朝、「昨日の4人後ろに立て」と言われたのだ。おずおずと整列すると、何も言わず、いきなりビンタが飛んできた。茫然とし、「なぜなのか」と心で問うた。「転校していく友だちにプレゼントするのは悪いことなのか」「そのため、50円出し合ったのがいけないのか」、それとも「学校帰りに繁華街へ買いに行ったのがいけないのか」。だが、どんなに考えても「悪いことをした」とは思えなかった。学生時代、柔道の選手だった体つきの先生を見ると、「なぜなんですか」と聞く勇気も出てこない。結局、悔しさをかみ殺し、声を出さず涙を流すだけだった。

子供心に抱いた「なぜ」は解けないまま過ぎ、50年ほど後に一晩泊まりの同窓会で出口先生と顔を合わせたことがあった。だが、互いにどこか気まずい風で、言葉を交わすことはなかった。やがて先生は亡くなられてしまった。この年齢となり、先生に恨みなんてあろうはずもない。ただ「なぜ」の答えがほしかった。頬をさするとビンタの痛さが蘇る。

 

三 ごめんなさい 山下先生

 

あだ名は『エス』。僕が名付けた。中学3年生の英語の授業。黒板の前には山下先生が立っていた。教師になってまだ2、3年ほどの若い女先生だった。『S』と書けば、なぜ、こんなあだ名にしたかおおよそ想像がつくはずだ。はち切れんばかりの若い女性の姿、形を見れば、ごく自然にこんなあだ名になる。中学3年生、いかにも思春期の男の子が考えそうなことだ。また、この年頃の男の子というのは女性の気をひきたくて、奇抜な行動をしたり、いたずらを仕掛けるものである。

ある日のこと。山下先生の授業が始まる前、学級委員長だった僕はクラスの皆に「今度の山下先生の授業では、何を聞かれても一切返事をしないことにしようよ。皆、どう?」そう提案すると、皆が「面白そうだ」と手を挙げてくれのだ。女子までも「いいわね」と同調したのは、なぜか分からない。ともかく満場一致のいたずら作戦となった。

                                         

授業が始まった。先生が「ここはこうで、こういう意味です。●●君分かりますか」と尋ねる。だが●●君、一言も返事をしない。「分かりますか」再度聞かれても同じだ。仕方なく別の生徒に尋ねてみたが、これまた返事なし。さすがに不審に思った山下先生。「皆、どうしたんですか」教室には先生の声が響くばかりだった。ベテランの先生だったら、そんな生徒の悪だくみなど簡単に見破り、その張本人を前に引っ張り出すことなぞ造作もなかっただろう。だが、何せ山下先生は純粋無垢な新米教師だ。生徒の悪だくみにまんまと引っかかってしまったのである。しまいにはどうしてよいのか分からず、しくしく泣き出してしまった。

若き女先生の涙、こうなるとは思いもしなかった。この悪だくみの張本人だった僕はすぐさま白旗を挙げた。立ち上がり、先生に向かって「Sorry  ごめんなさい」頭を下げた。生徒が初めて口を開いた瞬間だった。

 

四 「アラン君」はやめて

 

『ゴリカッパ』何ともひどいあだ名を、それも女性に対してつけたものだ。高校の時の音楽教師・荒木先生には申し訳ないやら、お気の毒やら。強く弁明しておくが、決して僕が名付けたものではない。いつの頃からかは知らないが、先輩たちからずっと受け継がれてきたらしい。そんなあだ名をつけられるほどの、何と言うか〝お顔立ち〟ではないと思えるのにである。

ある日の授業で、どういうことだったのか覚えてもいないが、荒木先生は全員合唱する形でフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を教え、歌わせた。そして、だいたい歌えるようになったのを見計らい、何を思われたのか知らないが「はい●●君、一人で歌ってみて」と僕を名指ししたのである。もちろんどぎまぎするばかり。そんな僕にはお構いなしに、『ゴリ……』、いや荒木先生はピアノを弾き始めた。「ええい、もう」まさに意を決して歌い始めた。

「アロン ザンファン ドゥ ラ パトリーエ」たどたどしいフランス語で、どうにか一番を歌い終えた。親友が「ヨッ」と声をかけ、拍手してくれ、それにつられるようにパラパラと続いた。以来、僕は荒木先生のお気に入りの生徒の一人になった。廊下ですれ違うと、「おはよう、アロン君」と言うものだから、近くを歩いていた女生徒2人が、「えっ」「何っ」顔を見合わせ、すかさず「ぷっ」と吹き出した。

しばらくすると、僕は生徒の間で「アラン」と言われるようになった。荒木先生が「アロン君」と言ったのを、例の女生徒が「アラン君」と聞き違え、「そう言えば●●君、アラン・ドロンにちょっぴり似てるわね」なんてことで、校内に「アラン」と広めたらしい。あの二枚目スターに! 1人にんまりするより、恥ずかしさに身がすくむ思いだった。それもこれも元はと言えば荒木先生のせい。俯き加減に廊下を歩いていると、その先生が向こうからやってきた。そして「おはよう、アラン君」と声をかけてきたのだった。

 

 

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ラストドライブ

2024-05-17 06:00:00 | エッセイ

 

最後のドライブは片道14㌔ほど、篠栗町にある『九大の森』への撮影行だった。

周囲2㌔ほどの池を広葉樹の森林が取り囲んでおり、季節に関係なく池が増水すると、

水辺の10本ほどのラクウショウという木が

水中からすくっと伸びてきたように屹立するのである。

その景観がまるでジブリの世界を思わせ、

多くの人が訪れる人気のスポットとなっている。

 

いつものように写真撮影を楽しむ妻のお供だった。

この日は朝からずっと雨が降り続いていた。

写真撮影には不向きかと思えるのだが、水面に跳ねる雨粒が

ラクウショウの木肌や葉色の緑を一層しっとりとさせ、

ジブリの世界をより際立たせる。もちろん、シャッターを押す妻の手は忙しい。

雨はしとしと降り続いている。

妻を守る傘と自身を守る2本の傘は僕の両手にある。

撮り始めて2時間経ったろうか。やっと妻は三脚をたたみ始めた。

僕の腕は雨を含んだ2本の傘の重みをかろうじてしのいだ。

 

 

翌朝、12年間連れ添った愛車が『九大の森』を最後の思い出に

買い取り業者に引き取られていった。

随分と迷いながらも、「車を運転するのは、もうよそう」やっと心を決めたのだ。

本格的に車を運転しだした40歳の頃からおよそ40年間、7台の車を乗り継いできた。

この間、大きな事故を起こしたことはない。

だが、年を取るにしたがって擦り傷など小さな傷が増えてきた。

これも老いによる衰えであろうか。

言うまでもなく老いの衰えは、足腰といった身体的なものだけではない。

人や物の名前はすぐには出てこなくなり、「この、その、あれ、どれ」

つまり「こ・そ・あ・ど」言葉で誤魔化さざるを得なくなる。

記憶力だけではなく、聴力にしても娘や孫たちがたまに我が家にやって来ると

テレビの音量に驚く。

加えれば、その画面はちらつき、ぼやけて見えづらくなってきている。

 

とりわけ視力の衰えは悩ましく、夜間に車を運転しようなんてことになると、

白線はぼやけて道路幅の感覚がつかみにくく、

左に寄れば歩道に乗り上げはしないか、

右に寄れば対向車線にはみ出すのではないかと腕・肩はコチコチとなる。

トンネル走行は言うまでもない。

昼間での運転にしても注意力がおろそかになり「はっ」とすることが多くなった。

 

 

「自分が傷つくのはともかく、他人様を傷つけるのは絶対にしてはならない」

そんな綺麗ごとみたいなことを心の中で繰り返す。

その実、「運転するのが怖くなってきた」というのが本心だろう。

「どうしようか」もやもやとしていた思いに、ついにケリをつけたのである。

引き取られていく愛車を見つめながら、「車のない生活はどうなるのだろうか。

もう妻を撮影に連れて行くことも、楽しい車中泊も出来ないな」

そんな寂しさが胸中に湧いて出る。

『九大の森』からの帰路、二人とも終始無言だった。思いは同じだったかもしれない。

免許証の有効期限は令和8年7月までだ。「返納はしないでおこう」多少の未練を許す。

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一万回のありがとう

2024-05-14 10:00:08 | エッセイ

 

 

布施明が自ら作詞・作曲した『一万回のありがとう』という歌がある。

定年退職した友人が、家で終日過ごす身になり、

「妻というのは、実に大変なんだね。

僕が仕事一筋でこれたのもそんな妻のお陰なんだというのをつくづく思ったよ」

と語ったことが、この歌になったという。

歌詞の一部には『一万回 ありがとうと 今 君に言っても 足りないほどの 

君の愛に 支えられて きたんだね 終のすみか 安らぎ 涙もろさ 

許してくれたら 僕は君を守り続ける』とあり、

つまり、さんざん苦労をかけた妻への感謝の歌なのである。

 

           

 

だが、不器用な大方の男性はどう感謝したらよいのか分からずまごつく。

地場大手企業の役員など長年経済界の第一線で活躍されたAさんが、

80歳を迎え後進に道を譲るべく退かれた。

その後もお付き合いは続けていただいており、たまにランチをご一緒したりしている。

そんな昼時の話である。

「ご無沙汰しています。お変わりありませんか」

型通りに始まった会話は、その後ほろ苦い笑いの連続となった。

まず、Aさんの返事である。

「ええ、ええ、〝妻の部下〟となって元気でやっておりますよ」

「何なのです。その〝妻の部下〟というのは?」と笑いながらも、

我が身を省みればおおよそ見当がつく何とも切ない話なのである。

「僕にはこれといった趣味もないし、ゴルフも腰を悪くしてドクターストップ中です。

たまに昔の仲間と食事する程度で、どうしても家に居る時間が長くなる。

すると妻が『掃除機をかけろ』『家の外回りを掃除しろ』などと、

あれこれ命令するわけです。まさに妻の部下ですよ。

しかも、なぜか日が経つにつれ妻の機嫌が悪くなりましてね…」

 

     

 

実を言えば僕も似たようなもので、退職した後はゴミ出し、風呂掃除は言うに及ばず、

掃除機をかけたり、食器を洗ったり、洗濯物を畳んだりとやるようになった。

ただ、料理だけは依然手つかずのまま、三食とも妻のお世話になりっ放し。

この程度の感謝の表し方だ。

これでもまだしもであろうか。中にはどうしてよいのかさっぱり分からず、

三食昼寝付きでゴロゴロしている人も多いという。

たまりかねて奥さんが一言言おうものなら、

「誰のおかげで、こんな生活が出来ているんだ。俺が懸命に働いてきたからだろう」

と開き直ってしまう。すると

「あなたが何の心配もなく仕事に打ち込めたのは、

子育てはもちろん何から何まで私がこうして家庭を守ってきたからでしょう」

と切り返されるに違いない。

 

そんなことが繰り返されると要注意信号が点く。『主人在宅ストレス症候群』だ。

「普段家にいない夫が一日中在宅するようになると、

妻は大きなストレスを抱えるようになり、

それが原因で胃潰瘍や高血圧をはじめとする身体的症状、

それにうつ・パニック障害など心理的症状を引き起こす」というのである。

 

布施明よ 俺に代わって妻にありがとうと一万回言ってくれないか──

不器用な男たちの切なる願いである。

 

 

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