MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ホステス情報 潮ふき三姉妹』

2014-12-31 00:07:24 | goo映画レビュー

原題:『ホステス情報 潮ふき三姉妹』
監督:曾根中生
脚本:池田正一
撮影:水野尾信正
出演:岡本麗/丘奈保美/桂たまき/秋津令子/川越たまき/嬢沙菜恵/小松方正
1975年/日本

エロスを失う「効率性」について

 『昭和おんなみち 裸性門』(1973年)においては人の口内から映される映像に驚かされたが、本作においてはついにというべきか、「メイキッス(May Kiss)」というサロンで働いている主人公のホステスの河原文江がボクサーのケン立花とセックスをしている時、クンニリングスをしようとする立花が舌をだして向かっていこうとする顔が文江の「体内」から映される。
 姉の文江と朱実を頼って上京してきた河原由利が、やがて姉たちと同じように潮を吹く特異な体質から2人と並ぶ人気ホステスに成り上がるのであるが、そのような3人を快く思わない雇われママの順子をはじめとする他のホステスたちと険悪なムードになる。
 ロマンポルノ作品なのであるが、何故か物語はセックスよりも商売を巡る攻防に重心がおかれることになる。「キャットファイト」を経て、客の佐山と内密に別の店を出店しようとしていた順子の計画が経営者にバレて信用を失い、一方、由利は保険会社に勤めている吉岡文吉に3000万円を横領させて、3人で「潮ふき」というサロンを「メイキッス」の隣に出店する。
 河原三姉妹は自分たちの特技を活かして「自動潮吹き器」を製造し、衣装も乳房だけを出せる「効率的」なものにしたのであるが、どうも客は羽振りがいいようには見えないため、数をこなすしかないようである。ここに皮肉が込められているように思う。


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『リアリティのダンス』

2014-12-29 00:04:16 | goo映画レビュー

原題:『La danza de la realidad
監督:アレハンドロ・ホドロフスキー
脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
出演:ブロンティス・ホドロフスキー/パメラ・フローレス/イェレミアス・ハースコヴィッツ
2013年/チリ・フランス

「リアリティ」という矛盾の中の「軽快」なダンスについて

 かつてサーカスの曲芸師で今は洋品店を営む主人公のハイメは、身体障碍者たちをゴミのように扱い、店にスターリンの写真を飾るほどの「マッチョ」な共産主義者で、男らしさを息子のアレハンドロに求めるあまり、例えば、顔を殴られてももっと強い殴打を要求させ、歯が折れても麻酔をせずに治療することを求めるのであるが、その余りの理不尽さに消防団の行進の最中に「マスコットボーイ」を務めていたアレハンドロは倒れてしまい、その「ひ弱さ」はハイメにまで及ぶ。
 名誉挽回のために、ハイメは誰もしたがらない、ペスト感染者の集団に水を届ける仕事を引き受けるのであるが、水を配っている最中に彼らは荷車を引っ張ってきたロバを殺して食べてしまう。這う這うの体で家に帰って来たハイメ自身もペストに感染してしまい、彼を隔離しようとする住人たちが家に押しかけてきた時、妻のサラの「聖水」によって奇跡的にハイメは回復する。
 「生まれ変わった」ハイメはカルロス・イバニェス大統領の暗殺を企てるのであるが、それは大統領を殺すのではなく、彼が大切にしている愛馬「ブケパロス」を殺すというものだった。しかし仲間が犬の仮装大会で大統領を銃殺しようとした際に、それを阻止したことから大統領に気に入られてしまい、愛馬の世話係として雇われることになるのであるが、その愛馬の世話をしていた男は自分の役目は終わったとしてハイメに墓穴を掘らせて死んでしまう。その愛馬に薬を飲ませ、馬の体調の急変を知って駆けつけたイバニェス大統領の背後から大統領を銃殺するつもりが、ハイメから銃を受け取ると大統領自ら馬を安楽死させてしまう。記憶を失ったハイメが記憶を取り戻すと見知らぬ女性がそばにいて、ハイメが記憶を取り戻したことを知ると自分の役割は終わったとして自殺してしまう。たまたま知り合った椅子作りの職人の手伝いを始めたハイメが一緒に大量の椅子を作り教会に運ぶとその椅子作りの職人は教会内で死んでしまい、彼の墓を作るためにハイメは帰国するために貰っていた給料を寄付してしまう。
 ここでは2度の「小便」に注目しておきたい。一度目はハイメが景気の良い話を垂れ流すテレビを便器に突っ込んで自ら小便をかけ、自身の威信を誇示するものとして機能するのであるが、二度目の、サラがハイメの顔にかける「聖水」によってハイメのキャラクターは正反対になる。しかし矛盾の中を生きなければならないことに変わりはなく、スターリン、イバニェス大統領、そしてハイメ自身の肖像を焼いたことでようやくハイメは「マッチョ」から解放されるのである。


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『ホドロフスキーのDUNE』

2014-12-28 00:04:32 | goo映画レビュー

原題:『Jodorowsky's DUNE
監督:フランク・パヴィッチ
撮影:デヴィッド・カヴァロ
出演:アレハンドロ・ホドロフスキー/ミシェル・セドゥー/H・R・ギーガー
2013年/アメリカ

どんな形であっても作品が完成する幸せについて

 もしかしたらどんな酷い脚本であったとしてとりあえず作品として完成させられたのなら運が良い方なのかもしれないと本作を観て思った。上のポスターの中央にある分厚い本はアレハンドロ・ホドロフスキー監督が『DUNE』を撮るためにメビウス、クリス・フォス、ダン・オバノンやH・R・ギーガーも加わって書いた膨大な絵コンテ付きの脚本である。
 この脚本は複数の大手映画会社に送られたのだが、結局、ホドロフスキーが監督を務めることは叶わなかった。ところが監督本人に拠るならばこの脚本から、やがて『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督 1977年)、『エイリアン』(リドリー・スコット監督 1979年)、『フラッシュ・ゴードン』(マイク・ホッジス監督 1980年)や『バタリアン』(ダン・オバノン監督 1985年)などにその要素やアイデアが受け継がれ、SF映画の礎を築くことになったらしいのであるが、肝心の『DUNE』はデヴィッド・リンチ監督によって1984年に映画化までこぎ着けたものの、カルト的な人気はあるようだが、興行的には大失敗してしまう。
 しかし当時ホドロフスキーは既に『エル・トポ』(1969年)や『ホーリー・マウンテン』(1973年)を一応興行的にも成功させており、『DUNE』を監督させても問題はなかったと思うが、本人が12時間、あるいは20時間の上映時間となるなどと言えば、さすがにプロデューサーがリスクが大きすぎると感じたとしても仕方がないとしても、『DUNE』に対してホドロフスキーほどの情熱を持った監督が他にいるだろうかと本作を観て考えさせられる。ホドロフスキーは既に85歳。元気旺盛であることはわかるけれども、今から『DUNE』はさすがに無理だろうね。


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『教師 女鹿』

2014-12-27 23:23:39 | goo映画レビュー

原題:『教師 女鹿』
監督:曾根中生
脚本:桂千穂
撮影:水野尾信正
出演:栄ひとみ/大塚国夫/高木均/佐藤のぼる/羽田典夫/結城マミ/志麻いづみ/三谷昇
1978年/日本

良い脚本をわざわざ削り過ぎる意図について

 脚本が良すぎて却って観客に理解されなかった不幸な作品として『ザ・メキシカン』(ゴア・ヴァービンスキー監督 2001年)を挙げたのだが、脚本が良ければまだ「再発見」される可能性があるだけ良い方で、例えば、劇場に貼られていたパンフレットのあらすじを読む限りでは良かったのに、実際に映像化された後、その良さが跡形もなく消え去ってしまっていた本作は悲惨である。
 例えば、冒頭で女子高生の早川ルミが白汀高校の中村茂、山本徹、水谷敏夫に車で連れ去られて人気の無い草むらで強姦されようとした時に、現場にいた主人公で、翌日から白汀高校に生物の非常勤講師として赴任する事になっていた女鹿冴子がルミを助けることもせず、ただ傍観しているのであるが、冴子は最後までその理由を明かすことはない。実は、冴子の父親は白汀高校の創立者の柏木牟礼に金を奪われた上に殺されてコンテナに入れられて海中に沈められており、冴子は父親の復讐を遂げるために高校のスキャンダルを収集していたのである。男性カメラマンと浅野姫子と一緒に冴子が3Pに挑んだ理由も姫子が教師の傍ら売春をしている証拠を得るためなのだが、父親の復讐というテーマが明確にならず、ストーリーが掴めないのである。ラストシーンも同様で、海岸で行きずりの男と草むらで性的関係を持つ理由は、牟礼を追い詰めて持病の癲癇を悪化させ死に追いやり父親の復讐を果たした後に、復讐を果たした自分の「人間性」を確かめるためなのであるが、説明が無いために最後まで頭のおかしな女性としか見えない。
 曾根中生監督は前年にあの坂口安吾原作の難解な『不連続殺人事件』(1977年)を映像化した実績を買われて、今回も川崎三枝子劇画、沼礼一原作の難解な『教師女鹿』の実写化を託されたのだと思うが、予算不足だったのかロマンポルノ作品に2時間を超えるような作品が認められなかったのか、オリジナルの脚本がだんだんと削られてしまった結果、残念な仕上がりになっているのだと思う。
 ところで気になるのは主人公の女鹿冴子を演じた栄ひとみの風貌で、奇しくも同じタイトルの『女鹿』(クロード・シャブロル監督 1968年)の主演の一人を演じたステファーヌ・オードラン(Stéphane Audran)とそっくりなのは偶然だったのだろうか? そうなると曾根中生、クロード・シャブロル両監督作品の物語の「壊れ方」も似ているような気がしてくる。


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『ザ・メキシカン』

2014-12-26 00:05:55 | goo映画レビュー

原題:『The Mexican』
監督:ゴア・ヴァービンスキー
脚本:J・H・ワイマン
撮影:ダリウス・ウォルスキー
出演:ブラッド・ピット/ジュリア・ロバーツ/ジェームズ・ガンドルフィーニ
2001年/アメリカ・メキシコ

女性の強さと「男性」の弱さによる「伝説」の不可能性について

 脚本が上手すぎて不幸にもその良さが理解されていない作品というものがある。本作もその一つだと思う理由を考えてみたい。
 最初にストーリーの中心となっている鉱山で発見された「伝説の拳銃」の話を簡潔に要約してみる。昔、銃職人が自分の娘が貴族の家に嫁ぐことになり、相手になる子息に献上するために最高に美しい銃を作った。その子息は軍人だったのであるが、残忍で邪悪な男だった。一方、娘には想いを馳せる人がいて、それは父親の下で修業している助手だった。
 貴族たちが娘を迎えに来た時、銃職人がその銃を男に献上すると、男は試し撃ちをしようとしたのであるが、2回試して2回とも弾が出なかった。その時、娘の挙動から、娘が助手のことを愛しており、自分がバカにされていると怒りを感じた男が助手に拳銃を向けると、娘が献上した銃を拾い、その男に銃口を向けた。もしも引き金を引けば彼女が殺されてしまうと思った助手は娘に運命を受け入れるように懇願する。男は娘が持っている銃は弾が出ないと分かっているから、容赦なく助手を銃殺してしまう。銃殺された助手を見て、娘は銃口を自分の頭に当てて引き金を引くと何故か弾が出て娘も死んでしまうのである。
 同じようなシーンがクライマックスで繰り返される。主人公のジェリー・ウェルバックを「伝説の拳銃」を手に入れるためにメキシコに送ったギャングの副司令官のバーニー・ネイマンがジェリーたちに囲まれている中で車のトランクから拉致したサマンサ・バーゼルを出そうとすると、サマンサはそのトランクに隠してあった「伝説の拳銃」を手にしており、銃口をネイマンに向けた。それを見たジェリーがサマンサに止めるように懇願するまでのシチュエーションは「伝説の拳銃」の話と符合する。
 ここでサマンサはネイマンにある質問をする。「セックスと旅行は好き?(Do you like sex and travel?)」。この質問はネイマンがジェリーをメキシコに送る際に、ネイマンが発した質問と同じである。ジェリーが答えに窮していたにも関わらずネイマンはジュリーをメキシコに送ったのである。ところでネイマンはサマンサに対して、「好きだとも」と字幕では訳しており、正確には「実を言うと好きだったんだ。(As a matter of fact, I did.)」と答えているのだが、サマンサは「間違った答えよ(Wrong answer)」としてネイマンを銃殺してしまうのである。「好き」という答えはジュリーがメキシコに送られる要因になるからである。
 さて、本作が何を言いたいのか勘案するならば、2つの伏線を考慮するべきであろう。一つは「伝説の拳銃」の伝説が不確かでいくつかのヴァージョンが存在することと、二つ目はジェリーとサマンサがセラピーを受けていたという事実である。実際に、ラストでジュリーがサマンサに「伝説の拳銃」の話を語ろうとすると、「高貴な人(noble man)」と「貴族(noble)」の微妙な違いにサマンサがこだわって話がなかなか前に進まない。要するに現代においては女性が強くなったことと「ゲイ」の存在(リロイのセクシャリティとアイデンティティ自体が不確かだったのであるが)による「伝説」の不可能性が描かれているのである。


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『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』

2014-12-25 00:09:52 | goo映画レビュー

原題:『Herb and Dorothy』
監督:佐々木芽生
撮影:アクセル・ボーマン
出演:ハーバート(ハーブ)・ヴォーゲル/ドロシー・ヴォーゲル
2010年/アメリカ

「パトロン」の財力によって変わるアート作品について

 ニューヨーク在住の郵便局員のハーブと図書館司書のドロシーのヴォーゲル夫妻が安い給料の中から工面してこつこつと買い上げていったアート作品は4000点を超えて、雑誌「ニューヨーク」にはそれまで豊富な蓄財でジャスパー・ジョーンズなどのモダンアート作品を収集していたエセルとロバートのスカル(Scull)夫妻に代わって好意的に迎えられることになる(スカル夫妻は離婚後、作品をオークションに出してしまうのであるが)。
 ヴォーゲル夫妻が収集する作品は古典派から印象派へと続く絵画のメインストリームに位置するものではなく、見ようによってはゴミとして扱われてもおかしくない「儚いもの(temporary piece)」である。ハーブの、作品を観る目があると思わせるシーンがある。夫妻がアーティストのリチャード・タトル(Richard Tuttle)と一つの作品に関して話し合っているシーンである。ノートのようなものに描いていた作品をどのように扱えばいいのか迷っていたリチャードに対して、ハーブはその内の2作品は必要ないから譲ってくれと言いだす。リチャードは彼の真意を測りかねてバラして並べてみると全6作品の内、4作品を合わせると描かれている色が左から右に流れているように見えるが、ハーブが欲しがっていた2作品はその流れに与していないことが分かるのである。


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『アオハライド』

2014-12-24 00:09:49 | goo映画レビュー

原題:『アオハライド』
監督:三木孝浩
脚本:吉田智子
撮影:山田康介
出演:本田翼/東出昌大/新川優愛/吉沢亮/藤本泉/千葉雄大/高畑充希
2014年/日本

「せいしゅん」と「アオハル」の間について

 『ホットロード』(2014年)と同じ監督と脚本家チームだったので心配したが『ホットロード』のようにストーリーが破綻していないことが却って不思議ではある。
 「アオハルはいつだって間違える」というラストの吉岡双葉の言葉は、『ハルフウェイ』(北川悦吏子監督 2009年)において北乃きいが演じる主人公の紺野ヒロが「halfway(ハーフウェー)」を「ハルフウェイ」と間違えて読んだことを思い出させるのであるが、その「間違い」の描かれ方には雲泥の差がある。当初、双葉は3人の友人たちと上っ面の友情を育んでいたが、馬渕洸との再会をきっかけにクラスで孤立していた槙田悠里をかばったことを期に絶交状態になってしまう。しかしそれが双葉が悠里や村尾修子と真の友情を生み出すことになる。
 一方、洸も中学生の頃から双葉が好きだったのであるが、転校先の長崎の中学校の同級生で、洸と同じように母親を亡くした成海唯のことが気にかかり素直に双葉と付き合うようにはならない。双葉の上っ面の友情を批判した手前、洸は唯のことを突き放すことができない。つまり表面上の人間関係は悪く、濃密な人間関係が良いとは必ずしも言えないことになり、それは「青春」を「せいしゅん」と正しく音読みするのか「アオハル」と敢えて訓読みして、それに上手く「乗れる(ライド)」のかどうかというセンスに関わる問題として提示されるのである。
 『ホットロード』の能年玲奈が素晴らしかったように、本作の本田翼の存在感が光る。


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鉄道と映画の対応について

2014-12-23 00:38:38 | Weblog

東京駅Suica、希望者全員に販売へ 時期は未定(朝日新聞) - goo ニュース
原価はわずか220円! 記念スイカ「転売」ボロ儲けの”構図”(dot.) - goo ニュース
『妖怪ウォッチ』わずか2日で興収16億円超え!東宝新記録を樹立(シネマトゥデイ) - goo ニュース

 何故売れることが確実な東京駅開業100周年Suica(スイカ)を限定で販売する必要がある

のか以前から不思議に思っていたのだが、どうやら「プレミア感」を出すためらしいので

あるが、「現場」で働いていながら明らかにJR東日本の職員は「鉄道オタク」の情熱を

捉え損ねており、罵倒を浴びせられている職員たちは気の毒ではあったが、ナメていたの

だから仕方がない。その点、『映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン』に対する

映画館の対応は素晴らしく、前売り券の売り上げから早々にどこの映画館も一番大きな館

を押さえて、どの作品よりも早く席の予約を始めていた。「席」を巡るサービス業としては

鉄道も映画も同じはずなのだが、どうしてこうも対応に差がついてしまったのであろうか


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『ハルフウェイ』

2014-12-22 00:31:10 | goo映画レビュー

原題:『HALFWAY』
監督:北川悦吏子
脚本:北川悦吏子
撮影:角田真一
出演:北乃きい/岡田将生/溝端淳平/仲里依紗/成宮寛貴/白石美帆/大沢たかお
2009年/日本

アドリブを許す脚本家の存在意義について

 タイトルの由来は、主人公の紺野ヒロが「halfway(ハーフウェー)」を「ハルフウェイ」と読み間違えたことによるもので、それは恋人の篠崎修が早稲田大学受験のために東京に行ってしまうことに対して、ヒロが「いけ(行け)」と「いくな(行くな)」の間をとって「いけな」と習字で書いたようにヒロの「中途半端(halfway)」な心情を表現することになる。
 さらに手ぶれのハンディーカメラでこの青春の不安定さを捉えようとした試みが上手くいっているようには見えない。高校卒業後、地元の札幌福祉大学へ進学する予定のヒロは、既に早稲田大学に進学するつもりだったシュウが自分に告白したことが許せない。シュウの代わりに平林先生が釈明をしているからいいのであるが、何故遠距離恋愛などの可能性など考えないのかヒロのわがままだけが目立つ。
 そのシュウなのであるが、ヒロに叱責されたことに対してすっかり怯えてしまい、高梨先生に早稲田大学を受験しないと言い出すのであるが、それならばどこを受験するのかと問われて答えに詰まってしまう。これほど大事なことなのに、例えば、早稲田大学の代わりに北海道大学を受験するというような代案もなく決めてしまうことがありえない。しかし最も深刻な問題は、ヒロがシュウを連れて職員室に行き、高梨先生に直談判するところである。ヒロの熱意に押されてシュウも高梨先生も早稲田受験に同意するのであるが、こういう時はシュウの親を含めて話し合うべきなのである。
 残念ながらストーリーに全くリアリティーを感じない。「役者自身の言葉によるアドリブで撮影された」ようだが、プロの脚本家である監督が、このようなストーリー展開に違和感を感じなかったところが不思議で、この違和感は『新しい靴を買わなくちゃ』(北川悦吏子監督 2012年)にも感じることは既に書いた通りである。


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『花ひらく娘たち』

2014-12-21 00:52:12 | goo映画レビュー

原題:『花ひらく娘たち』
監督:斎藤武市
脚本:三木克巳/鎌田敏夫
撮影:山崎善弘
出演:吉永小百合/和泉雅子/浜田光夫/杉良太郎/渡哲也/清水将夫/沖雅也/宇野重吉
1969年/日本

吉永小百合と渡哲也の「その後」について

 既に『青春の海』(西村昭五郎監督 三木克巳脚本 1967年)を観ている者としては、本作は吉永小百合が演じる主人公の柿崎民子と浜田光夫が演じる坂本一雄の「婚前交渉」の問題よりも、渡哲也が演じる信次と民子の関係が気になってしまう。
 そして予想通りというべきか、父親の死後の母親の男性関係に悩んだ一雄が
民子との婚約を一方的に解消してしまい飲んだくれていた時に、姉のバーを手伝っていた信次が「ココアの甘さ」を知ってしまった自分の民子に対する想いを押し殺して、気をきかせて一雄が酔いつぶれている自分のバーに迎えに来るように民子に電話をするのである。
 「通俗小説作家として人気があった石坂洋次郎の作品では、明朗な恋愛が描かれ、脇役がセックスしたりすることはあっても、主役はしなかった。大学生とセックスというのは、石坂の小説ではしばしば議論され、むしろその議論が主役になるようなところがあるが、主人公が女中を強姦してしまうとか、オナニーをヒロインに目撃されるとか、果ては二人で全裸になって海岸の岩の上に座るとかはあるが、主人公カップルがセックスにいたることはない。」(『病む女はなぜ村上春樹を読むか』小谷野敦著 ベスト新書 2014.5.20 p.124)。本作も石坂洋次郎の小説を原作としているが、ラストで民子は一雄と性的関係を持ったことを妹の加奈子にほのめかしている。『青春の海』よりも本作の方がウィットに富んでいたりするとするならば、若き鎌田敏夫の才気によるものであることは間違いない。


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