MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

「Cars and Girls」 Prefab Sprout 和訳

2017-09-30 00:12:37 | 洋楽歌詞和訳

Prefab Sprout - Cars and Girls

 プリファブ・スプラウト (Prefab Sprout)が日本において損をしているとするならば、

今ならばどこのスーパーでも大抵買えるほど馴染みがあるプリファブ・スプラウトが彼らが

全盛時代の1980年代当時は日本で食されておらず、バンド名が覚えにくかったことである。

ここでは「カーズ・アンド・ガールズ」を和訳してみる。

「Cars and Girls」Prefab Sprout 日本語訳

ブルースは人生がハイウェイである夢を見る
無数の道が僕の道に迂回してくるか
あるいはその逆であるか
人生において純真が悲嘆へと変わる
自動車泥棒臭さは
僕にとって罪の概念
次の地平線を越えた時
天国は全ての者を笑顔で待っているだろうか

でもドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある
計算を始めた今の僕たちを見てみろよ
僕たちが若かった時
何を加えれば辻褄が合ったんだ
ドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある

人生は黄塵地帯を通るドライブのようなもの
若い魂にどのような影響を与えるのか
僕たちはひどく不安でいる
指示を待つ者もいて
僕たちのエンジン内で深く感応するものがある
僕たちはみんな燃え尽きようとしている
次の地平線を越えた時
天国は全ての者を笑顔で待っていてくれるだろうか

でもドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある
計算を始めた今の僕たちを見てみろよ
僕たちが若かった時
何を加えれば辻褄が合ったんだ
ドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある

小さな男の子が性能をアップした車を持っている
その車が彼を新たな神のような気にさせるんだ
彼には勝てないレースが一つある
何故ならば人生とは冷静な船旅ではないのだから
数え切れない人々が車酔いをしているが
車が停まることはありえない
ブルースはきれいなオーロラの射光を思い浮かべている
この世界には夢想家が必要なのだと思う
決して目覚めることがない夢想家たちが

でもドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある
計算を始めた今の僕たちを見てみろよ
僕たちが若かった時
何を加えれば辻褄が合ったんだ
ドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある

でもドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある
計算を始めた今の僕たちを見てみろよ
僕たちが若かった時
何を加えれば辻褄が合ったんだ
ドライブを止めてしまった今の僕たちを見てみろよ
クルマや女の子たち以上に傷つけるものがある


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『はじまりへの旅』

2017-09-29 00:32:42 | goo映画レビュー

原題:『Captain Fantastic』
監督:マット・ロス
脚本:マット・ロス
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
出演:ヴィゴ・モーテンセン/ジョージ・マッケイ/フランク・ランジェラ/キャスリン・ハーン
2016年/アメリカ

現代のヒッピーとしての覚悟の甘さについて

 主人公のベン・キャッシュはワシントン州の森の奥で6人の子供と暮している。ノーム・チョムスキーを信奉するベンは資本主義やテクノロジーに背を向けて独自の教育方針で子供を育てている。古典とされる書籍を読ませ食用の鹿を狩りで捕らえ山間を走り回ることで体を鍛えさせている。ところが数ヵ月前に一緒に暮らしていた妻のレスリーが精神を病んで入院していたのであるが、自ら手首を切り自殺したことを知らされる。レスリーが埋葬されることになる彼女の地元のニューメキシコ州へキャッシュ一家はバスの旅をすることになる。
 原題の「キャプテン・ファンタスティック」とはベンを指し、おそらく「空想家の長」という揶揄した意味を持ったものだと思うが、どうもヒッピーとしての覚悟が甘いような気がする。レスリーは1974年4月23日生まれで2015年7月15日の41歳で亡くなっており、おそらくベンも同じくらいの年齢であろうが、キャッシュ家がどのように生活費を稼いでいるのかがよく分からない。ベンが一度銀行からお金を引き出しているシーンがあるから銀行口座はあるのだろうし、レスリーは元弁護士で実家が裕福だから援助を受けていた可能性もあるのだが、それでは反旗を翻した資本主義に頼ってしまっているいつまでも自立できない人間たちでしかないのである。
 ナイが太っている人たちに奇妙に眼差しを向けるシーンがある。それは贅沢な暮らしで食べ過ぎによる肥満を暗に批判するニュアンスがあったはずだが、今では肥満は栄養の偏りによる貧しさの象徴にもなっており、ここに偏見があるような気がする。要するに感覚が「アメリカンニューシネマ」時代のままで2015年に敢えてヒッピー生活を送ろうという覚悟がベンには感じられないのである。そりゃ失敗するだろうと思う。バッハしか聴かないのかと思ったら、ラストで急にガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N' Roses)の「スウィート・チャイルド・オブ・マイン(Sweet Child o' Mine)」を家族全員で歌うのも違和感が残る。

Guns N' Roses - Sweet Child O' Mine


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『スウィート17モンスター』

2017-09-28 00:14:22 | goo映画レビュー

原題:『The Edge of Seventeen』
監督:ケリー・フレモン・クレイグ
脚本:ケリー・フレモン・クレイグ
撮影:ダグ・エメット
出演:ヘイリー・スタインフェルド/ブレイク・ジェンナー/ヘイリー・ル・リチャードソン
2016年/アメリカ

 「崖っぷちの17歳」の女の子の物語について

 主人公で高校2年生のネイディーン・フランクリンは優秀でハンサムな兄のダリアンに対する対抗心から人と上手くコミュニケーションがとれなかった。それでも父親のトムが周囲との軋轢を和らげる役割を果たしてくれていたのだが、13歳の時にトムが運転していた車に一緒に乗っていた際にトムが急死してしまってから4年経った17歳になってネイディーンは完全に「こじらせ女子」と化していた(その際にトムが選曲していた曲がビリー・ジョエルの「ガラスのニューヨーク(You May Be Right=あなたは調子がいいようだ)」というところが笑える)。
 例えば、担任教師のブルーナーをネイディーンは独身だと思い込んでいたのだが、ブルーナーには妻と生まれたばかりの赤ん坊がいたし、過激な内容のラインを送ったハンサムなニック・モスマンがネイディーンをデートに誘い、ラインに書いていた通りにただセックスをしようとしたら拒絶されたのだからネイディーンが他人に理解されないのは当然で、ネイディーンは外見でしか人を判断していないのである。
 ダリアンが迎えに来たものの、ブルーナーの家から出てこないネイディーンに怒り心頭に達したダリアンは皮肉を込めて自分は母親のモナとネイディーンを心配するあまり実家から遠く離れた希望の大学を諦めて地元の大学を選んだことなどを告白するのだが、普通に話しても分からないのに皮肉だと理解できるところが面白い。ダリアンは妹に気を使わせないように本当のことは言いたくはなかったと思うけれど。
 ラストでネイディーンはクラスメイトのアーウィン・キムが参加している学生映画祭を訪れ、キムが制作したアニメーションを観る。それは有名になることで自分を振った女の子を見返してその女の子の告白を拒絶する緑のエイリアンが主人公の物語で、ネイディーンはキムの気持ちを察して謝るのだが、映画とは違って優しいキムがネイディーンの気持ちを受け入れることでネイディーンはようやく他人に心を開けるようになる。
 ブラザーコンプレックスを扱った映画は珍しいのではないだろうか。

BILLY JOELさん『YOU MAY BE RIGHT』の歌詞
ユーメイビーライト
words by ビリージョエル
music by ビリージョエル
Performed by ビリージョエル


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『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』

2017-09-27 20:36:51 | goo映画レビュー

原題:『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』
監督:大根仁
脚本:大根仁
撮影:宮本亘
出演:妻夫木聡/水原希子/新井浩文/松尾スズキ/安藤サクラ/江口のりこ/リリー・フランキー
2017年/日本

 「力まないカッコいい大人」の「末路」について

 「力まないカッコいい大人」「自然体」「自分流」と謳われる奥田民生の生き方に憧れる主人公のコーロキは、ライフスタイル雑誌『マレ』の編集部へ異動してから3年後、すっかり仕事にも慣れて周囲の女性たちが憧れをもって見つめるようにそつなくこなし、編集者として担当した人気コラムニストの美上ゆうと交際するようになり公私共々順風満帆で、奥田民生のようにクールな人生を送ってはいないかもしれないが、自分なりの「カッコいい大人」になった自負はあるようだ。
 ある晩、コーロキがラーメンを食べているとラーメンの汁が少々高価らしいお洒落な服の袖を汚す。そのシミを見たコーロキは3年前にがむしゃらに働いていた自分を思い出す。それは決してカッコよくはなかったが、効率も悪く利益も度外視しながら夢中で仕事をし、夢中で女を愛した自分で、その時のほとばしる情熱を「カッコいい大人」になってしまった自分は二度と味わえないものであることを悟った時、コーロキは号泣するのである。
 しかしそれはコーロキに限らず、ラストで流れる奥田民生の「CUSTOM(=習慣)」でも奥田が歌っている葛藤なのではある。

奥田民生さん『CUSTOM』の歌詞
カスタム
words by オクダタミオ
music by オクダタミオ
Performed by オクダタミオ


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『あさひなぐ』

2017-09-26 00:10:37 | goo映画レビュー

原題:『あさひなぐ』
監督:英勉
脚本:英勉
撮影:江﨑朋生
出演:西野七瀬/白石麻衣/桜井玲香/松村沙友理/伊藤万理華/富田望生/生田絵梨花/中村倫也
2017年/日本

メンバー間に生じつつある「格差」について

 観賞していて終始ぎこちなさが付きまとっている感覚にとらわれた原因が俳優の演技力の問題なのか、あるいは監督の演出力の問題なのかはよく分からないのだが、例えば、冒頭で主人公の東島旭が通学途中で嘔吐く原因がゴミ袋の上にたむろするカラスのせいではなく二ツ坂高校への初登校による緊張によるものであるならば、家から出る様子やせめて4月のカレンダーを示さなければ観客に上手く伝わらないように思う。
 原作が少女漫画ということから「漫画的」な演出だと捉えるならば、乃木坂46が2年前に出演したテレビドラマ『初森ベマーズ』の延長線上の作品と見なさざるを得ない。東島旭のヘタレキャラにしても宮路真春の気負いキャラにしても芯においてブレが見受けられ、一貫性を感じられないのであるが、それしにては野上えりを演じた伊藤万理華の演技は乃木坂46のメンバーの中では一人飛びぬけていないだろうか? まるで主題歌「いつかできるから今日できる」のソロパートにおいて生田絵梨花の歌唱力が一人だけ飛びぬけていて他のメンバーのソロが霞んでしまっているような感じと同様な感覚を受ける。
 乃木坂46のファンなので個人的にはギャグも満載で十分に楽しめたのだが、このようなレビューになってしまったことを申し訳なく思う。

乃木坂46 『伊藤万理華×柳沢翔』


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『レッド・ムーン』

2017-09-25 00:23:49 | goo映画レビュー

原題:『The Stalking Moon』
監督:ロバート・マリガン
脚本:T・V・オルセン/ウェンデル・メイズ/アルヴィン・サージェント
撮影:チャールズ・ラング
出演:グレゴリー・ペック/エヴァ・マリー・セイント/ノーランド・クレイ/ロバート・フォスター
1968年/アメリカ

ホラー映画の元祖となった西部劇について

 本作の本来の観賞の仕方として、主人公の退役軍人のサム・バーナーが、10年前にネィティヴアメリカンに囚われていた白人女性のサラ・カーヴァーと彼女とネィティヴアメリカンとの間に産まれた息子を見つけ出し保護したのをきっかけに、その息子の父親である族長のサルバが彼らの後を追いかけてきて、彼らの滞在先を次々と襲撃して全滅させ、クライマックスにおける対決までその様相は白人のサムとネィティヴアメリカンのサルバの、人種を賭けた息子の親権を巡る命がけの戦いと映るはずである。
 しかしロバート・マリガン監督の演出は子供に対するお互いの父親の情を描くことはしない。寧ろ原題に「ストーキング(stalking)」とあるように、サルバは最後の方までほとんどその姿を見せず、サムはどのような人物に追われているのか全く見当がつかず、ただサルバに襲撃された場所がどこも壊滅状態だということだけを噂で聞くのである。つまりこれは親子の情を描いたというよりも、サムに3発の銃弾を受けてもなお向かってくるサルバを見ても、後にトビ―・フーパー監督が撮った『悪魔のいけにえ(The Texas Chain Saw Massacre)』(1974年)の先駆となるようなホラー映画と捉えるべきであろう。


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『エイリアン:コヴェナント』

2017-09-24 00:50:20 | goo映画レビュー

原題:『Alien: Covenant』
監督:リドリー・スコット
脚本:ジョン・ローガン/ダンテ・ハーパー
撮影:ダリウス・ウォルスキー
出演:マイケル・ファスベンダー/キャサリン・ウォーターストン/ビリー・クラダップ
2017年/アメリカ

神の「存在証明」の方法について

 前作『プロメテウス』(2012年)のテーマである「種の起源」の探索とは要するに「神」の発見であったはずだが、本作の冒頭において人間のピーター・ウェイランドとの対話を通じてアンドロイドのデヴィッドは自分たちを創り出した人間と、人間以上に絵画や音楽(例えばリヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』)に造詣が深い自分たちアンドロイドの立場に疑問を持つようになり、本作は「神」の探索を諦めて人間を滅ぼしてアンドロイドこそ見つかりもしない「神」の立場に納まるべきというデヴィッドの歪んだ野心が描かれることになる。
 デヴィッドと同じアンドロイドではあるが、性能が向上しているウォルターの会話が興味深い。デヴィッドはジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron)が1818年に認めた詩『ナポリの近くにて、失意の歌』(Stanzas Written in Dejection, near Naples)を諳んじるのであるが、ウォルターはそれはバイロンの詩ではなくパーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)の詩だと間違いを指摘する。つまり「不完全」と言われたも同然に対する怨念が自分より高性能のウォルターを倒した原動力になったと同時に、人間の間違いもコピーするしかないアンドロイドの在り方も思い知らされたはずではある。
 結果的に『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督 1968年)と『ターミネーター2』(ジェームズ・キャメロン監督 1991年)のテーマまで取り込んだストーリー展開となっている。

 使用されている楽曲にパオロ・ヌティーニ(Paolo Nutini)の「Let Me Down Easy」がある。最初聴いた時に、昔のソウルミュージックかと思ったのだが、2014年に20代の白人によってリリースされたものだったことに驚いた。以下、和訳。

「Let Me Down Easy」 Paolo Nutini 日本語訳

私を酷くがっかりさせる
私に対するあなたの愛がなくなってしまったから
私を酷くがっかりさせる
このままでいることが間違いだとあなたが感じてから

僕たちは他の人たちによって別れてしまったけれど
自分たち自身で改善している
僕たちは見知らぬ人たちを慰めにしているけれど
それが救いになっているとは僕は思わない
もしも愚か者たちの誰もが王冠をかぶったならば
僕はバカではなく王になっているだろう
何故ならば愛は自分たちの手や足よりもそばにありえるのだから

でも愛は僕の中で失われた
愛が僕の中で失われたんだ
僕を酷くがっかりさせる
僕に対する君の愛がなくなってしまったから
僕を酷くがっかりさせる
このままでいることが間違いだと君が感じてから

これ以上の甘いフルーツはありえなかった
苦みを全く感じないのだから
以前はとても新鮮で甘かったのに
僕はもう味わうことができない

僕は能天気な男で
全てを手中に収めていたが
愛は僕の中で失われた

僕を酷くがっかりさせる
僕に対する君の愛がなくなってしまったから
僕を酷くがっかりさせる
僕に対する君の愛がなくなってしまったから
僕を酷くがっかりさせる
このままでいることが間違いだと君が感じてから

調子が良い日は
贖罪の夢を売りながら
僕たちは街角で待ち合わせていたものだけれど
今は君は君の道を歩み出し
僕は僕の道を行くことになるだろう
見えなくなり愛を失い時間が止まった

僕を酷くがっかりさせる
僕に対する君の愛がなくなってしまったから
僕を酷くがっかりさせる
僕に対する君の愛がなくなってしまったから
僕を酷くがっかりさせる
このままでいることが間違いだと君が感じてから

僕を酷くがっかりさせる
僕を酷くがっかりさせる
僕を酷くがっかりさせる
僕を酷くがっかりさせる

Paolo Nutini - Let Me Down Easy [Official Video]


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『ありがとう、トニ・エルドマン』

2017-09-23 00:10:44 | goo映画レビュー

原題:『Toni Erdmann』
監督:マーレン・アデ
脚本:マーレン・アデ
撮影:パトリック・オルト
出演:ペーター・シモニシェック/ザンドラ・ヒュラー/ミヒャエル・ヴィッテンボルン/イングリット・ビス
2016年/ドイツ・オーストリア

「悪ふざけ」の功罪について

 作品の冒頭で主人公で学校の音楽教師のヴィンフリート・コンラーディは生徒たちと一緒になって『バットマン』のキャラクターであるジョーカーのメイクをして先生の送別会に臨むのであるが、その後、メイクをしたまま娘のイネス・コンラーディに会いに行った際に、イネスと一緒にいた人たちはそのメイクに驚くもののイネス本人が驚かないところを見ると、ヴィンフリートはイネスが子供の頃からこのような悪ふざけをしていたのだと推測できる。
 イネスはルーマニアのブカレストにある「モリソンズ」というコンサルティング会社で働いているのだが、娘のところに遊び行ったヴィンフリートにはイネスが幸せそうには見えなかった。そこでヴィンフリートはドイツに帰国した振りをして、再び「トニ・エルドマン」というキャラクターでイネスたちの前に現われる。2人の友人と一緒にいるイネスの前に現われた「トニ・エルドマン」を見てすぐに父親だと気がつくが、敢えて父親であると友人に言わないイネス。さすが父親の「教育」が行き届いている。
 しかしそのように父親を「泳がせて」いたイネスがさすがにうんざりするようになった頃、父親に鍵のない手錠をかけられ、イースター・パーティーで父親のピアノ伴奏で「グレイテスト・ラブ・オブ・オール(Greatest Love of All)」を歌わされた後、イネス自身が誕生日会を「裸体パーティー」で開催するようになるのであるが、同僚たちにはあまり理解されなかったらしく、祖母の葬式が行われた頃にはシンガポールにあるマッキンゼーに「栄転」することになる。幼児教育の大切さを痛感させられる作品ではあるが、まさか娘がボーイフレンドに射精させたザーメンのたっぷりかかったカップケーキをおいしそうに食べるほど「悪ふざけ」が好きなことは「トニ・エルドマン」でさえも想像さえしていないであろう。


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『三度目の殺人』

2017-09-22 00:50:31 | goo映画レビュー

原題:『三度目の殺人』
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:瀧本幹也
出演:福山雅治/役所広司/広瀬すず/斉藤由貴/吉田鋼太郎/満島真之介/市川実日子/橋爪功
2017年/日本

「空っぽの器」と「見えない正義」について

 主人公の一人で容疑者の立場である三隅高司は昭和34年12月1日生まれで逮捕時に58歳ということだから時代設定は2017年であろうか。しかし最初の殺人事件を犯した際に、昭和61年1月の地元北海道の新聞に三隅が25歳と掲載されているのがひっかかる。ちなみに最初の事件当時弁護士の重盛朋章は高校生だったから重盛役を演じた福山雅治と同じくらいの年齢であろう。
 本作の焦点は容疑者を裁く検事と弁護する弁護士たちと同じように容疑者自身も「計算」しているということであり、その「計算」とは検事や弁護士のように必ずしも自分たちに有利になるような類のものではないということである。例えば、三隅が勤め先の社長の娘である山中咲江が抱く怨みを晴らすために彼女の父親を殺したのであり、なおかつ彼女のためにそれを表ざたにしたくなかったのであるならば、判決は三隅の思い通りになったということである。そしてそれが何を意味するのかというと最初の殺人も自身のエゴではなく誰かのために犯した可能性が出てくるということである。
 三隅の弁護を引き受けた重盛は三隅の本心を探ろうと必死にアプローチすることになる。例えば、北海道の留萌の雪が積もる野原で重盛は三隅と重盛の娘の結花と3人で戯れる幻想を見たり、あるいは第二の殺人現場で山中光男を殺したばかりの三隅と咲江と共に一緒にいる自分を想像してみたりする。そしてクライマックスにおいて接見室の仕切りの透明板へ反射する三隅の顔に重盛の顔が完全に重なりそうになりながら最後までピッタリと重ならない時、ついに重盛は三隅の真意を捉え損なうのである。
 三隅は殺人事件の現場にもペットで飼っていた鳥を埋葬した際にも十字の跡を残しており、それは重盛がラストで立ちすくんだ道も十字路だったように本作には「キリスト」が度々暗示されている。三隅の行為が「アガペー」であるとするならば、効率を重視する裁判のシステムが三隅の「正義」を見抜くことは難しいだろう。
 これだけの高いクオリティーで無冠なのだからヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門は厳しい。


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『パターソン』

2017-09-21 00:28:38 | goo映画レビュー

原題:『Paterson』
監督:ジム・ジャームッシュ
脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:フレデリック・エルムズ
出演:アダム・ドライバー/ゴルシフテ・ファラハニ/バリー・シャバカ・ヘンリー/永瀬正敏
2016年/フランス・ドイツ・アメリカ

「既視感」の中にある「発見」について

 アメリカのニュージャージー州のパターソン市に住むパターソンという名前のバスの運転手の物語である。いつのもように朝の6時10分頃に目覚め、仕事場に向かう途中にパターソンは長椅子に座っている双子の高齢の男性を見かけるのだが、パターソンが双子を見かけるのはここだけではない。街中でも自身が運転する車内でも双子の女の子たちを見かけ、「ウォーター・フォールズ(Waterfalls)」という自作の詩を読んでくれた少女も双子の姉がいた。しかし双子だから似ているという訳でもなく、例えば車内にいた2人の若者の会話は自分が女性にモテたという自慢話なのだが、彼らは2人とも女性と会話しただけでそれ以上のことはなかったのである。
 ストーリーはパターソン所縁の人物で埋められていくのであるが、パターソンがローラと観に行った『凸凹フランケンシュタインの巻(Bud Abbott and Lou Costello Meet Frankenstein)』(チャールズ・バートン監督 1948年)は主演のルウ・コステロ(Lou Costello)がパターソン出身ということで理解できるが、『獣人島(Island of Lost Souls)』(アール・C・ケントン監督 1932年)を取り上げたのは、「失われた魂の島」という原題が2人が住んでいるパターソンと対照的だからというニュアンスが込められているのだろうか。
 しかしここで最もフューチャーされている人物はパターソン出身の詩人であるウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams)なのだが、それは詩人であること以上に、2度繰り返される「ウィリアム(ズ)」という名前にあると思う。
 パターソンが自作の詩を書き込んでいたノートは飼っていたイングリッシュ・ブルドッグのマーヴィンによって紙くずと化してしまうのであるが、そこに現われるのが日本人の詩人である。彼はウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩集『パターソン(Paterson)』の日本語訳の本を持っている。彼が公園のベンチでパターソンと何気ない会話をした後、帰り際に「ア~ハ」と声をかけるのだが、これも「A~HA」と綴れば「William Carlos Williams」と同じ構図で、人は同一性(=日常)の中で生じる僅かな違いに感動するのである。詩人が主人公の作品を詩的にまとめるところがジム・ジャームッシュ監督の天才のなせる技である。


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