フロムYtoT 二人に残された日々

私と妻と家族の現在と過去を綴り、私の趣味にまつわる話を書き連ねたいと思っています。

幸福について

2020-09-04 00:30:14 | 日記

 過去の日記を見ていて、「幸福について」(ショーペンハウアー著)に関することを書いている日記を見つけました。最初は私の日記の一部かと思いましたが、全く私の文章と違うと、もっとお偉いさんの文章だと思いググりました。そして、かって私が好きだった大哲学者ショーペンハウアーの著書だと解りました。

(私の中では記憶の彼方でした)

 懐かしい想いに駆られました。私の抜粋ですが、内容は素晴らしい論文だと思います。

 大先生は「人間は幸福になるために生きているという迷妄」であると書いていますが、私は、「人間は幸福になるために生きているという迷妄」ではなくて「人間は幸福になるために生きている」と思って生きてきました。

(誰の翻訳であるかは定かではないので、著作権を侵害するのであればごめんなさい)

幸福について(ショーペンハウワー)

人間は幸福になるために生きているという迷妄

三つの根本規定----無常の人間の運勢に現れた差別の基礎

 1. 人のあり方 すなわち最も広い意味での人品、人柄、人物。したがってこのなかには健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成が含まれている。

 2. 人の有するもの すなわちあらゆる意味での所有物。

 3. 人の印象の与え方 印象の与え方というのは、ご承知のとおり、他人の抱く印象に映じた人のあり方、すなわち結局他人にどういう印象をいだかれるか、という意味である。したがってその帰するところは人に対する他人の思惑であり、名誉と位階と名声とに分けられる。

 第一の見出しのもとに考察すべき差別は、ほかならぬ自然そのものが人間の間に設けた差別である。こう言っただけでも、人間の幸不幸に対して及ぼす自然の影響が、ほかの二つの見出しのもとに掲げた単に人間が設けた規定から生ずる差異によって引き起こされる差別よりも、はるかに本質的であり、根本的であろうということは、想像がつくはずである。精神の偉大さとか、心情の偉大さとかいうような真の人物上の利点に較べれば、位階とか、生まれとか、富とか、何とかいうようないっさいの利点は、現実の王様と較べた芝居の王様のようなものだ。

 エピクロスの一番弟子だったメトロドロスはつとに「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因よりも大きい」と題した一章をものにしている。いうまでもなく人間の幸福なあり方、いや、人間の生き方全体にとって主要なものが、人間自身のなかに存するもの、人間自身のうちに起こるものだということは明らかである。ここにこそ内心の快不快が直接宿っているわけだ。というのは内心の快不快は、ともかく、人間が感じたり意欲したり考えたりする働きの結果だからである。これに反して外部にあるいっさいのものは、何といっても間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない。だから人間が外部的な推移ないし事情によって触発される具合も各自各自で全く異なっているし、同じ状況のもとにあっても各自の生きる世界は別々である。なぜかといえば、各自が直接に交渉をもつものは、自己のいだく観念とか、自己の行う意思活動とかいうものだけであって、外界の事物は、ただこうした観念や感情や意志活動を引き起こすものとして、各自の上に影響を及ぼすにすぎないからである。

 各自の生きる世界は、何よりもまず世界に対する各自の見方に左右され、頭脳の差異によって違ってくる。頭脳次第で、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなれば、豊かでおもしろく味わい深いものにもなる。たとえば他人の生涯に起こった痛快な出来事を羨む人があるが、そういう人はむしろ、他人が痛快な出来事として描写しうるだけの重要性をその出来事に認めたというその把握の才をこそ羨むべきであろう。けだし聡明な頭脳にはかくも痛快に映ずる出来事が、愚鈍平凡の頭脳から見ると、日常茶飯事の世の中のおもしろおかしくもない一場面にすぎないであろうからである。このことが如実にうかがわれるのは、明らかに現実の出来事を根底にしたゲーテとバイロンの幾多の詩である。こういう詩を読んでも、愚かな読者なら、詩人の経験した惚れぼれするような出来事を羨みこそすれ、ごく平凡な出来事をかくもすばらしいものに造りあげた逞しく旺盛な想像力を羨ましく思うなどということはない。多血質の人間から見れば痛快な葛藤に見え、粘液質の人間から見れば他愛もないことに見える場合にも、憂鬱質の人間なら悲劇の一くさりを見ているような気になるだろうが、これも同様の理屈である。こうしたことは、およそ現実というものが、言い換えればおよそ内容の充実した現実というものが、主観と客観という二つの面から成っているということによるのである。だから客観的な半面が全く同じでも、主観的な半面が異なれば、主観的な半面が同じで客観的な半面が異なる場合と同様に、現在の現実が全く別なものになってしまう。客観的な半面がいかに美しく、いかに良くても、主観的な半面が鈍くて悪ければ、美しい風景を悪天候のもとに眺め、あるいはがらくたのカメラのレンズで見るように、劣悪な現実、劣悪な現在と化するのだ。もっと平たくいえば、人間はそれぞれ、自分が皮膚をまとっているのと同様に、自分の意識のなかに嵌まりこんで、直接には自分の意識のなかだけで生きているにすぎない。だから人間は外部から救いの手を伸ばしてもたいしてもたいして救われないものだ。

 舞台の上では王侯を演じたり顧問官を演じたり、下僕になったり兵卒になったり将軍になったりなどするが、こうした差別はただ外面にあるだけで、内面に、こうした現象の中核となって潜んでいるものは、誰の場合にも同じである。すなわち憐れな喜劇役者である。悩み、苦しみをもつ喜劇役者である。人生またかくのごとしである。

 位階や富の差別が、各自にそれぞれの役割を演じさせはしているものの、決して役割に比例して幸福や愉楽の内面的な差異ができているわけではなく、この場合も一皮剥けばみな同じ憐れむべき愚者である。苦しみ、悩みをもつ愚者である。中身は人それぞれに異なってはいても、本来の姿すなわち本質から見れば、まずまず誰もが同じ愚者である。潜む愚者に大ばか小ばかはあっても、決して身分と富とに、すなわち役割に応じた違いではない。つまり人間から見て存在し推移進展するいっさいの事物は、直接的には結局人間の意識のなかに存在し、意識に対して推移進展するのであるから、明らかに意識そのものの性質状態がなによりもまず重要で、大抵の場合、意識のなかに現れる事物の姿よりも、意識の性質状態が物を言うのである。

       ・・・・・・・・・・・・・・略

 現在および現実の客観的な半面は運命の手に握られている。したがって可変的なものである。主観的な半面はほかならぬわれわれ自身である。したがって根本的には不変的な物である。だから人間各自の生き方は、いかに外部からの変化があっても、終始一貫同じ性格を帯び、同一主題をめぐる幾つかの変奏曲にたとえられる。

         ・・・・・・・・・・・・・・略

 個性によって、人間に与えられる幸福の限度が、あらかじめ決まっている。ことに精神的能力の限界によって高尚な享楽の能力が永遠に釘づけにされている。精神的能力の限界が狭ければ、その人間のために周囲の人々がどんなに骨を折っても、福の神がどんなに力瘤を入れても、要するに外部からいかに面倒を見てやっても、人間としては普通の、半ば動物的な幸福や愉楽の程度以上に引き上げることは不可能である。官能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。教養でさえも、総じてこの種の人間にとっては、こうした限界を拡げるうえに、多少は役に立っても、そうたいした貢献はもたらさない。なぜかといえば、最も高尚で最も変化に富み最も持続的な享楽は精神的な享楽であり、若いときにはいかに精神的な享楽について誤った考えを抱いてはいても、それが大体において持って生まれた精神的な能力に左右されるからである。

   ・・・・・・・・・・・・・略

 幸福がわれわれのあり方すなわち個性によってはなはだしく左右されることが明らかである。ところが大抵はわれわれの運命すなわちわれわれの有するものあるいはわれわれの印象の与え方ばかりを計算に入れている。けれども運命は好転するということもある。そのうえ、内面的な富をもっていれば、運命に対してさほど大きな要求はしないものである。・・・・・・・・・・・・略

 まことに健康な乞食は病める国王よりも幸福である。完全な健康と身体の好調とから生まれる落ち着いた朗らかな気質とか、闊達自在で明敏な狂いのない透徹した知性とか、中庸を得た温和な意思とか、ひいては一点疚しからぬ良心とかいったようなものは、位階も富も取って代わることの出来ない美点である。それはそのはずだ。一個の人間の自己自身としてのあり方、たった一人になってもどこまでもつきまとい、誰からも与えられたり奪われたりすることのないものこそ、その人間のひょっとしたら所有するようになるかもしれない何ものよりも、まして他人の目に映じた自己のあり方などよりも、本人にとって本質的であることが明らかだからである。才知に富む人間ならば、全く独りぼっちになっても自分の持つ思想や想像にけっこう慰められるが、愚鈍な人間であってみれば、社交よ芝居よ遠足よ娯楽よと、いかにひっきりなしに目先が変わっても、死ぬほどつらい退屈は、どうにも凌ぎがつかない。善良で中庸を得た温和な性格は、環境が貧弱でも、満足していられるのだが、貪欲で嫉妬深い邪悪な性格は、巨万の富をいだいても、満足はしない。

・・・・・・・・・・・・略

 人生の幸福にとっては、われわれのあり方、すなわち人柄こそ、文句無しに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。

・・・・・・略

   汝のこの世に生まれたその日、

   日輪を迎えた惑星のそのときの星配りそのままに、

   生まれたときの掟に従い、

   早すくすくと育ってきた。

   これよりほかに道もなく、おのれを捨てるすべもない。

   こういうことはその昔、巫女どもが、予言者どもが言うたげな。

   形を具えて、さかえゆく生命は

   時にも、力にも、砕かれはしない。

                                            ゲーテ

 われわれとしては、与えられた人柄を最大限に活用するだけである。したがって柄にあった計画だけに努力を集中し、柄に応じた修行の道に励み、他のいっさいの道を避け、柄にぴったりとくる地位や仕事や生き方を選ぶことである。 

人のあり方について

 個性が下劣であれば、どんな享楽も、胆汁をぬたくった口に美酒を含むようなものである。だから善事につけ悪事につけ、特別な災難はともかくとして、自己の生涯にどういうことが起きるかということよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題なのである。人の内面のあり方と人の具有するもの、つまり人柄と人柄の価値とが、人の幸福安寧の唯一の直接的な要因である。

 ・・・・・・・略

 意識の性質ばかりは不動不変であり、個性は継続的・持続的に、多かれ少なかれ一瞬も働いていないときはないが、これに反して他のいっさいのものは結局、時折、機に臨み折に触れて、一時的に働くにすぎず、そのうえ世の有為変転にも服している。・・・・・略

 全く外部だけから襲ってきた不幸が、みずから招いた不幸より、平然と耐えられるのは、このためである。というのは、運命は変わることがあっても、自己の性質は決して変わることがないからだ。してみれば、主観的な財宝、たとえば優れた性格と有能な頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康そのもののような頑丈な体格、要するに健全な身体に宿る健全な精神が、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である。だからわれわれは外部的な財宝や外部的な名誉を得ようと努力するよりは財宝の維持増進にうんと力を入れたほうがよかろう。 

 感受性が異なる結果、甲の人間ならほとんど絶望するようなことに出会っても、乙の人間は平気で笑っているというようなことがある。しかも不快な印象に対する感受性が強ければ強いほど、快的な印象に対する感受性は弱いし、またその逆も言えるとしたものだ。或る事件の幸福な結末と不幸な結末が五分五分の可能性をもつ場合、陰気な人間は不幸な結果を見て腹を立てたり悲しんだりするが、幸福な結末を見て喜ぶことはしない。これに反して陽気な人間は不幸な結末に対して腹を立てたり悲しんだりはせず、幸福な結果を喜ぶであろう。陰気な人間は十の計画のうち九までが成功したとしても、この九は喜ばず、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間は、これとは逆の場合にも、一の成功でみずから慰め、自分を明朗な気分にする骨を心得ている。ところがおよそ災厄にはそれ相当の埋め合わせが全然伴わないことはまずありえないとしたもので、この場合でも陰気型の人間、すなわち陰鬱なくよくよした性格の持ち主は、朗らかな呑気な性格の持ち主に較べると、想像上の災難や苦悩を多く経験させられはしても、現実の災難や苦悩を嘗めさせられることはむしろ少ない。なぜかというに、万事を悲観的に見て、絶えず最悪の場合を気遣い、したがって適当な予防策を講ずる人間は、いつも朗らかな色合いと朗らかな展望とを添えて事物を眺める人に比して、誤算をしていたということが少ないであろうからである。 

 幸福と享楽の外部的な源泉は、いずれもその性質上さっぱり当てにならない不確実なはかないものであって、偶然によって左右されるから、どんな有利な状況にあっても、とかく閉塞しがちなものだといえよう。いや外部的な源泉はどう考えても、いつも手の届くところにあり合わせるというわけにはいかないから、こうしたことは避けがたい。まして年でも取れば、この源泉はまず一つ残らず涸れてしまう。・・・・・・・・略

 人間世界には困窮と苦悩が満ちている。たまたま困窮と苦悩とをのがれた者があれば、至るところに退屈が待ち受けている。おまけに大抵は邪悪が人間世界の支配権を握り、愚昧が大きな発言権をもっているとしたものだ。運命はむごく、人間はいじましい。・・・・・略

 対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。・・・・・略

 人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにあるというアリストテレースの説は、ストバイオスも逍遥学派の倫理学を叙述したなかでそのまま述べている。たとえば、幸福とは、願ったとおりの成功を収めるような仕事に従事し、しかも徳に適った活動をすることである、と言い、その徳とは練達した技能だという注までつけてある。・・・・・・・・・略

 人間能力のあらゆる発現の根源に遡って、問題を系統的に検討することも可能である。その根源とはすなわち三つの生理学的な根本能力である。したがってこの三つの根本能力の無目的な遊びを考察しなければならない。この場合、その根本能力はありうべき三種類の享楽の源泉となる。人間はそれぞれ三つの根本能力のいずれが内面の主流をなすかによって、享楽のなかから自己に適したものを選ぶわけである。さて第一は再生力の享楽である。飲食、消化、休息、睡眠の享楽である。第二は刺激性の享楽である。遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬、その他あらゆる種類の運動競技、さては狩猟、はなはだしきは闘争や戦争、などの享楽である。第三は精神的感受性の享楽である。考察、思惟、鑑賞、詩作、絵画彫刻、音楽、学習、読書、瞑想、発明、哲学的思索、などの享楽である。・・・・・・略

 したがって精神的感受性が圧倒的に多ければ、認識することを本質とする享楽、すなわちいわゆる精神的享楽が出来るようになり、しかも精神的感受性が断然圧倒的に多ければ多いほど、それだけ大きな精神的享楽が得られる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・略

 自分以外の者は個々の部分を中途半端に理解する通りがかりの傍観者にすぎない。・・・・・・略

 われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなれれば、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、たちまち苦痛なものになる。それゆえ、自分の意志のご用を勤めるのに必要な程度以上に有り余る知性を与えられた人だけが、幸福な人間ということになる。それは現実生活のほかに、もう一つ知的な生活を営み、この知的な生活が苦痛を伴わずにしかも溌剌とした仕事と慰安を与えてくれるからである。ただ余暇があるというだけでは、すなわち知性が意志のご用勤めに忙殺されていないというだけでは、まだ足りない。それには能力が実際に有り余っているということが必要だ。・・・・・・・・・略

 ところが普通の人間は、事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みにしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。こうしたものの上に彼にとっての人生の幸福がささえられている。したがってこうしたものを失うとか、あるいはこうしたものに幻滅を感じさせられるとかいうことがあれば、人生の幸福は崩れ去ってしまう。このような人間の重心は彼の外部に落ちる、というような言い方で、この関係を表すことができよう。・・・・・・略

 自分と自分の家族の生存に必要なものの獲得に時間を費やすことが、人間の自然の定めだからである。人間は困窮の子であって、その本質が自由な知力にあるとは言いがたい。・・・・略

俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。・・・

 第一に、俗物その人について見るに、先に掲げた「真の欲望がなけれは真の快楽はない」という原則のとおりに、精神的な享楽をもつというこのとがない。認識と洞察とを、認識と洞察そのもののために求めようとする止むにやまれぬ衝動もなく、またこれと全く類縁関係にある真に美的な享楽を求める衝動もないから、これによって生活が活気づくこともない。けれども流行とか権威とかいったようなもののために、こうした種類の享楽を否応なしに押しつけられる場合にも、いわば一種の苦役としてなるべく早くすませてしまうであろう。俗物にとっての現実の享楽は官能的な享楽だけである。・・・・・・

 第二に、その他人に対する方面について見るに、俗物は精神的な欲望を持たず、肉体的な欲望だけをもっているから、その求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人ではなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。だから他人に対する要求のなかにも、精神的な能力に重きを置いた要求が含まれることはさらにない。いやそれどころか精神的な能力を見せつけられると、むしろ嫌悪か、はなはだしきは憎悪を感ずるくらいである。なぜかというと、そんな場合ただ耐え難い劣弱感をいだかされるだけで、そのうえ心中ひそかに潜在意識的な嫉みを感ずるけれども、なるべくそれを抑えるようにして、ひた隠しに隠すため、かえってこうした嫉みが昂じて、時には無言の怨みとなることさえもあるからである。したがって自分のおこなう人物評価や尊敬の念を、そうした特性を基準にして測ろうなどという考え方は、金輪際起きない。富や権勢こそ唯一の真の美点と見て、自分もその店で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。

・・・・・・・略

 俗物どもの大きな悩みは、理想によって慰められることがなく、退屈からのがれるのに必ず現実を必要とする。

・・・・・・・略

・・・・・・・略

人の有するものについて

 第一、自然で、しかも必要な欲望。これは満足させなければ苦痛の原因となるような欲望で、したがってこれに属するものは食と衣だけである。これを満足させるのは容易である。

 第二、自然ではあるが必要でない欲望。これは性的満足の欲望である。第二の欲望は第一の欲望よりは満足させることが困難である。

 第三、自然でもなく必要でもない欲望。これは奢侈、耽溺、栄耀栄華の欲望である。無限で、その満足はなかなかむつかしい。

 

 富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く。名声もこの点は同じである。

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