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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その19

〈中国軍ゲリラ対策としての婦人警官(1942年6月12日)〉
 
 
 年もあけて昭和十七年二月下旬のある日の夜半、竜開河にかかる愛民橋が中国軍のゲリラによって爆破された。正攻法では勝てないとみたのか、中国側は最近ゲリラ活動に重点をおき、各地でテロや爆破、放火などをはじめたのである。住民たちには良民証という通行手形を持たせ、市内に出入りする中国人にたいしては厳重な検問を行なっているのに、どんな手段で爆薬を持ちこんだのか、不思議でならなかった。(中略)   
 
 こうしたいろいろな苦労はあったにもかかわらず、残念ながらこの検索では何も得るところはなかった。そこで私たちは、身体検査をもっと徹底することにした。これまでの身体検査では、女性を調べるさい、どうしても遠慮がちになってしまい、徹底した検査ができなかっだからである。憲兵隊は中国側警察と相談し、婦人警官を募集して、市外から出入りする女たちにたいして綿密な身体検査を行なわせたところ、ついに爆薬などの搬入手段をつきとめることができた。   
 
 中国軍は若い農婦を使って必要な爆薬や拳銃を一個ずつ股間につけて運ばせていたのだった。この女たちを追及した結果、背後にあるのは浜江州の南西につらなる岷山(みんざん)山系に蟠踞する中国軍のゲリラ部隊、羅棋漢部(らきかんぶ)だということをつきとめた。憲兵隊は六月十二日ごろ、本部分隊合同で警備隊の協力を得て、大がかりな討伐作戦を行なうことになった。(175-176頁)
 
 
 
 
 
〈特高憲兵工作費としての儲備券(1942年6月)〉
 
 
 のちに庶務班長から特高班へ転任になった。特高班へかわった私は、魚が水を得たような気持だった。人なみ以上に融通がききすぎろ私は、しょせん庶務班長などというかたくるしい仕事には不向きだった。特高班に移った私には、工作費として月々一万円ずつの機密費が支給された。ただしそれは、日本円に対して百対十八の価値しかない儲備券(ちょびけん。南京政府発行の通貨)であった。もちろん、これは中国人諜者たちへ分配し、情報収集のための旅費や宿泊費、あるいは報償金などにあてるのがたてまえではあるが、その配分は私たちの自由裁量にまかされていた。(177頁)
 
 
 
 
 
〈特高憲兵班員たちの情報収集手段(1942年6月)〉
 
 
 特高班員たちは中国人らしくよそおうため、昼夜を問わず中国服や背広にその姿を変え、髪ものばしで中国風にしていた。ときにはひどく汚れた中国の労働服に身をやつしていたので、軍服を着るのは、元旦や天長節(今の天皇誕生日)、明治節(明治天皇の誕生日。今の文化の日)など、隊内で儀式があるときだけにかぎられ、その数も年に四、五回にすぎなかった。そのため市内に住む中国人たちにも憲兵であることを知られず、どこから収入をもとめているかもわからないまま、浮浪者ではないかといわれている者さえあった。   
 
 こうしてある者は町にでて洋車をひき、ある者は港の苦力に化けて情報収集にあたっていたが、私のようにすでに住民たちに顔を知られている者は、難民たちのなかにまぎれこむこともできないので、情報収集は主として秘密のうちにやとっている中国人諜者に頼り、一種の陽動作戦的にみずからを中国側の目にさらし、彼らの注意を引きつける役にまわった。この役は一見気楽そうに見えるが、反面非常に危険がともなうことで、つねに中国側の暗殺目標となっていた。   
 
 陽動的な工作をする者は、拳銃一挺をかくし持ち中国服をきて毎日単身で難民街に出入りするので、自然中国側ゲリラの拳銃につけねらわれることになった。ときには私たちに懸賞金がかけられ、この広告が中国側の手によって難民街の人目につく場所に張られていた。たとえば某曹長を殺害した者には一千元、情報を提供した者には五百元、捕えて引き渡したものには五千元の賞金を与える、というようなもので、私たちの活動が活発になり、中国側から見てその存在がじゃまになる度あいに応じて、懸賞金の額が値上げされた。(177-178頁)
 
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