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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その15

〈部隊同士での抗争(1939年11月)〉
 
 
 昭和十四年(一九三九年)三月の南昌占領以来、第百一師団(師団長・斎藤弥平太陸軍中将)がこの地方の警備にあたっていたが、同年十ー月には、防諜名を椿部隊という第三十四師団(師団長・大賀茂陸軍中将)にその任務をゆずった。表面上は、天皇を中心に完全に団結しているかに見えていた日本陸軍ではあったが、上層部の個々の抗争ばかりではなく、各師団、各連隊にもそれぞれの自負かあって、他部隊を蔑視する通弊があった。   
 
 両師団の警備交代にはかなりの日数を要したため、一時南昌市内には両師団の将兵たちが同居することになった。百一師団の将兵には、南昌を占領したのはわれわれの師団だ、あとからのこのこやって来て大きな顔をするな、という気負いがあり、三十四師団将兵のあいだには、百一師団が徐州作戦以来、漢口作戦時の瑞昌、廬山攻略戦などに大きな犠牲を出した事実を知っていて、百一師団は弱いという潜在意識があったので、おたがいに相手を蔑視しあっていた。   
 
 十一月十五、六日のことだった。百一師団の兵隊が三十四師団の兵隊にたいし「またも負けたか八連隊」といってひやかしたのが原囚で、民徳路の路上で相方数名ずつの喧嘩がはじまった。付近にいてこれをききつけた両師団の兵隊たちも応接にかけつけた。双方とも酒がはいっていたので、騒ぎはますます大きくなった。ついには、おたがいに十数名ずっの兵隊が抜刀し、白昼の路上で大乱闘を演じる結果となったのである。住民の知らせをうけた憲兵分隊では、ただちに数名の憲兵を派遣し、鎮圧にあたったので、さいわいにケガ人は出さずにすんだが、憲兵の到着があと十分も遅れたら大変なことになっていたことだろう。(145-146頁)
 
 
 
 
 
〈水上憲兵隊勤務時の中国兵とのやりとり(1940年5月)〉
 
 
 五月末日、今日は天気がよいのでちょっど遠出をしてみようということになり、私は福原、花房、谷口上等兵をひきいてコウ(管理人注-漢字変換なし)江下流方面の巡察に出発した。このモーターボートは小型なので冬のあいだ強風の日には横波かかぶり、しばしば転覆の危険にさらされたものだったが、その後工兵隊から配属されていた二隻の鉄舟を引き揚げられたので、今は遠方へ出るにもぜいたくはいっていられなかった。中国側警察の蒸気船を使う手はあるが、これはまた船足が遅く図体が大きいので、浅瀬を通過できない欠点があり、スピードが出るだけ有利なモーターボートの方がひんぱんに使われていた。   
 
 私たちの乗ったモータボートは、下腹にひびくような高い音をたてて川下へむかって走っていた。あまりにも天気がよかったためか、私たちはこの下流が中国軍支配地区へ通じていることさえ忘れていた。接敵地に近い蒋家埠(チャンチャフ)のをとうに過ぎたのも念頭になかった。春の川風が肌にここちよく、水牛がのんびり遊ぶ両岸の縁の美しさに気をとられ、ついつい思わぬ遠出をしてしまったのである。   
 
 ふと気がつくと、左岸の堤の上に立っていろ兵隊がここへ船をつけろと命令するかのように手まねきしていた。日本軍の指導でできている南昌市政府の保安隊かと思い、軽い気持で船を江岸へ寄せると、なんとそれは中国軍の歩哨だった。一瞬しまったと思ったが、もう遅い。エンジンはとめてしまったし、相手は堤の上、こちらは堤下の江岸で、勝負にはならない。今さら逃げるわけにはいかないので、やむをえないときは切り死だ、と私たちは意を決して堤の上へ登っていった。不思議なことに彼は私たちに敵意を持ってはいない様子で、   
 
「あなた方は憲兵隊ですね。今日はずいぶん遠くまできましたね」   
 
当面の敵である中国兵にこう静かにいわれると、ちょっとはりあいぬけがして、なんだかキツネにつままれたような気持だった。近くにある粗末な小屋から、中国軍の軍曹が姿をあらわして笑いながら近づいてきたが、軍曹の顔には敵意の影はみじんもなく、むしろ好意さえ持っているようだった。
 
 「あなた方は憲兵隊ですか。憲兵隊には住民がお世話になっているし、私たちの敵ではない。それに憲兵隊は少し強すぎるからねえ、ハハハ」
 
 「貴下はどちらの部隊ですか」   
 
「俺たちは一五七師の三連だ。連本部はあそこのにあるのだ」(連は日本の中隊にあたる)   
 
と二キロほど離れた楠(くすのき)の森を指さした。ききもしないのにわざわざ敵に部隊の所在地を教えるのだから、ずいぶんのんきな軍曹殿だと思った。   
 
 しばらく立ち話をしているうちに、彼らが私たちにたいして敵意を持っていないわけがわかった。この辺の農民たちは毎朝南昌へ野菜類を出荷しているということで、水上憲兵隊のご機嫌をそこね、出荷をさしとめられると、農民をけじめ彼らの部隊も日用品の入手が止まってしまうからだった。
 
 「タバコがあったら少し分けてくれ」   
 
というので私は花房一等兵に、   
 
「タバコがほしいというから、いくつか持ってきてやれ」   
 
と命じ、二、三箱の「チェリー」を持ってこさせて彼に与えた。   
 
「これは日本のタバコか。きれいな箱だな、こんなタバコははじめて見た」
 
 「これは俺たちだけしか手に入らんのだ」   
 
「そうか、これはありかたい。謝々(シェシェ)謝々」   
 
 また、ボートのなかにビールの空ビンが二、三本あるのを目ざとく見つけた兵隊が、あれをくれといってきた。   
 
「あれは空ビンだ。空ビンでもいいのか」   
 
「空ビンでけっこうだ。油を入れるものがなくて困っているんだ」   
 
 こうして二十分ほど話して私たちが帰ろうとすると、   
 
「今日は何もないからこれでも持っていってくれ。こんど来たときには昼飯を用意するから」   
 
とニワトリを二羽さげてきた。これはおそらくタバコの礼のつもりなのだろう。   
 
「近いうちにまた来てくれ。今度は何か支度しておくから交換してもらいたい。その船の音は遠くできくと飛行機のようだ。空襲かと思ってあわてたよ。兵隊がまちがって射つといけないから、今度来るときには憲兵隊の旗を立ててきてくれ」   
 
「何がほしい?」   
 
「肥(フエゾウ=セッケン)洋火(ヤンホー=マッチ)香煙(シャンイェン=タバコ)何でもいい。こっちには豚とニワトリと野菜だけだ」   
 
「よし、それなら今度くるとき持ってきてやろう」   
 
 私たちが一週間ほどたってたずねると、その日には軍曹自身が歩哨に立っていた。時計を持たない彼らは時計のかわりに線香を足もとに立てて、一本ごとに交代しているのだった。   
 
「君たちの隊では軍曹でも歩哨に立つのか?」   
 
「日本軍では軍曹は歩哨に立たなくてもいいのか、俺たちの方では下士官以下はみな同じだ」   
 
 そこへ上等兵が火のついた線香を持ってきた。そして半分ほどになった足もとの線香ととりかえた。てっきり交代するのだと思った私は、   
 
「軍曹は半分でいいのか」   
 
ときくと、上等兵はとんでもないという顔をしてこういった。   
 
「冗談じゃない。軍曹は俺たちより給料がいいので半分だけ余計に立哨するんだ」   
 
「しかし歩哨が立ち話していてもかまわんのか」   
 
「連本部は遠いし、本部から誰かくればよく見えるんで、ここじゃ適当にやっているんだ。それに幾月たっても別に変わったこともないし、こんな堤の上で何を警戒すればいいんだ。退屈で仕方ないんであなた方を歓迎するんだよ」   
 
「驚いたな、敵を歓迎するとは」   
 
「戦争は上の方でやっていることで、俺たちには没有関係(メイユウカンシイ=無関係)だ。俺たち下っぱは勝っても負けてもどうってことはない。下っぱ同士で何も憎みあうことなんかないんだ」   
 
なるほど、もっともなことである。(146-148頁)
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