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特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第14回(※印は弊社解説)
話を元に戻して、時代が進み
2009年、衆議院議員選挙で公明党は大敗しました。(※31議席から21議席)
民主党政権になり、民族公明連立は解消かと思われました。
と同時に、飛ぶ鳥も落とす様な勢いがあった丹治一派はカットされました。
これで私には一瞬希望が見えたんです。
丹治とその一派によって「指導」という名の下でおこなわれるパワハラは、それはそれはひどいものでした。
飲み会の席でも、仲間の盗聴をしたりして、丹治一派に連なる幹部へのグチや批判めいた事でも言おうものなら徹底的に査問されていました。
精神を病む者や自殺未遂者が出たほどだった。
(※本部そばの精神科医院には、パワハラを受けた若手職員が沢山罹っていたのは事実)
丹治一派における金の着服問題もありました。
まあ、金の問題だけなら、潮出版社から分かっているだけで500万円で、第三文明社も合わせると噂では6000万くらいでしたかね?
そんな金額はかわいいもので(笑)、関西の大幹部に比べたら2桁くらい小さい話だけど。(笑)
また、関西と言えば男子部幹部に火のついたタバコを手に押し付けたり、靴を投げつけたりする元関西青年部長もいましたが、それが今や弓谷(元全国男子部部長、女性問題で解任される)とともに査問の中心者ですから。(笑)
(※丹治チームが切られたのは、選挙敗北によって佐藤浩氏をはじめとして、自民党の後ろ盾を失ったのが一番の原因だったと言う人達もいるが、これは正確ではない。)
(長年の独自情報により、丹治一派が切られたのは、彼らの存在自体が田原、正木、谷口、佐藤ら先輩大幹部達の立場を脅かすまで強大な勢力になったからだと分析する。)
(※2009年迄の丹治氏は、教団本部、新聞社、外郭団体や公明党及び地方の教団組織に至るまで、月刊誌 潮「山木進一の軌跡」の取材活動を通じて全国に闇のネットワークを作っていたのだ。)
(※一部の幹部は「丹治は山友以上」と言っていた。)
(※今では考えられないが、当時は「丹治第7代会長誕生」もあり得た勢いだった事は、丹治氏とその取り巻きならば、知っているはずである)
(※このことに危機感を抱いた人々が、丹治氏とその周辺の不透明な金の流れをリークして処分したのが実態に近いだろう)
(※当時、パワハラ問題だけならば乗り切れると高をくくっていた丹治一派だったが、
さすがの長谷川氏、八尋氏、中野氏などでも、丹治氏の金銭問題は根が深く、守り切れなかったようだ。)
(※しかし、まだ彼らのうち何人かは、丹治氏が復権する事を狙っている者もいる)
また話を戻しますが、当初は公明党は衆議院小選挙区は撤退、黄金の三年で行こうとなっていたんです。
(※田原三郎会長の下で初めて行われた2007年参議院議員選挙では選挙区で3人落とす。【これが原因で佐藤浩副会長は政治担当から外された】)
(※また2009年衆院選では8小選挙区で全敗するなど大惨敗、
執行部は参議院議員選挙に続く2回連続の大惨敗となった。)
(2010年参議院議員選挙(7月)でも比例区得票で伸び悩み、改選議席を2つ落とし事実上の3連敗。
田原会長は就任から4年間で、選挙戦において合計15議席を落としたことになる。)
(※これらは「秋谷元会長がある意味、仕込んだ事」とは、ある情報筋より。)
(※秋谷氏は選挙情勢や分析、対策をする上で非常に重要な要素を占める彼独自の情報網や人脈をあえて田原会長に禅譲しなかった。)
(※選挙情勢が厳しくなっても、黙っていた。何故ならば、負けさせる事で田原体制の失脚か弱体化を狙えるからだ。)
(※それであわよくば彼が自らの復権を勝ち取ることが出来るか、または田原三郎会長体制を傀儡化させて、裏で操作する事が出来ると思っていたからだとその情報筋は教えてくれた。)
(※案の定、先生から「やはり選挙は秋谷の力が必要だな」となり、秋谷氏が再度、選挙全般に絡むようになっていったのである)
そして追い討ちをかけるように、ここで山下以知子さん(※当時関西婦人部部長)が要らぬ活躍をしてしまったんです。
どうしても選挙でリベンジをしたいと強く主張して、小選挙区撤退の流れを止めてしまったんですよ。
それで死んだはずの佐藤浩副会長が復権する因ができてしまったんです。
(※この事で秋谷氏は佐藤浩副会長を政治担当に戻しやすくなり、引退していた市川雄一氏も党務に戻した)
(※一旦は息の根を絶たれた反山木勢力が蘇生した瞬間である。)
(※ある時期、会内で権威を失墜して孤立し、宗門行きまで企てていた秋谷氏は、自分を追い越す勢力だった丹治一派の排除にも成功したので、先生に対する反撃の画策を始める)
(※秋谷氏達は2010年5月に先生が脳梗塞で再度倒た事で、【選挙戦に弱い原田会長を一気に取り込み、池田包囲網を作りあげた】とは、ある内部情勢筋。)
(※2010年、参議院選挙後、夏の最高会議は、池田先生不在の中で正木一派らが小選挙区撤退を主張する。)
(※しかし、他の幹部達は、関西婦人部長が「リベンジしたい、リベンジしたい」と鼻息が荒い事に目をつけ、それを上手く利用し、小選挙区に候補擁立する事が決まり、これで会執行部は、民族党と離れられなくなってしまったのだ。)
※【参考】(公明党の議席数、得票数の推移)
(参議院のカッコ内は【選挙当時の改選議席】の増減を表す。
なおその後の繰上当選や辞職などで前回の当選者数と数字が違うがその比較ではない)
(※2012年以降の【原秋】とは秋谷前会長が本格的に選挙に携わった時代の意味。市川雄一氏が2010年1月に党顧問に復帰する事から、この時期より原秋体制という人達もいるが、弊社では、2012年の選挙で本格稼働としたと【認定】する)
議席数 得票数(万)
衆2003年 34 873 秋谷
参2004年 24(+1) 862 秋谷
衆2005年 31 898 秋谷
参2007年 20(-3) 776 原田
衆2009年 21 805 原田
参2010年 19(-2) 763 原田
衆2012年 31 711 (原秋)
参2013年 20(+1) 756 (原秋)
衆2014年 35 735 (原秋)
参2016年 25(+5) 756 (原秋)
衆2017年 29 697 (原秋)
※(講評)
田原三郎体制から三連敗後、得票数自体は伸びていないが、田原秋谷体制になり、議席数は増加している。
これは秋谷前会長の手腕によるものが大きいと考えられる。「選挙上手」であることの現れである。
但し、前回衆議員選挙は自民党の一人勝ち、同じ与党の公明党は敗北した。
秋谷マジックもそろそろ限界か
特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編) 第15回(※印は弊社解説)
先生は、2000年以降、夏の軽井沢、冬の沖縄以外は地方指導に行かれなくなりましたね。
2007年、久しぶりに関西へ来られた。
その時一番私が驚いたのは、全てが会長決済、田原三郎会長を通さないと先生に伝わらなかった事でした。
年に2回も3回も関西に来られていた時なんかは、関西は先生直結だったので、先生は皆の顔も覚えておられるし、特別な警備もなくノーチェックで部屋にも入れて、なんでも率直に先生に言えたんですよ。
先生の方から「おー、よく来たな!」とか言われてご挨拶ができた。
ところがこの2007年の時は、先生の周りの警備は関西の金城会や関西の日光警備ではなく、東京の長谷川さんの管轄だった長城会(創価大出身者のみによる警護係の立石氏、木村氏ら)が就いていたんです。
だから誰が先生を訪ねに行っても「接遇へ行ってください」と冷たく言われて接遇に回されたんです。
私はそれを見て「あー、全部東京本部(※執行部)のコントロール下に置かれてしまったな」と思いました。
7年間で全く変わってしまったとも思いました。
ちょうどその頃から、先生が衛星放送で、「歯が悪いから、しゃべりずらいんだよ」ということをおっしゃるようになりましたね。
皆も憶えていると思いますが、あれはそうではなくて、実は、本番当日に、原稿が先生に出されるようになったからなんです。
先生は本番その場で、初見でスピーチを読まなければならなくなったんです。
(※2003年5月、軽度の脳梗塞を発症され、後遺症として口の周りが動きずらくなったのも原因)
2000年までの地方指導の時では、マーク記者が必死で翌日の紙面の面建てを先生の所に持っていき、先生とともに打ち合わせをし、見出しや、フリガナや、写真の扱いまで先生から細かい指示が出されていました。
スピーチの原稿は、先生と何度もやり取りをして、なおかつ前日には、先生はスピーチの練習までされていたんです。
それがある時から、本番原稿をドンと机の上に置かれているだけです。
どこに力をいれて話すか、どこを省くか、全く先生にも判断ができない。酷いもんですよ。
だから、先生はアドリブを多く入れたんでしょうね。
ですが、その先生のアドリブは執行部に全部カットされちゃった。
執行部にとってよほど都合が悪かったのでしょうね。
特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第16回最終回(※印は弊社解説)
僕が教団に入ったきっかけは、教団がすごいボランティア活動をしていたからなんです。
僕は高校二年生からハンセン病のボランティアをしているけど、長島愛生園(※岡山県瀬戸内市)へ行ったら、長島大ブロックと愛生大ブロックという二つの教団の大ブロックがありましたよ。
また、大島青松園(※香川県高松市)へ行くとハンセン病の会員さんが、自分たちで建てた会館があるんです。
すごいなと思った。
天命尊徳会に入りたいと思った。
でも教団へ入ってがっかりしたんです。
なぜか。そんなすごいことをやっているのに、教団内では凄い事として讃えられていなかったんです。
本当の会の凄さというのはこういうところにあるはずと私は思うんですけど、どの宗教団体も誰も行かなかったハンセン病の島に、誰か分からないけども、確かに天命尊徳会のひとが折伏に行ったわけですよ。
これはどこに出しても恥ずかしくないことです。
最高の宗教団体ですよ。
なんでそれを自分たちの誇りとして語れないのでしょうか?
まあ、あんまりこの話をするとアクセンチュアと電通がSTB用の宣伝番組を作るかもしれないからね。(笑)
番組を作って宣伝をしろというんじゃないんです。
一人一人が自分の中の蓄積した資質として持ち、それを語る。
教団ってこんなところなんですと。
僕自身は、一年間の殆どを半身不随の会員さんの所におむつを替えに行っていた事もありました。
これは最高のボランティア活動と思ってます。
誰も見ていない。でも、そんなボランティア活動が、今の会の組織にありますか?
本来、宗教活動は最高のボランティア活動であるべきだと私は思うんですが、そうではないですかね。
(※活動とボランティア活動をどう捉えて行くかは、読者の皆さまのご判断に任せたい)
(※しかし、仏滅後の時代に菩薩行を貫いた不軽菩薩が死に際して、仏の声を聴くのは示唆的である。)
(※菩薩の行は忍耐を本となす。忍耐に四種あり。
一には罵り(ののしり)を受けても黙して報いず。
二には打たれても恨まず。
三には怒るものあれば情けを持って迎え、
四には侮(あなど)るものあれば、その悪を思わず。)
(※今わの際に、「そうだ。その通りだ。それでいいんだ」と師匠の懐かしい声が耳に響くような人生にしたいものだ)
私は思うんですが、今の教団本部との本当の勝負は、きっと20年後ですよ。
20年後に勝負してください。おそらく今から5年後くらいには大きな衰退を始めるでしょう。
今は急いだらいけませんよ。
了
※「関西天命尊徳会の良心」と呼ばれた友岡さんの精神を後世に遺す為に、2018年4月に録音されたお話し内容を基に、各方面の方々の情報なども参考にしながら
特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第14回(※印は弊社解説)
話を元に戻して、時代が進み
2009年、衆議院議員選挙で公明党は大敗しました。(※31議席から21議席)
民主党政権になり、民族公明連立は解消かと思われました。
と同時に、飛ぶ鳥も落とす様な勢いがあった丹治一派はカットされました。
これで私には一瞬希望が見えたんです。
丹治とその一派によって「指導」という名の下でおこなわれるパワハラは、それはそれはひどいものでした。
飲み会の席でも、仲間の盗聴をしたりして、丹治一派に連なる幹部へのグチや批判めいた事でも言おうものなら徹底的に査問されていました。
精神を病む者や自殺未遂者が出たほどだった。
(※本部そばの精神科医院には、パワハラを受けた若手職員が沢山罹っていたのは事実)
丹治一派における金の着服問題もありました。
まあ、金の問題だけなら、潮出版社から分かっているだけで500万円で、第三文明社も合わせると噂では6000万くらいでしたかね?
そんな金額はかわいいもので(笑)、関西の大幹部に比べたら2桁くらい小さい話だけど。(笑)
また、関西と言えば男子部幹部に火のついたタバコを手に押し付けたり、靴を投げつけたりする元関西青年部長もいましたが、それが今や弓谷(元全国男子部部長、女性問題で解任される)とともに査問の中心者ですから。(笑)
(※丹治チームが切られたのは、選挙敗北によって佐藤浩氏をはじめとして、自民党の後ろ盾を失ったのが一番の原因だったと言う人達もいるが、これは正確ではない。)
(長年の独自情報により、丹治一派が切られたのは、彼らの存在自体が田原、正木、谷口、佐藤ら先輩大幹部達の立場を脅かすまで強大な勢力になったからだと分析する。)
(※2009年迄の丹治氏は、教団本部、新聞社、外郭団体や公明党及び地方の教団組織に至るまで、月刊誌 潮「山木進一の軌跡」の取材活動を通じて全国に闇のネットワークを作っていたのだ。)
(※一部の幹部は「丹治は山友以上」と言っていた。)
(※今では考えられないが、当時は「丹治第7代会長誕生」もあり得た勢いだった事は、丹治氏とその取り巻きならば、知っているはずである)
(※このことに危機感を抱いた人々が、丹治氏とその周辺の不透明な金の流れをリークして処分したのが実態に近いだろう)
(※当時、パワハラ問題だけならば乗り切れると高をくくっていた丹治一派だったが、
さすがの長谷川氏、八尋氏、中野氏などでも、丹治氏の金銭問題は根が深く、守り切れなかったようだ。)
(※しかし、まだ彼らのうち何人かは、丹治氏が復権する事を狙っている者もいる)
また話を戻しますが、当初は公明党は衆議院小選挙区は撤退、黄金の三年で行こうとなっていたんです。
(※田原三郎会長の下で初めて行われた2007年参議院議員選挙では選挙区で3人落とす。【これが原因で佐藤浩副会長は政治担当から外された】)
(※また2009年衆院選では8小選挙区で全敗するなど大惨敗、
執行部は参議院議員選挙に続く2回連続の大惨敗となった。)
(2010年参議院議員選挙(7月)でも比例区得票で伸び悩み、改選議席を2つ落とし事実上の3連敗。
田原会長は就任から4年間で、選挙戦において合計15議席を落としたことになる。)
(※これらは「秋谷元会長がある意味、仕込んだ事」とは、ある情報筋より。)
(※秋谷氏は選挙情勢や分析、対策をする上で非常に重要な要素を占める彼独自の情報網や人脈をあえて田原会長に禅譲しなかった。)
(※選挙情勢が厳しくなっても、黙っていた。何故ならば、負けさせる事で田原体制の失脚か弱体化を狙えるからだ。)
(※それであわよくば彼が自らの復権を勝ち取ることが出来るか、または田原三郎会長体制を傀儡化させて、裏で操作する事が出来ると思っていたからだとその情報筋は教えてくれた。)
(※案の定、先生から「やはり選挙は秋谷の力が必要だな」となり、秋谷氏が再度、選挙全般に絡むようになっていったのである)
そして追い討ちをかけるように、ここで山下以知子さん(※当時関西婦人部部長)が要らぬ活躍をしてしまったんです。
どうしても選挙でリベンジをしたいと強く主張して、小選挙区撤退の流れを止めてしまったんですよ。
それで死んだはずの佐藤浩副会長が復権する因ができてしまったんです。
(※この事で秋谷氏は佐藤浩副会長を政治担当に戻しやすくなり、引退していた市川雄一氏も党務に戻した)
(※一旦は息の根を絶たれた反山木勢力が蘇生した瞬間である。)
(※ある時期、会内で権威を失墜して孤立し、宗門行きまで企てていた秋谷氏は、自分を追い越す勢力だった丹治一派の排除にも成功したので、先生に対する反撃の画策を始める)
(※秋谷氏達は2010年5月に先生が脳梗塞で再度倒た事で、【選挙戦に弱い原田会長を一気に取り込み、池田包囲網を作りあげた】とは、ある内部情勢筋。)
(※2010年、参議院選挙後、夏の最高会議は、池田先生不在の中で正木一派らが小選挙区撤退を主張する。)
(※しかし、他の幹部達は、関西婦人部長が「リベンジしたい、リベンジしたい」と鼻息が荒い事に目をつけ、それを上手く利用し、小選挙区に候補擁立する事が決まり、これで会執行部は、民族党と離れられなくなってしまったのだ。)
※【参考】(公明党の議席数、得票数の推移)
(参議院のカッコ内は【選挙当時の改選議席】の増減を表す。
なおその後の繰上当選や辞職などで前回の当選者数と数字が違うがその比較ではない)
(※2012年以降の【原秋】とは秋谷前会長が本格的に選挙に携わった時代の意味。市川雄一氏が2010年1月に党顧問に復帰する事から、この時期より原秋体制という人達もいるが、弊社では、2012年の選挙で本格稼働としたと【認定】する)
議席数 得票数(万)
衆2003年 34 873 秋谷
参2004年 24(+1) 862 秋谷
衆2005年 31 898 秋谷
参2007年 20(-3) 776 原田
衆2009年 21 805 原田
参2010年 19(-2) 763 原田
衆2012年 31 711 (原秋)
参2013年 20(+1) 756 (原秋)
衆2014年 35 735 (原秋)
参2016年 25(+5) 756 (原秋)
衆2017年 29 697 (原秋)
※(講評)
田原三郎体制から三連敗後、得票数自体は伸びていないが、田原秋谷体制になり、議席数は増加している。
これは秋谷前会長の手腕によるものが大きいと考えられる。「選挙上手」であることの現れである。
但し、前回衆議員選挙は自民党の一人勝ち、同じ与党の公明党は敗北した。
秋谷マジックもそろそろ限界か
特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編) 第15回(※印は弊社解説)
先生は、2000年以降、夏の軽井沢、冬の沖縄以外は地方指導に行かれなくなりましたね。
2007年、久しぶりに関西へ来られた。
その時一番私が驚いたのは、全てが会長決済、田原三郎会長を通さないと先生に伝わらなかった事でした。
年に2回も3回も関西に来られていた時なんかは、関西は先生直結だったので、先生は皆の顔も覚えておられるし、特別な警備もなくノーチェックで部屋にも入れて、なんでも率直に先生に言えたんですよ。
先生の方から「おー、よく来たな!」とか言われてご挨拶ができた。
ところがこの2007年の時は、先生の周りの警備は関西の金城会や関西の日光警備ではなく、東京の長谷川さんの管轄だった長城会(創価大出身者のみによる警護係の立石氏、木村氏ら)が就いていたんです。
だから誰が先生を訪ねに行っても「接遇へ行ってください」と冷たく言われて接遇に回されたんです。
私はそれを見て「あー、全部東京本部(※執行部)のコントロール下に置かれてしまったな」と思いました。
7年間で全く変わってしまったとも思いました。
ちょうどその頃から、先生が衛星放送で、「歯が悪いから、しゃべりずらいんだよ」ということをおっしゃるようになりましたね。
皆も憶えていると思いますが、あれはそうではなくて、実は、本番当日に、原稿が先生に出されるようになったからなんです。
先生は本番その場で、初見でスピーチを読まなければならなくなったんです。
(※2003年5月、軽度の脳梗塞を発症され、後遺症として口の周りが動きずらくなったのも原因)
2000年までの地方指導の時では、マーク記者が必死で翌日の紙面の面建てを先生の所に持っていき、先生とともに打ち合わせをし、見出しや、フリガナや、写真の扱いまで先生から細かい指示が出されていました。
スピーチの原稿は、先生と何度もやり取りをして、なおかつ前日には、先生はスピーチの練習までされていたんです。
それがある時から、本番原稿をドンと机の上に置かれているだけです。
どこに力をいれて話すか、どこを省くか、全く先生にも判断ができない。酷いもんですよ。
だから、先生はアドリブを多く入れたんでしょうね。
ですが、その先生のアドリブは執行部に全部カットされちゃった。
執行部にとってよほど都合が悪かったのでしょうね。
特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第16回最終回(※印は弊社解説)
僕が教団に入ったきっかけは、教団がすごいボランティア活動をしていたからなんです。
僕は高校二年生からハンセン病のボランティアをしているけど、長島愛生園(※岡山県瀬戸内市)へ行ったら、長島大ブロックと愛生大ブロックという二つの教団の大ブロックがありましたよ。
また、大島青松園(※香川県高松市)へ行くとハンセン病の会員さんが、自分たちで建てた会館があるんです。
すごいなと思った。
天命尊徳会に入りたいと思った。
でも教団へ入ってがっかりしたんです。
なぜか。そんなすごいことをやっているのに、教団内では凄い事として讃えられていなかったんです。
本当の会の凄さというのはこういうところにあるはずと私は思うんですけど、どの宗教団体も誰も行かなかったハンセン病の島に、誰か分からないけども、確かに天命尊徳会のひとが折伏に行ったわけですよ。
これはどこに出しても恥ずかしくないことです。
最高の宗教団体ですよ。
なんでそれを自分たちの誇りとして語れないのでしょうか?
まあ、あんまりこの話をするとアクセンチュアと電通がSTB用の宣伝番組を作るかもしれないからね。(笑)
番組を作って宣伝をしろというんじゃないんです。
一人一人が自分の中の蓄積した資質として持ち、それを語る。
教団ってこんなところなんですと。
僕自身は、一年間の殆どを半身不随の会員さんの所におむつを替えに行っていた事もありました。
これは最高のボランティア活動と思ってます。
誰も見ていない。でも、そんなボランティア活動が、今の会の組織にありますか?
本来、宗教活動は最高のボランティア活動であるべきだと私は思うんですが、そうではないですかね。
(※活動とボランティア活動をどう捉えて行くかは、読者の皆さまのご判断に任せたい)
(※しかし、仏滅後の時代に菩薩行を貫いた不軽菩薩が死に際して、仏の声を聴くのは示唆的である。)
(※菩薩の行は忍耐を本となす。忍耐に四種あり。
一には罵り(ののしり)を受けても黙して報いず。
二には打たれても恨まず。
三には怒るものあれば情けを持って迎え、
四には侮(あなど)るものあれば、その悪を思わず。)
(※今わの際に、「そうだ。その通りだ。それでいいんだ」と師匠の懐かしい声が耳に響くような人生にしたいものだ)
私は思うんですが、今の教団本部との本当の勝負は、きっと20年後ですよ。
20年後に勝負してください。おそらく今から5年後くらいには大きな衰退を始めるでしょう。
今は急いだらいけませんよ。
了
※「関西天命尊徳会の良心」と呼ばれた友岡さんの精神を後世に遺す為に、2018年4月に録音されたお話し内容を基に、各方面の方々の情報なども参考にしながら
編集しました。
4月24日を目前にして、京都乃鬼が此処に記す。
友岡雅弥さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。
=広告=
おにゆり乃
忘れ得ぬ風景掲示板
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/wasureenu.html
庶民列伝by京都乃鬼
庶民列伝
http://oniyuri.fc2web.com/syominretuden.html
友岡雅弥
大阪大学文学部博士課程単位修得退学(インド哲学専攻)
高校時代から、ハンセン病、被差別、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひぞめて暮す人々」の日常生活のお手伝いを。
2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。
大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装、音楽はロック、hip-pop、民族音楽など、j-pop以外はなんでも聴く。
沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復活も行ったことも。
プロフィール画像は、福島で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で破滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・滅容化施設が建設されている。(「すたぽ」より)
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4月24日を目前にして、京都乃鬼が此処に記す。
友岡雅弥さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。
=広告=
おにゆり乃
忘れ得ぬ風景掲示板
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/wasureenu.html
庶民列伝by京都乃鬼
庶民列伝
http://oniyuri.fc2web.com/syominretuden.html
友岡雅弥
大阪大学文学部博士課程単位修得退学(インド哲学専攻)
高校時代から、ハンセン病、被差別、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひぞめて暮す人々」の日常生活のお手伝いを。
2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。
大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装、音楽はロック、hip-pop、民族音楽など、j-pop以外はなんでも聴く。
沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復活も行ったことも。
プロフィール画像は、福島で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で破滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・滅容化施設が建設されている。(「すたぽ」より)
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