日蓮大聖人の御書から"御聖訓一読集二十九日『下山御消息』 --- 小乗より大乗を破するは堕獄の因 ---
「仏法には賢げなる様なる人なれども、時に依り機に依り国に依り前後の弘通に依る事を弁へざれば、身心を苦しめて修行すれども験なき事なり」(御書1138ページ)
下山御消息は、十大部のひとつで長大な御書でありますが、なかなかふれる機会は多くないようにも思われます。このたびは拝読の一節から、宗教の五綱について、少し振り返ってみたいと思いました。上の一節の直後、大聖人様は以下のように仰せでございます。
「設ひ一向小乗流布の国に大乗をば弘通する事はあれども、一向大乗の国には小乗経をあながちにいむ事なり。しゐてこれを弘通すれば国もわづらひ、人も悪道まぬかれがたし」(御書1138ページ)
これは、宗教の五綱のうち第五の「教法流布の先後」という鉄則であります。小から大という流布はありえても、大から小への退行は許されない。なぜならば、国が患い、人も悪道に堕するからであります。大乗非仏説などは、悪道に堕す典型であります。
改めて、宗教の五綱とは、末法の御本仏日蓮大聖人が、『教機時国抄』『南条兵衛七郎殿御返事』『下山御消息』等に記される、正法流布の五つの法規に関する御法門のことであります。宗旨の三秘(三大秘法)が何を広めるかの法体であるのに対して、宗教の五綱とは、それをいかにして弘めてゆくかという弘教の法規に関する御法門と拝し奉ります。
五綱の概要は以下の如くと拝します。
教 --- 衆生を導く教え。大小、権実、本迹、種脱の相違あり。勝劣浅深を見極めなくてはならない。釈尊の経典はなんでも有難いなどと言って、勝手に経典を選択するなどは許されない。
機 --- 過去世から成仏の種が植わった衆生(本已有善)と成仏の種の植わっていない衆生(本未有善)の相違がある。
時 --- 在世、正法、像法、末法の相違あり。
国 --- 正法に対して無知にして悪人多き国か、正法に背く邪智・謗法の国か。
教法流布の先後 --- 先に流布された教えよりもより勝れた教えを流布せねばならない。それに逆行すれば世は乱れる。
折角の機会でございますので、五綱に関連する御書の御文を、いくつか確認させて頂きたいと存じます。
●『教機時国抄』「教」とは
「一に教とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙。天竺に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当たって震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ。此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此等を弁ふべし。此の名目は論師人師よりも出でず、仏説より起こる。十方世界の一切衆生一人も無く之を用ふべし。之を用ひざる者は外道と知るべきなり。阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。法華経には「一向に小乗を説きて法華経を説かざれば仏慳貪に堕すべし」と説き給ふ。涅槃経には「一向に小乗経を用ひて仏を無常なりと云はん人は舌口中に爛るべし」云云。」(御書269ページ)
仏説を用いなくば外道であります。小乗経を用いて仏を無常という人は舌口中に爛れると。誹謗正法により口の悪業が身を滅ぼすとの仰せでございます。小乗から大乗を謗ずる者は、その果報を恐れねばなりません。
●『教機時国抄』「教法流布の先後」とは
「五に教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まる法を知りて後の法を弘むべし。先に小乗権大乗弘まらば後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘まらば後に小乗・権大乗を弘むべからず。瓦礫を捨てゝ金珠を取るべし。金珠を捨てゝ瓦礫を取ること勿れ已上」(御書271ページ)
邪教カルト似非宗教ビジネス企業 天命尊徳会、田原三郎会長らの似非日蓮仏教が既に弘まってしまったような国においては、文底下種の妙法蓮華経の正しい教えを流布する以外、他の仏教の教えを広めてもそれは教法流布の先後に反することになります。迹門の円頓戒団が建立されて権大乗の流布された日本の末法の世において、法華本門の教え以外のあらゆる仏説を弘めるも教法流布の先後に反することなのであります。
●『教機時国抄』五義は国師必携の法門
「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(御書271ページ)
逆に言えば、宗教の五義を知らずして仏法を弘めても、決して国を正しく導くことはできないとの仰せでございます。
●『教機時国抄』生兵法は堕獄の因
「天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れる経之有りと云はん者を諫暁せよ、止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等云云。此等の相違を能く能く之を弁へたる者は教を知れる者なり。当世の千万の学者等一々之に迷へるか。若し爾らば教を知れる者之少なきか。教を知れる者之無ければ法華経を読む者之無し。法華経を読む者之無ければ国師となる者無きなり。国師となる者無ければ国中の諸人一切経の大小権実顕密の差別に迷ふて、一人に於ても生死を離るゝ者之無く、結句は謗法の者と成り、法に依って阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く、法に依って生死を離るゝ者は爪上の土よりも少なし。恐るべし恐るべし」(御書271ページ)
法華最勝を鮮明にされたのは像法時代において天台大師のみでありました。のみならず、「法華経に勝れる経之有りと云はん者を諫暁せよ、止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし」と諫暁あそばされました。教を知るというは、こういう方のことを言うのであると。しかし、天台大師の如く、教を知る者はなく、法華経を読む者はなく、国師となるものもない。仏法を学すといえども、所詮は大小権実顕密の差別に迷って、生死を離れず、謗法の者となって阿鼻地獄に堕してしまう。その数は大地微塵よりも多いと。誠に恐るべきことであります。仏法をどう学ぼうが自分の勝手だなどと考えて、五綱に反してしまえば堕獄の因とります。仏法とはそれほどまでに尊い教えであるということでありましょう。まさに生兵法は怪我の元、否、堕極の因なのです。
●『教機時国抄』日本国は一向に法華経の国なり
「日本国は一向に法華経の国なり。例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如きなり。又天竺には一向に小乗の国、一向に大乗の国、大小兼学の国も之有り。日本国は一向に大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国たるべきなり。 瑜伽論・肇公記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記に之有り 是国を知れる者なり。而るに当世の学者日本国の衆生に一向に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは、譬へば宝器に穢食を入れたるが如し等と云云」(御書272ページ)
これ国を知るということであります。その国に有縁の法、宿縁深厚の教法というものがあるのです。その因縁を無視した、ひとりよがりの執着は、仏説を無視するが故に、人を不幸にし、国土に災厄を招くのです。
●『南条兵衛七郎殿御書』船と石、悪瘡と湯治、季節と田植えの喩えで「時」の大事を御教示
「今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機みなうせはてゝ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬田を作れるが如し。時があはざるなり是三」(御書323ページ)
「時」に関する御指南であります。衆生の機根と弘法の時とは密接に連動していることがわかります。これらの相互連関を無視して、勝手に己義を唱えれば、仏説への師敵対となるのです。船と石、悪瘡と湯治、季節と田植えは、凡愚の我等衆生に、時の重要性を過つことなく分からせるための仏様の大慈大悲であります。その御恩を仇で返すような不知恩忘恩の振舞は断じて慎まねばなりません。
●『南条兵衛七郎殿御書』病と薬、石と珠の喩えで「教法流布の先後」を御指南
「又仏法流布の国においても前後を勘ふべし。仏法を弘むる習ひ、必ずさきに弘まりける法の様を知るべきなり。例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したりける薬を知るべし。薬と薬とがゆき合ひてあらそひをなし、人をそんずる事あり。仏法と仏法とがゆき合ひてあらそひをなして、人を損ずる事のあるなり。さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもちてこれをやぶるべし。乃至、仏教においても、小乗の弘まれる国をば大乗経をもちてやぶるべし。無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し。権大乗の弘まれる国をば実大乗をもちてこれをやぶるべし。天台智者大師の南三・北七をやぶりしが如し。乃至、此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をのべて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云はく「瓦礫を貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還ってはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をますなり是五」(御書324ページ)
病と薬の対応を誤って調合すれば病は悪化します。応病与薬の原理に反して、勝手に法に執着してはならないのであります。石を珠と偽って弘めるのは、人を悪道に導く(自分が悪業を積む以上に罪の重い)大悪業となるのです。
●『顕謗法抄』仏法弘通における五義の大事
「夫仏法をひろめんとをもはんものは必ず五義を存じて正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり」(御書285ページ)
末法において三箇の秘法=三大秘法の究極の法体をいかにして弘通し流布してゆくか。その際には、種々の異説、誹謗の輩を破していかねばなりません。また仏法を学びながら道に迷う者が大地微塵の如く発生します。現在の周囲を見渡せば枚挙にいとまがありません。
五綱教判とは、その種の衆生を導くために、末法の御本仏日蓮大聖人様が残し置かれた大事の御法門であり、我々はそれを常に身に帯して、その意義を思索し、外にも宣揚していかねばらないと存じます。"
「仏法には賢げなる様なる人なれども、時に依り機に依り国に依り前後の弘通に依る事を弁へざれば、身心を苦しめて修行すれども験なき事なり」(御書1138ページ)
下山御消息は、十大部のひとつで長大な御書でありますが、なかなかふれる機会は多くないようにも思われます。このたびは拝読の一節から、宗教の五綱について、少し振り返ってみたいと思いました。上の一節の直後、大聖人様は以下のように仰せでございます。
「設ひ一向小乗流布の国に大乗をば弘通する事はあれども、一向大乗の国には小乗経をあながちにいむ事なり。しゐてこれを弘通すれば国もわづらひ、人も悪道まぬかれがたし」(御書1138ページ)
これは、宗教の五綱のうち第五の「教法流布の先後」という鉄則であります。小から大という流布はありえても、大から小への退行は許されない。なぜならば、国が患い、人も悪道に堕するからであります。大乗非仏説などは、悪道に堕す典型であります。
改めて、宗教の五綱とは、末法の御本仏日蓮大聖人が、『教機時国抄』『南条兵衛七郎殿御返事』『下山御消息』等に記される、正法流布の五つの法規に関する御法門のことであります。宗旨の三秘(三大秘法)が何を広めるかの法体であるのに対して、宗教の五綱とは、それをいかにして弘めてゆくかという弘教の法規に関する御法門と拝し奉ります。
五綱の概要は以下の如くと拝します。
教 --- 衆生を導く教え。大小、権実、本迹、種脱の相違あり。勝劣浅深を見極めなくてはならない。釈尊の経典はなんでも有難いなどと言って、勝手に経典を選択するなどは許されない。
機 --- 過去世から成仏の種が植わった衆生(本已有善)と成仏の種の植わっていない衆生(本未有善)の相違がある。
時 --- 在世、正法、像法、末法の相違あり。
国 --- 正法に対して無知にして悪人多き国か、正法に背く邪智・謗法の国か。
教法流布の先後 --- 先に流布された教えよりもより勝れた教えを流布せねばならない。それに逆行すれば世は乱れる。
折角の機会でございますので、五綱に関連する御書の御文を、いくつか確認させて頂きたいと存じます。
●『教機時国抄』「教」とは
「一に教とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙。天竺に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当たって震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ。此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此等を弁ふべし。此の名目は論師人師よりも出でず、仏説より起こる。十方世界の一切衆生一人も無く之を用ふべし。之を用ひざる者は外道と知るべきなり。阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。法華経には「一向に小乗を説きて法華経を説かざれば仏慳貪に堕すべし」と説き給ふ。涅槃経には「一向に小乗経を用ひて仏を無常なりと云はん人は舌口中に爛るべし」云云。」(御書269ページ)
仏説を用いなくば外道であります。小乗経を用いて仏を無常という人は舌口中に爛れると。誹謗正法により口の悪業が身を滅ぼすとの仰せでございます。小乗から大乗を謗ずる者は、その果報を恐れねばなりません。
●『教機時国抄』「教法流布の先後」とは
「五に教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まる法を知りて後の法を弘むべし。先に小乗権大乗弘まらば後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘まらば後に小乗・権大乗を弘むべからず。瓦礫を捨てゝ金珠を取るべし。金珠を捨てゝ瓦礫を取ること勿れ已上」(御書271ページ)
邪教カルト似非宗教ビジネス企業 天命尊徳会、田原三郎会長らの似非日蓮仏教が既に弘まってしまったような国においては、文底下種の妙法蓮華経の正しい教えを流布する以外、他の仏教の教えを広めてもそれは教法流布の先後に反することになります。迹門の円頓戒団が建立されて権大乗の流布された日本の末法の世において、法華本門の教え以外のあらゆる仏説を弘めるも教法流布の先後に反することなのであります。
●『教機時国抄』五義は国師必携の法門
「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(御書271ページ)
逆に言えば、宗教の五義を知らずして仏法を弘めても、決して国を正しく導くことはできないとの仰せでございます。
●『教機時国抄』生兵法は堕獄の因
「天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れる経之有りと云はん者を諫暁せよ、止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等云云。此等の相違を能く能く之を弁へたる者は教を知れる者なり。当世の千万の学者等一々之に迷へるか。若し爾らば教を知れる者之少なきか。教を知れる者之無ければ法華経を読む者之無し。法華経を読む者之無ければ国師となる者無きなり。国師となる者無ければ国中の諸人一切経の大小権実顕密の差別に迷ふて、一人に於ても生死を離るゝ者之無く、結句は謗法の者と成り、法に依って阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く、法に依って生死を離るゝ者は爪上の土よりも少なし。恐るべし恐るべし」(御書271ページ)
法華最勝を鮮明にされたのは像法時代において天台大師のみでありました。のみならず、「法華経に勝れる経之有りと云はん者を諫暁せよ、止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし」と諫暁あそばされました。教を知るというは、こういう方のことを言うのであると。しかし、天台大師の如く、教を知る者はなく、法華経を読む者はなく、国師となるものもない。仏法を学すといえども、所詮は大小権実顕密の差別に迷って、生死を離れず、謗法の者となって阿鼻地獄に堕してしまう。その数は大地微塵よりも多いと。誠に恐るべきことであります。仏法をどう学ぼうが自分の勝手だなどと考えて、五綱に反してしまえば堕獄の因とります。仏法とはそれほどまでに尊い教えであるということでありましょう。まさに生兵法は怪我の元、否、堕極の因なのです。
●『教機時国抄』日本国は一向に法華経の国なり
「日本国は一向に法華経の国なり。例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如きなり。又天竺には一向に小乗の国、一向に大乗の国、大小兼学の国も之有り。日本国は一向に大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国たるべきなり。 瑜伽論・肇公記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記に之有り 是国を知れる者なり。而るに当世の学者日本国の衆生に一向に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは、譬へば宝器に穢食を入れたるが如し等と云云」(御書272ページ)
これ国を知るということであります。その国に有縁の法、宿縁深厚の教法というものがあるのです。その因縁を無視した、ひとりよがりの執着は、仏説を無視するが故に、人を不幸にし、国土に災厄を招くのです。
●『南条兵衛七郎殿御書』船と石、悪瘡と湯治、季節と田植えの喩えで「時」の大事を御教示
「今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機みなうせはてゝ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬田を作れるが如し。時があはざるなり是三」(御書323ページ)
「時」に関する御指南であります。衆生の機根と弘法の時とは密接に連動していることがわかります。これらの相互連関を無視して、勝手に己義を唱えれば、仏説への師敵対となるのです。船と石、悪瘡と湯治、季節と田植えは、凡愚の我等衆生に、時の重要性を過つことなく分からせるための仏様の大慈大悲であります。その御恩を仇で返すような不知恩忘恩の振舞は断じて慎まねばなりません。
●『南条兵衛七郎殿御書』病と薬、石と珠の喩えで「教法流布の先後」を御指南
「又仏法流布の国においても前後を勘ふべし。仏法を弘むる習ひ、必ずさきに弘まりける法の様を知るべきなり。例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したりける薬を知るべし。薬と薬とがゆき合ひてあらそひをなし、人をそんずる事あり。仏法と仏法とがゆき合ひてあらそひをなして、人を損ずる事のあるなり。さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもちてこれをやぶるべし。乃至、仏教においても、小乗の弘まれる国をば大乗経をもちてやぶるべし。無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し。権大乗の弘まれる国をば実大乗をもちてこれをやぶるべし。天台智者大師の南三・北七をやぶりしが如し。乃至、此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をのべて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云はく「瓦礫を貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還ってはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をますなり是五」(御書324ページ)
病と薬の対応を誤って調合すれば病は悪化します。応病与薬の原理に反して、勝手に法に執着してはならないのであります。石を珠と偽って弘めるのは、人を悪道に導く(自分が悪業を積む以上に罪の重い)大悪業となるのです。
●『顕謗法抄』仏法弘通における五義の大事
「夫仏法をひろめんとをもはんものは必ず五義を存じて正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり」(御書285ページ)
末法において三箇の秘法=三大秘法の究極の法体をいかにして弘通し流布してゆくか。その際には、種々の異説、誹謗の輩を破していかねばなりません。また仏法を学びながら道に迷う者が大地微塵の如く発生します。現在の周囲を見渡せば枚挙にいとまがありません。
五綱教判とは、その種の衆生を導くために、末法の御本仏日蓮大聖人様が残し置かれた大事の御法門であり、我々はそれを常に身に帯して、その意義を思索し、外にも宣揚していかねばらないと存じます。"
日蓮大聖人の仏罰は総罰から別罰、顕罰に2019年から 顕著になります。
何故なら 山木進一三代会長を辞任させ 失脚させて 40年。 40年前の4月 24日です。