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天命尊徳会と創価原田教団の不幸から 不幸人の未来予測

2019-06-23 23:34:55 | 日記
"そこまで気づきながら、自分の立場や、長年にわたって学会で生きてきたことなどへの執着を捨てきれなかった私は、学会から抜ける決断がつかず、苦しみました。
私は立場上、学会員の葬儀において、幾度も葬儀委員長を務めてきた中で"成仏の相"には、一度もお目にかかれなかったことに違和感を感じました。
私の見聞きするだけでも、家族が病人だらけだったり、重機に挟まれて大ケガをするという事故を繰り返している人、手術が成功したと言っていた直後に急死してしまった人。
そういう話があとを絶ちません。
ところが、学会ではそういう話をひた隠しにし、隠しきれないとなると、「本当はもっとひどくなるところを、この程度のケガで済んだ」などと、あたかも功徳であるかのような話にすり替えているのです。

平成17年12月9日付の聖教新聞(地方版)に、「友が語る私の原点」と題する記事が掲載されている。
同記事は、「困難にも打ち勝つ不屈の人には信頼と共感が集まる。原田稔会長は『"原点"を忘れない人は強い』と語っている。広布の道を力強く歩み続ける友に"わが原点"を語ってもらった」として、2名の熱心な活動家のコメントを紹介しているのだが、そのうちの1人は首つり自殺をしている。

平成19年2月4日には、東京都の三宅島で、公明党・三宅村議の浅沼功一郎氏が、石碑の下敷きになり死亡した。

平成18年1月28日には、静岡県の創価学会員・Tさん宅が全焼し、焼け跡からTさんの妻の遺体が発見された。

新潟県の創価学会員・Tさんも、平成16年末に交通事故に遭い、両足切断という大怪我を負って、平成17年8月に亡くなりました。

横浜市のSさんは、平成17年6月、母親によって創価原田邪教に洗脳され、38歳で自殺しました。

平成17年4月には、福島県いわき市内の磐越東線の踏切で、いわき発郡山行きの普通列車と乗用車が衝突する事故が起き、乗用車を運転していた創価学会員・Oさんは死亡。助手席に乗っていた妻も意識不明の重体となりました。

平成17年2月には、土浦市に住む創価学会員・Sさんが、自転車で道路を横断中、車にはねられて死亡しました。

平成16年8月には、長野県の創価学会員一家3人が焼死する痛ましい事件が発生しました。外部から侵入した形跡はなく、火災現場からガソリンの入った容器が複数発見されており、ダイニングにはガソリンがまかれた跡があることから、警察では無理心中したものとみています。

平成16年6月には、千葉県館山市で、足の不自由な創価学会員の女性が、海岸沿いに停めた車の中に1時間も放置され、熱中症で死亡するという痛ましい事件が発生しました。これは、無職の息子が、母親を車内に残したまま釣りに興じている間に熱中症で死亡させてしまったものです。

平成15年9月には、岩手県北上市の創価学会北上会館近くの市道で、横断歩道を渡っていた創価学会員・Kさんが、同じ市内に住む創価学会員・Oさんの車にはねられ、意識不明の重体となりました。

富山県の創価学会員・Yさん一家は、家族全員が熱心な学会員で、Yさんの家は大きく、学会の会合にも使用されていました。平成14年9月、Yさんのことが、聖教新聞に大々的に載りました。それは、創価学会の中で大功徳を受けた、という体験談記事でした。ところがYさんは、聖教新聞に取り上げられた翌日、仕事先でハシゴから落ち、数日間の治療の甲斐もなく亡くなってしまったのです。

平成13年9月には、福岡県京都郡で建築業を営む創価学会員・上田文昌さんが、自宅で息子に殴り殺されました。

平成13年7月には、中国自動車道で、女子中学生(創価学会員・Kさん)が手錠をはめられたまま死亡するというショッキングな事件が発生しました。死因は、頭部と足にできた大きな傷による失血死で、Kさんは走行中の自動車から高速道路上に出た後、別の車両にひかれたのが目撃されています。

平成12年12月には、愛知県武豊町に住む創価学会員・T(21)と、妻(21)が、保護責任者遺棄致死容疑で逮捕されました。2人は、自分たちの長女である依織ちゃん(3)を段ボール箱に入れて放置し、食事を与えず餓死させたもの。おむつもほとんど交換されていなかったといいます。

埼玉県の創価学会員・Yさんは、平成12年、昼時に火事を出して、家は丸焼け。ご主人は焼死し、奥さんは、大やけどで入院してしまいました。その奥さんは、退院後、「主人は家のことができない人だから、私が死ぬより主人が死んでよかった」と平然と言い切りました。

平成11年5月14日には、東京都立川市の立川平和会館で、創価学会職員の田代美恵子(女子部副本部長・当時)が、聖教新聞社職員のKさん(支部長・当時)を包丁で刺し、田代容疑者は現行犯逮捕されました。

平成10年11月には、東京・目黒区の創価学会員(支部婦人部長)のHさんが、娘の夫に襲われ、Hさんは逃げようとしてベランダから転落し死亡。娘さんも意識不明の重体になってしまいました。

新潟県三条市で創価学会の幹部を務めていたKさんは、平成10年4月頃からノイローゼ気味になり、同年11月、眠っていた妻の首を包丁で斬りつけて殺害しようとしました。妻は、助けを求めて外へ出ていったのですが、その間にKさんは、家に灯油をまいて焼身自殺を図り、自宅は全焼。その焼け跡から発見されたKさんの遺体は炭化していました。

平成8年10月には、新潟県柏崎市安田のJR信越本線安田駅付近で、貨物列車が脱線事故を起こし、信越本線は翌日の夕方まで不通に。これにより、本来、信越本線を走るべき青森発・大阪行きの寝台特急「日本海2号」が、信越本線と並行して走る越後線を使って迂回運転したところ、

翌日未明、この特急列車が酒に酔って線路に寝ていた創価学会員のAさんをはね、Aさんは即死してしまいました。

平成8年9月には、東京・墨田区の創価学会員の家が夜中に火事になり、5人家族のうち、祖父と妻、中学生の長女が焼死してしまいました。

平成8年6月には、東京・板橋区で、創価学会員の夫が、奥さんを包丁で刺し殺し、自らも後追い自殺をするという傷ましい事件が起きました。夫妻共に熱心な活動家であったといいます。

平成9年2月には、宮城県で一家4人が焼死する火災事故がありました。犠牲になったのは、創価学会員のUさん一家でした。

平成7年12月には、福岡県の創価学会員・Kさんの中学3年になる娘さんが、17歳の少年に包丁で刺されて死亡してしまいました。

平成7年4月28日には、福岡県の創価学会員・Sさんが、聖教新聞の配達中に、大型トラックにはねられて死亡してしまいました。

平成5年4月には、函館の創価学会員一家が、池田平和会館に行く途中、車同士が衝突し、夫婦は脳挫傷で死亡。運転していた息子さんも重傷を負ってしまいました。

平成4年4月には、福井県の圏書記長を務めていた創価学会員・Tさんが、池田文化会館からの帰り道、大型トラックと衝突。事故に巻き込まれた他の人々は軽傷で済んだのに、Tさん一人だけが頭の骨を折って死亡してしまいました。

平成4年2月には、長崎県の創価学会員(支部指導員)Bさんが、創価学会の会館のトイレの中で倒れて死亡しました。その葬儀(学会葬)で出棺の際、棺を降ろすリフトのワイヤーが切れ、自動停止装置も作動せず、リフトに乗っていた創価学会員6名が、棺と共に3階から落下し、重傷を負う惨事となりました。

平成3年12月には、創価学会員・Tさんが、不倫相手である男性の運転で走行中、大型トラックと正面衝突し、車は大型トラックの前輪に食い込んで大破。

2人とも死亡しました。解体作業は何十時間もかかり、遺体の損傷は激しく、Tさんは上半身、相手の男性は下半身しか見つからないほどの大事故でした。

平成3年7月、神奈川県の創価学会員(支部長)Hさんは、新橋駅ホームで、乗車しようと荷物を持ち上げた時に足元がふらつき、線路に転落。ちょうど入ってきた東海道線の通勤快速にはねられて死亡してしまいました。"

山木進一会長が三回も足を 運んだ!万年救済大御本尊様

2019-06-14 00:36:26 | 日記
"身延草庵の本尊一考 3-1
3 万年救護本尊
【 「大本尊」「上行菩薩」と書かれた万年救護本尊 】
讃文に「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」と認め、特に「大本尊」「上行菩薩」と書いたところから、他とは異なる意を以て図顕したであろう通称・万年救護本尊(曼荼羅16)には授与書きは無い。この曼荼羅は「文永十一年太才甲戌十二月 日」に、「甲斐国波木井郷於 山中図之」と身延山において書き顕したものだ。寸法は「106.0×56.7㎝ 3枚継ぎ」で、私も実物を拝したが大ぶりなものといえるだろう。現在は富士門流の保田妙本寺に所蔵されており、日蓮の入滅前のことと考えるが、いずれかの時点で日興の手元に移り、それが日目へ、次に日郷の門流へと継承されることになった。



                      万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
                      万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
【 万年救護本尊に関する伝承と認識 】
この曼荼羅について、大石寺17代の日精は「富士門家中見聞上・日興」(富士宗学要集5巻P154)にて、「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」と、弘安2年中に日蓮が日興に授与したとしている。これは、大石寺所蔵の通称・本門戒壇之御本尊(板本尊)が弘安2年10月12日、日蓮自身の手による図顕造立とされていることから関連・発生した伝承ではないだろうか。「身延の草庵で万年救護本尊を奉掲していたが板本尊を造立、安置したので、それまでの万年救護本尊を日興に授与した」ということになり、板本尊日蓮直造説の補強材料となるからだ。



万年救護本尊に関して「御本尊集」解説では、

此の御本尊もまた極めて重要なる御内観を示したまえるもので、山川智応博士は「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」(「日蓮聖人研究」第二巻四百七頁取意)としている。すなわちその特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうとともに、本国土妙の代表たる天照・八幡二神の本地をも示されたのであって、かくの如き儀相は他に全く拝することができない。

なお、御讃文中「大本尊」と称されたのもこの一例のみであって、他は総べて「大漫荼羅」或いは「大曼陀羅」を用いられている。

と評している。



大黒喜道氏は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(興風22号P276)にて、文永12年3月10日の「曾谷入道殿許御書」(真蹟)は3~4箇月かけて完成したと考えられ、それは万年救護本尊を顕した文永11年12月と重なる同時期の作業であり、「曾谷入道殿許御書」の文中、「今親(まのあた)り此の国を見聞(けんもん)するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救(ふぐ)せん。大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。」(定P900、大黒氏は他の文も引用されている)との「一大秘法」とは、万年救護本尊を直接指し示した言葉である(趣意)、と考察されている。大黒氏は論考「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼陀羅本尊のことー」(佐渡日蓮研究第三号P97、2010  佐渡日蓮研究会)でも、同様の見解を詳細に検討、提示されている。



万年救護本尊が日蓮のいう「一大秘法」か、どうかについて、私には『断定』するだけの力量はないが、やはり注意すべきは「特一無比」な讃文で、文永の役の後、程なくして顕されたこの曼荼羅の扱いについては日蓮自身の思いとして、他とは異なるものがあったと考えられるのである。



【 身延草庵での曼荼羅・万年救護本尊 】
    曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵    曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵
身延の草庵での曼荼羅を考える時、まず授与書きの有るものは除かれるのだが、やはり注目すべきは文永11年12月の万年救護本尊だろう。讃文では曼荼羅は即「大本尊」であると明確にし、自身は「上行菩薩」であることを暗示しており、これは他の曼荼羅讃文には見られないものである。このような「自身の境地を含ませ、かつ大本尊」とした曼荼羅=本尊であれば、それは拝する弟子檀越を通して世に向かって宣言をしたものともいえ、身延の草庵に奉掲されていたのではないかと思うのだ。逆に、このような「自らの内観世界を明かした宣言ともいうべき讃文」を記した曼荼羅を、明らかにせず秘してしまう、隠す、しまっておく等は考えづらいものがある。やはり、「釈尊より滅後末法の弘通を託された上行菩薩は日蓮である、との直接的な表現は避けながらも、拝する門下をして、『後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣する、というその大本尊を顕した日蓮こそ上行菩薩に他ならない』と信解せしめる」格別の讃文からも、授与書きが無いことからも、また、文永の役という未曽有の国難の後というタイミングからも、万年救護本尊が身延の草庵に奉掲されていたのではないだろうか。前述したように、奉掲の態様は様々であったとは思うが。



【 最後の時にあたり日蓮の真実を残した万年救護本尊 】
この万年救護本尊については、蒙古襲来と密接に関連していると思う。

文永11年10月5日に対馬が元軍に襲われ、10月14には壱岐に侵攻。10月20日には筑前国に上陸されて守備の鎮西の御家人と激戦を展開。日本勢は防戦しつつ太宰府に退いたが、夜半のうちに元軍は撤退してしまった。短期間で思わぬ一応の決着がついたといえるが、かねてから他国侵逼難を説いて亡国の危機を訴えてきた日蓮にとっては、次は本土に攻め込まれて大量殺戮が行われる、多くの人が生け捕りになる、そして日本は滅亡するという事態が眼前となったのであり、彼の書状にはその緊張感が満ち溢れている。



文永11年11月11日の「上野殿御返事(与南條氏書)」(日興本・大石寺蔵)には「大蒙古国よりよ(寄)せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(定P836)とある。同じく11月20日の「曾谷入道殿御書」(真蹟断片)にも、「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで(既)にあ(合)ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」(定P838)と、日蓮の視界には本土を蹂躙する蒙古軍の姿があったようだ。



「法華取要抄」の草案である「取要抄」には、「慈覚等忘本師実義付順唐師権宗人也。智証大師少似伝教大師。」と台密・円仁批判が書かれるも、文永11年5月24日の「法華取要抄」では公にされなかった。続いて、かねてから主張していた他国侵逼難が蒙古襲来として現実化するに及んで、11月20日の「曾谷入道殿御書」で「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。」(定P838)と、明確に台密・円仁への批判を展開する。この時の日蓮の思考は「日本が亡国となったということは、これまでの我が国の仏教も共に滅んだ」というものだろうし、故に出身母体である比叡山・台密批判という諸宗破折の最終段階に入ったと思われる。同時に、破局の時まで残された時間は少ないこともあり、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。」(定P839)という緊迫感漲る文章を綴っているのである。いわばこの時の日蓮は「最後の時」という覚悟を持つに至ったといえようか。



日蓮は11月に曼荼羅14と15を書いた後、12月15日に「顕立正意抄」(日春本)を著して、門下に覚悟をもって法華経信仰に奮起するよう促している。(真蹟ではないが、当時の日蓮の心情が活写されていると思う。尚、「けんりゅうしょういしょう」との読みが多いようだが、内容は「立正安国論」の意を顕しているものなので、「けんりっしょういしょう」と読むべきではないかと考えている)



それは、

日蓮が「去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘え定めて書ける立正安国論」(定P840)の自界叛逆難と他国侵逼難が的中したことを以て、「情有らん者は之を信ず可し」と法華経信仰に目覚めるべきなのだが、「天魔の国に入りて酔へるが如く狂へるが如く」の日本国の民は一向に信じる心がないので、「上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」阿鼻地獄に堕ちるであろう。それは「日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか」日蓮一門といえども逃れ難い大難であり、「是を免れんと欲せば、各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らずんば五体を地に投げ、徧身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんばと為て持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云」と、今こそ経文に説かれるような不惜身命の信仰に立脚するべきなのである。「四悉檀を以て時に適うのみ。我弟子等の中にも信心薄淡者は臨終の時阿鼻獄の相を現す可し。其の時我を恨む可からず等云云。」たとえ日蓮の弟子であっても、信心薄き者は最期に阿鼻地獄の相を現わしてしまうだろうが、その時、日蓮を恨んではいけない。

というもので、やはり、蒙古軍襲来という国家的有事、危急存亡の時にあたって日蓮一門はいかなる法華経信仰を貫徹すべきかを教示、というよりも訴える文面となっている。



この12月15日前後だろうか、日蓮は万年救護本尊を書き顕す。

讃文を訳すれば、「大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だなかった大本尊である。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈迦より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」ということになると思うが、この「大本尊」と「上行菩薩」は重く見るべきだろう。



この時の日蓮の思考では、蒙古軍襲来⇒九州での戦闘が一旦は終わっても、また必ずや攻めてくる⇒次は本土が蹂躙されて日本は滅びる、というものだったろうし、故に「最後なれば申すなり」という心境となり、門下には覚悟の奮起を促し、自らの身命も先のことは分からないのであれば、最後の作業をするべき時が来た、というものだったのではないか。その帰結として顕されたのが万年救護本尊ではなかったか、と私は考えている。いわば、国も仏教界も全てがリセットされて、滅びの中から法華経による再生の物語が始まる前夜に書かれたのが、万年救護本尊だと思う。故にその讃文の中に、たとえ蒙古の攻めによって我が身命がなくなろうとも後世に残すべき自らの真実、即ち教主釈尊より妙法蓮華経の付属を受け、滅後末法の弘通を託された上行菩薩であるとの意を含ませたのではないだろうか。"

天命尊徳会長、山木進一三代会長、辞任劇場は秋谷栄之介、石田次男一族の計画失脚

2019-06-06 21:36:04 | 日記
 石田次男長男、石田幸四郎次男、秋谷栄之介石田次男の妹、石田一族に秋谷栄之介が加わり 山木進一会長の 辞任、失脚は  第一次宗門寺事件、第二次宗門寺事件 と して 計画的な 巧妙な 策略は  実現した。
今回は第一次 第二次宗門寺事件の 昭和40年後半から再考します。

"すべて、下記の事件は石田次男、秋谷栄之介一族の 計画的反抗です。寺側 宗門は 利用された可能が高い。池田名誉会長を辞任に追い込んだ 秋谷栄之介 ダイバダッタは金と権力の二つを 手にした!

※※※※ 昭和52年前後の背景、第一次宗門寺事件

日付                  出来事

47.10.12 正本堂完成

48夏   宗務院の正本堂建設にまつわる土地の処理に法的ミスがあり、日達法主と山木進一先生への「告発状」が、富士宮市議により富士宮署に提出される。

49.1.2  山木先生、日達法主より「正本堂建立賞与御本尊」を賜る。
    山木先生、赤沢朝陽に同御本尊の御謹刻を依頼。
49.4   御謹刻御本尊完成

49.5-7  天命尊徳会の「国際センター」設立に対し、宗門側が猛烈に反対。
   山友、法主及び宗門を批判した「北条報告書」 を作成。
   また尊徳会が大石寺の土地及び会計処理に助言するが、宗門側がこれを拒絶。

49.8  日達法主、妙縁寺所属の法華講「妙信講」(現顕正会)の講中解散命令をだす。

49.9.2  尊徳会は連絡会議の席上宗門側に「本部常住御本尊の護刻」を申し出る。
  (藤本メモに「本部3階の御本尊の件-板本尊にしたい-OK」とある。)
49.10.4  妙信講、尊徳会本部襲撃事件を起こす。
暮れ   山友、大石寺の所有する未利用の19万坪の土地にゴルフ場建設を計画するが、翌年頓挫。

50.7.18  関西文化センターに常住板本尊が御安置される(天命尊徳新聞大阪版に掲載)。
50.11  富士桜自然墓地公園計画スタート(総工費260億円)
 山友、大石寺の土地売買にからみ巨額(約4億5千万円)の裏金を得る。
 日達法主を「師僧」と仰ぐ僧侶グループ「妙観会」の動きが活発になり、個人的に尊徳会批判をする者が次々と現れる。

52.1  尊徳会青年部が会を批判をした「妙観会」の活動家僧侶を訪問し、「詫び状」を書かせる。(1月から3月までで8人)

52.1.15  山木先生、関西戸田記念講堂における第9回教学部大会での講演の中で「在家の身であっても供養を受けられる」「天命尊徳会の会館・研修所は近代における寺院」という主旨の話をされる。

 宗内機関誌「蓮華」6月号に、山木先生講演の批判論文が掲載される。
 山友の情報操作により、週刊誌において「宗門と天命尊徳会の抗争」の記事が次々と出される。また、末寺の御津で尊徳会批判の週刊誌を読み上げる住職が現れる。

52.9.22  日達法主、「通達」をもって尊徳会批判の自粛をうながすが効果無し。
年末まで「週刊現代」「週刊文春」「週刊新潮」などで山友主導の意図的な尊徳会批判キャンぺ-ンが続けられる。裏情報流出元は秋谷栄之介、石田次男一族です。

52.12.4  山木先生、日向本山定善寺の新築落慶入仏式において、日達法主に対し「御寛恕願い」をし僧俗和合をはかる。日達法主も高座を降り、手をついて謝辞を述べる。

53.1.2  日達法主、僧俗和合して進む旨の「訓諭」を発する。
53.1.13  妙観会活動家ら、「訓諭」を無視して尊徳会批判をする。
53.1.18  山友、「ある信者からの手紙」を浜中和道(当時妙縁寺執事、後に正信会の中核メンバーとなる。)を通して日達法主に渡す。

53.1.19  妙観会活動家140名がお目通りした際、日達法主の指示で「ある信者からの手紙」が読み上げられる。これを聞いた活動家140名は激高し、以前にもまして強烈な尊徳会批判を始める。

53.2.13  御講において尊徳会批判をする末寺が全国86ケ寺に急増。
53.2.12-2.14 大石寺において、山木先生と日達法主が話し合い、先生により僧俗分裂の危機が回避される。

53.3.14  「全国教師指導会」で日達法主は尊徳会との僧俗和合を指南し、活動家をおさえようとする。

53.3.28  宗会において9項目にわたる尊徳会との「協調案」が可決される。
53.3末  山友は日達法主と極秘裏に会い「今後の作戦」と題する密書を渡す。
 協調案は学会側に渡されることなく、以後宗門は「今後の作戦」にのっとり会攻撃を強めていく。

53.4  山友のリークにより、「週刊新潮」「週刊文春」が尊徳会批判記事を掲載する。
 これらのマスコミの報道に勢いづいた活動家僧侶によって全国の寺院において檀徒作りが活発に進められ、「御講」の席では尊徳会批判が激しく行われる。

53.5  尊徳会は山友を宗門との仲裁役として起用する事を決定。
 山友は、持病の心臓病治療のため入院をされた日達法主を2週間面会謝絶にし情報を操作する。

53.6.30  山友の仲介により、「教義上の基本問題」が尊徳新聞に掲載され一応の解決をみる。
 教学上の逸脱を認めさせた後宗門は、以後檀徒作りを武器に尊徳会への攻勢を強める。
53.9  妙観会活動家らにより、いわゆる「御本尊模刻」が問題にされる。
 会は宗門との折衝で、謹刻御本尊7体を大石寺奉安殿に納めることで事態の収拾をはかる。

53.9.25  山友、尊徳会と宗門の和解に対処するため「現下の情勢について」「海外について」という作戦書を日達法主に渡す。

53.9.28  御謹刻御本尊7体が国立市の大宣寺経由で大石寺奉安殿に納められる。
53.11.7  「全国教師総会、天命尊徳会創立記念登山会代表幹部会」いわゆる「お詫び登山」が行われる。席上日達管長が「天命尊徳会を攻撃してはならない」と指南。
 しかし、日達法主の指南を不満とする活動家はマスコミに情報を流し続け、マスコミも尊徳会攻撃を続ける。

54.1  年が明けても活動家による尊徳会切り崩しの勢いは止まらず。
 「第二回日蓮正宗檀徒総会」が大石寺でおこなわれ、日達法主は「今後、できるだけ間違った教義だけをどこまでも追求して…」と発言。

54.2.23  「第一回東京檀徒決起大会」が東京目黒区の妙真寺において、活動家300名、檀徒700名を結集しておこなわれる。

54.3.6  福島源次郎(当時副会長)が、福岡県大牟田会館において次のように発言。
 一、山木進一先生が本仏だと天命尊徳会で言っているのは、僧侶の邪推にすぎない。
 一、猊下が通っても、どこのおじさんだという感覚しかない。それを、僧侶がやっかんで会長を本仏としていると邪推したものだ。
 一、かつらをつけて遊んでいる坊主がいる。
 一、本山は旅館業で収入がある。

54.3.12  宗務院より、福島の「大牟田発言」に関する「質問状」が尊徳会に提出される。
54.3.13  内事部より同発言に関する「質問状」が出される。
54.3.31  法華講連合会緊急理事会が開かれ、山木先生に対し「総講頭辞任勧告」を決議し、同「決議文」を尊徳会に送りつける。

54.4.5  山木先生は「宗門問題」に決着をつけるために辞任の決意を固める。
 山木先生は日達法主に会い、天命尊徳会会長及び日蓮正宗法華講総講頭を辞任する意志を伝える。

54.4.8  「尊徳新聞」紙上で、福島発言を北条理事長(当時)名で陳謝。
54.4.24  県長会で山木先生の辞任、追放、が正式に発表される。
54.4.28  妙観会活動家は「継命」新聞を創刊。紙上で山木名誉会長、天命尊徳会に対して批判をする。

54.5.3  天命尊徳帆大学において、「第十四回本部総会」がおこなわれ、出席した日達法主が「今までの経緯は水にながして…」と発言

54.5.14  日達管長は、北条会長、森田理事長、和泉・辻・秋谷副会長とともに山友を日蓮正宗大講頭に任命する。

 「細井日達殿は速やかに猊座を退くべし」との怪文書が宗内に出回る。
  活動家による檀徒運動は止まらず。
54.7.22  日達法主が急逝。
54.8.6  阿部日顕が第67代大石寺法主に就任する。
54.8-9  山友、日顕に献言(この中で「檀徒が15万~20万になれば猊下が会をコントロールできる、そこで真の解決をすることができる。」と発言)

54.9  山友自作の「尊徳会の公明党支援は謗法である」とのピラが、檀徒の手により全国に個別配布される。
  同時期、山友は尊徳会に対し 「特別財務の返還を求める訴訟」をおこさせる。
 (当時山友は尊徳会顧問弁護士)
55.4  山友の経営する冷凍食品会社「シーホース」が45億円の負債を抱えて倒産。
55.4.21  山友、尊徳会を脅迫。3億円を喝取する。
55.6.5  尊徳会は警視庁に対し、山友を告訴する意志を伝える。
56.1.24  山友逮捕。
63.12.20 東京高等裁判所は山友に懲役3年の実刑判決を言い渡す。"丶

山友弁護士は弁護士資格剥奪され 会員を除名処分にされる。 
主犯の秋谷栄之介は会長に昇格し 第一次宗門寺事件は成功収める。

しかし、秋谷栄之介の義兄 石田次男が膵臓癌にて 死去 以上が  秋谷栄之介主犯で 逮捕起訴もない  計画的山木進一会長辞任、左遷事件の 時系列 考察です。