"身延草庵の本尊一考 3-1
3 万年救護本尊
【 「大本尊」「上行菩薩」と書かれた万年救護本尊 】
讃文に「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」と認め、特に「大本尊」「上行菩薩」と書いたところから、他とは異なる意を以て図顕したであろう通称・万年救護本尊(曼荼羅16)には授与書きは無い。この曼荼羅は「文永十一年太才甲戌十二月 日」に、「甲斐国波木井郷於 山中図之」と身延山において書き顕したものだ。寸法は「106.0×56.7㎝ 3枚継ぎ」で、私も実物を拝したが大ぶりなものといえるだろう。現在は富士門流の保田妙本寺に所蔵されており、日蓮の入滅前のことと考えるが、いずれかの時点で日興の手元に移り、それが日目へ、次に日郷の門流へと継承されることになった。
万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
【 万年救護本尊に関する伝承と認識 】
この曼荼羅について、大石寺17代の日精は「富士門家中見聞上・日興」(富士宗学要集5巻P154)にて、「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」と、弘安2年中に日蓮が日興に授与したとしている。これは、大石寺所蔵の通称・本門戒壇之御本尊(板本尊)が弘安2年10月12日、日蓮自身の手による図顕造立とされていることから関連・発生した伝承ではないだろうか。「身延の草庵で万年救護本尊を奉掲していたが板本尊を造立、安置したので、それまでの万年救護本尊を日興に授与した」ということになり、板本尊日蓮直造説の補強材料となるからだ。
万年救護本尊に関して「御本尊集」解説では、
此の御本尊もまた極めて重要なる御内観を示したまえるもので、山川智応博士は「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」(「日蓮聖人研究」第二巻四百七頁取意)としている。すなわちその特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうとともに、本国土妙の代表たる天照・八幡二神の本地をも示されたのであって、かくの如き儀相は他に全く拝することができない。
なお、御讃文中「大本尊」と称されたのもこの一例のみであって、他は総べて「大漫荼羅」或いは「大曼陀羅」を用いられている。
と評している。
大黒喜道氏は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(興風22号P276)にて、文永12年3月10日の「曾谷入道殿許御書」(真蹟)は3~4箇月かけて完成したと考えられ、それは万年救護本尊を顕した文永11年12月と重なる同時期の作業であり、「曾谷入道殿許御書」の文中、「今親(まのあた)り此の国を見聞(けんもん)するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救(ふぐ)せん。大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。」(定P900、大黒氏は他の文も引用されている)との「一大秘法」とは、万年救護本尊を直接指し示した言葉である(趣意)、と考察されている。大黒氏は論考「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼陀羅本尊のことー」(佐渡日蓮研究第三号P97、2010 佐渡日蓮研究会)でも、同様の見解を詳細に検討、提示されている。
万年救護本尊が日蓮のいう「一大秘法」か、どうかについて、私には『断定』するだけの力量はないが、やはり注意すべきは「特一無比」な讃文で、文永の役の後、程なくして顕されたこの曼荼羅の扱いについては日蓮自身の思いとして、他とは異なるものがあったと考えられるのである。
【 身延草庵での曼荼羅・万年救護本尊 】
曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵 曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵
身延の草庵での曼荼羅を考える時、まず授与書きの有るものは除かれるのだが、やはり注目すべきは文永11年12月の万年救護本尊だろう。讃文では曼荼羅は即「大本尊」であると明確にし、自身は「上行菩薩」であることを暗示しており、これは他の曼荼羅讃文には見られないものである。このような「自身の境地を含ませ、かつ大本尊」とした曼荼羅=本尊であれば、それは拝する弟子檀越を通して世に向かって宣言をしたものともいえ、身延の草庵に奉掲されていたのではないかと思うのだ。逆に、このような「自らの内観世界を明かした宣言ともいうべき讃文」を記した曼荼羅を、明らかにせず秘してしまう、隠す、しまっておく等は考えづらいものがある。やはり、「釈尊より滅後末法の弘通を託された上行菩薩は日蓮である、との直接的な表現は避けながらも、拝する門下をして、『後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣する、というその大本尊を顕した日蓮こそ上行菩薩に他ならない』と信解せしめる」格別の讃文からも、授与書きが無いことからも、また、文永の役という未曽有の国難の後というタイミングからも、万年救護本尊が身延の草庵に奉掲されていたのではないだろうか。前述したように、奉掲の態様は様々であったとは思うが。
【 最後の時にあたり日蓮の真実を残した万年救護本尊 】
この万年救護本尊については、蒙古襲来と密接に関連していると思う。
文永11年10月5日に対馬が元軍に襲われ、10月14には壱岐に侵攻。10月20日には筑前国に上陸されて守備の鎮西の御家人と激戦を展開。日本勢は防戦しつつ太宰府に退いたが、夜半のうちに元軍は撤退してしまった。短期間で思わぬ一応の決着がついたといえるが、かねてから他国侵逼難を説いて亡国の危機を訴えてきた日蓮にとっては、次は本土に攻め込まれて大量殺戮が行われる、多くの人が生け捕りになる、そして日本は滅亡するという事態が眼前となったのであり、彼の書状にはその緊張感が満ち溢れている。
文永11年11月11日の「上野殿御返事(与南條氏書)」(日興本・大石寺蔵)には「大蒙古国よりよ(寄)せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(定P836)とある。同じく11月20日の「曾谷入道殿御書」(真蹟断片)にも、「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで(既)にあ(合)ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」(定P838)と、日蓮の視界には本土を蹂躙する蒙古軍の姿があったようだ。
「法華取要抄」の草案である「取要抄」には、「慈覚等忘本師実義付順唐師権宗人也。智証大師少似伝教大師。」と台密・円仁批判が書かれるも、文永11年5月24日の「法華取要抄」では公にされなかった。続いて、かねてから主張していた他国侵逼難が蒙古襲来として現実化するに及んで、11月20日の「曾谷入道殿御書」で「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。」(定P838)と、明確に台密・円仁への批判を展開する。この時の日蓮の思考は「日本が亡国となったということは、これまでの我が国の仏教も共に滅んだ」というものだろうし、故に出身母体である比叡山・台密批判という諸宗破折の最終段階に入ったと思われる。同時に、破局の時まで残された時間は少ないこともあり、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。」(定P839)という緊迫感漲る文章を綴っているのである。いわばこの時の日蓮は「最後の時」という覚悟を持つに至ったといえようか。
日蓮は11月に曼荼羅14と15を書いた後、12月15日に「顕立正意抄」(日春本)を著して、門下に覚悟をもって法華経信仰に奮起するよう促している。(真蹟ではないが、当時の日蓮の心情が活写されていると思う。尚、「けんりゅうしょういしょう」との読みが多いようだが、内容は「立正安国論」の意を顕しているものなので、「けんりっしょういしょう」と読むべきではないかと考えている)
それは、
日蓮が「去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘え定めて書ける立正安国論」(定P840)の自界叛逆難と他国侵逼難が的中したことを以て、「情有らん者は之を信ず可し」と法華経信仰に目覚めるべきなのだが、「天魔の国に入りて酔へるが如く狂へるが如く」の日本国の民は一向に信じる心がないので、「上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」阿鼻地獄に堕ちるであろう。それは「日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか」日蓮一門といえども逃れ難い大難であり、「是を免れんと欲せば、各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らずんば五体を地に投げ、徧身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんばと為て持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云」と、今こそ経文に説かれるような不惜身命の信仰に立脚するべきなのである。「四悉檀を以て時に適うのみ。我弟子等の中にも信心薄淡者は臨終の時阿鼻獄の相を現す可し。其の時我を恨む可からず等云云。」たとえ日蓮の弟子であっても、信心薄き者は最期に阿鼻地獄の相を現わしてしまうだろうが、その時、日蓮を恨んではいけない。
というもので、やはり、蒙古軍襲来という国家的有事、危急存亡の時にあたって日蓮一門はいかなる法華経信仰を貫徹すべきかを教示、というよりも訴える文面となっている。
この12月15日前後だろうか、日蓮は万年救護本尊を書き顕す。
讃文を訳すれば、「大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だなかった大本尊である。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈迦より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」ということになると思うが、この「大本尊」と「上行菩薩」は重く見るべきだろう。
この時の日蓮の思考では、蒙古軍襲来⇒九州での戦闘が一旦は終わっても、また必ずや攻めてくる⇒次は本土が蹂躙されて日本は滅びる、というものだったろうし、故に「最後なれば申すなり」という心境となり、門下には覚悟の奮起を促し、自らの身命も先のことは分からないのであれば、最後の作業をするべき時が来た、というものだったのではないか。その帰結として顕されたのが万年救護本尊ではなかったか、と私は考えている。いわば、国も仏教界も全てがリセットされて、滅びの中から法華経による再生の物語が始まる前夜に書かれたのが、万年救護本尊だと思う。故にその讃文の中に、たとえ蒙古の攻めによって我が身命がなくなろうとも後世に残すべき自らの真実、即ち教主釈尊より妙法蓮華経の付属を受け、滅後末法の弘通を託された上行菩薩であるとの意を含ませたのではないだろうか。"
3 万年救護本尊
【 「大本尊」「上行菩薩」と書かれた万年救護本尊 】
讃文に「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」と認め、特に「大本尊」「上行菩薩」と書いたところから、他とは異なる意を以て図顕したであろう通称・万年救護本尊(曼荼羅16)には授与書きは無い。この曼荼羅は「文永十一年太才甲戌十二月 日」に、「甲斐国波木井郷於 山中図之」と身延山において書き顕したものだ。寸法は「106.0×56.7㎝ 3枚継ぎ」で、私も実物を拝したが大ぶりなものといえるだろう。現在は富士門流の保田妙本寺に所蔵されており、日蓮の入滅前のことと考えるが、いずれかの時点で日興の手元に移り、それが日目へ、次に日郷の門流へと継承されることになった。
万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
【 万年救護本尊に関する伝承と認識 】
この曼荼羅について、大石寺17代の日精は「富士門家中見聞上・日興」(富士宗学要集5巻P154)にて、「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」と、弘安2年中に日蓮が日興に授与したとしている。これは、大石寺所蔵の通称・本門戒壇之御本尊(板本尊)が弘安2年10月12日、日蓮自身の手による図顕造立とされていることから関連・発生した伝承ではないだろうか。「身延の草庵で万年救護本尊を奉掲していたが板本尊を造立、安置したので、それまでの万年救護本尊を日興に授与した」ということになり、板本尊日蓮直造説の補強材料となるからだ。
万年救護本尊に関して「御本尊集」解説では、
此の御本尊もまた極めて重要なる御内観を示したまえるもので、山川智応博士は「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」(「日蓮聖人研究」第二巻四百七頁取意)としている。すなわちその特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうとともに、本国土妙の代表たる天照・八幡二神の本地をも示されたのであって、かくの如き儀相は他に全く拝することができない。
なお、御讃文中「大本尊」と称されたのもこの一例のみであって、他は総べて「大漫荼羅」或いは「大曼陀羅」を用いられている。
と評している。
大黒喜道氏は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(興風22号P276)にて、文永12年3月10日の「曾谷入道殿許御書」(真蹟)は3~4箇月かけて完成したと考えられ、それは万年救護本尊を顕した文永11年12月と重なる同時期の作業であり、「曾谷入道殿許御書」の文中、「今親(まのあた)り此の国を見聞(けんもん)するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救(ふぐ)せん。大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。」(定P900、大黒氏は他の文も引用されている)との「一大秘法」とは、万年救護本尊を直接指し示した言葉である(趣意)、と考察されている。大黒氏は論考「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼陀羅本尊のことー」(佐渡日蓮研究第三号P97、2010 佐渡日蓮研究会)でも、同様の見解を詳細に検討、提示されている。
万年救護本尊が日蓮のいう「一大秘法」か、どうかについて、私には『断定』するだけの力量はないが、やはり注意すべきは「特一無比」な讃文で、文永の役の後、程なくして顕されたこの曼荼羅の扱いについては日蓮自身の思いとして、他とは異なるものがあったと考えられるのである。
【 身延草庵での曼荼羅・万年救護本尊 】
曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵 曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵
身延の草庵での曼荼羅を考える時、まず授与書きの有るものは除かれるのだが、やはり注目すべきは文永11年12月の万年救護本尊だろう。讃文では曼荼羅は即「大本尊」であると明確にし、自身は「上行菩薩」であることを暗示しており、これは他の曼荼羅讃文には見られないものである。このような「自身の境地を含ませ、かつ大本尊」とした曼荼羅=本尊であれば、それは拝する弟子檀越を通して世に向かって宣言をしたものともいえ、身延の草庵に奉掲されていたのではないかと思うのだ。逆に、このような「自らの内観世界を明かした宣言ともいうべき讃文」を記した曼荼羅を、明らかにせず秘してしまう、隠す、しまっておく等は考えづらいものがある。やはり、「釈尊より滅後末法の弘通を託された上行菩薩は日蓮である、との直接的な表現は避けながらも、拝する門下をして、『後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣する、というその大本尊を顕した日蓮こそ上行菩薩に他ならない』と信解せしめる」格別の讃文からも、授与書きが無いことからも、また、文永の役という未曽有の国難の後というタイミングからも、万年救護本尊が身延の草庵に奉掲されていたのではないだろうか。前述したように、奉掲の態様は様々であったとは思うが。
【 最後の時にあたり日蓮の真実を残した万年救護本尊 】
この万年救護本尊については、蒙古襲来と密接に関連していると思う。
文永11年10月5日に対馬が元軍に襲われ、10月14には壱岐に侵攻。10月20日には筑前国に上陸されて守備の鎮西の御家人と激戦を展開。日本勢は防戦しつつ太宰府に退いたが、夜半のうちに元軍は撤退してしまった。短期間で思わぬ一応の決着がついたといえるが、かねてから他国侵逼難を説いて亡国の危機を訴えてきた日蓮にとっては、次は本土に攻め込まれて大量殺戮が行われる、多くの人が生け捕りになる、そして日本は滅亡するという事態が眼前となったのであり、彼の書状にはその緊張感が満ち溢れている。
文永11年11月11日の「上野殿御返事(与南條氏書)」(日興本・大石寺蔵)には「大蒙古国よりよ(寄)せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(定P836)とある。同じく11月20日の「曾谷入道殿御書」(真蹟断片)にも、「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで(既)にあ(合)ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」(定P838)と、日蓮の視界には本土を蹂躙する蒙古軍の姿があったようだ。
「法華取要抄」の草案である「取要抄」には、「慈覚等忘本師実義付順唐師権宗人也。智証大師少似伝教大師。」と台密・円仁批判が書かれるも、文永11年5月24日の「法華取要抄」では公にされなかった。続いて、かねてから主張していた他国侵逼難が蒙古襲来として現実化するに及んで、11月20日の「曾谷入道殿御書」で「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。」(定P838)と、明確に台密・円仁への批判を展開する。この時の日蓮の思考は「日本が亡国となったということは、これまでの我が国の仏教も共に滅んだ」というものだろうし、故に出身母体である比叡山・台密批判という諸宗破折の最終段階に入ったと思われる。同時に、破局の時まで残された時間は少ないこともあり、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。」(定P839)という緊迫感漲る文章を綴っているのである。いわばこの時の日蓮は「最後の時」という覚悟を持つに至ったといえようか。
日蓮は11月に曼荼羅14と15を書いた後、12月15日に「顕立正意抄」(日春本)を著して、門下に覚悟をもって法華経信仰に奮起するよう促している。(真蹟ではないが、当時の日蓮の心情が活写されていると思う。尚、「けんりゅうしょういしょう」との読みが多いようだが、内容は「立正安国論」の意を顕しているものなので、「けんりっしょういしょう」と読むべきではないかと考えている)
それは、
日蓮が「去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘え定めて書ける立正安国論」(定P840)の自界叛逆難と他国侵逼難が的中したことを以て、「情有らん者は之を信ず可し」と法華経信仰に目覚めるべきなのだが、「天魔の国に入りて酔へるが如く狂へるが如く」の日本国の民は一向に信じる心がないので、「上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」阿鼻地獄に堕ちるであろう。それは「日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか」日蓮一門といえども逃れ難い大難であり、「是を免れんと欲せば、各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らずんば五体を地に投げ、徧身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんばと為て持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云」と、今こそ経文に説かれるような不惜身命の信仰に立脚するべきなのである。「四悉檀を以て時に適うのみ。我弟子等の中にも信心薄淡者は臨終の時阿鼻獄の相を現す可し。其の時我を恨む可からず等云云。」たとえ日蓮の弟子であっても、信心薄き者は最期に阿鼻地獄の相を現わしてしまうだろうが、その時、日蓮を恨んではいけない。
というもので、やはり、蒙古軍襲来という国家的有事、危急存亡の時にあたって日蓮一門はいかなる法華経信仰を貫徹すべきかを教示、というよりも訴える文面となっている。
この12月15日前後だろうか、日蓮は万年救護本尊を書き顕す。
讃文を訳すれば、「大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だなかった大本尊である。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈迦より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」ということになると思うが、この「大本尊」と「上行菩薩」は重く見るべきだろう。
この時の日蓮の思考では、蒙古軍襲来⇒九州での戦闘が一旦は終わっても、また必ずや攻めてくる⇒次は本土が蹂躙されて日本は滅びる、というものだったろうし、故に「最後なれば申すなり」という心境となり、門下には覚悟の奮起を促し、自らの身命も先のことは分からないのであれば、最後の作業をするべき時が来た、というものだったのではないか。その帰結として顕されたのが万年救護本尊ではなかったか、と私は考えている。いわば、国も仏教界も全てがリセットされて、滅びの中から法華経による再生の物語が始まる前夜に書かれたのが、万年救護本尊だと思う。故にその讃文の中に、たとえ蒙古の攻めによって我が身命がなくなろうとも後世に残すべき自らの真実、即ち教主釈尊より妙法蓮華経の付属を受け、滅後末法の弘通を託された上行菩薩であるとの意を含ませたのではないだろうか。"
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