今は草ぼうぼうで、知る他人も少なくなった。でも、忘れてはいけない、
三井長右衛門 橋立を守った偉大な先駆者 上の碑はそれを讃えて元京都府知事林田由紀夫氏にお願いし
国分資料館側に建設した。吟詠会の仲間と除幕式を行いました。
宮津観光案内より、コピー掲載 2012/10/03
祖先は、藤原氏の末流。大阪の陣で石山寺の戦いに敗れ、田辺を経て宮津に来ました。以後、両刀を捨てて300年薬屋を営みました。
三井長右衛門は、民部省で官吏を務め、乞われて帰郷し明治15年から20年間、郵便電子事務を取扱い局長として多くの功績を残し
ました。また、多年の念願であった運輸業を始め、宮津における銀行、信用金庫、両丹電燈会社の重役を務め、郡会議員、町会議員を経て
宮津町長になりました。
戦後、岩崎英精氏によって明らかにされたのは、昭和12年日本軍が上海事変をきっかけに中国本土へ戦火を広げていった時期です。
陸軍大将林銃十郎内閣の商工大臣伍堂卓雄は、軍需物資の増産を目論見、阿蘇海の南西にある日本冶金が大江山のニッケル鉱を精錬して
いることに目をつけ、橋立を切断して大型船を直航できるように計画し宮津に乗り込みました。
会談は、荒木旅館で行われました。宮津からは、町会議員、町会役員など町民の代表が呼ばれ、みな不安な面持ちで席に着きました。
政府のひと睨み縮じみ上がると思った伍堂大臣の前に一番前に座った宮津町長三井長右衛門は、少しも動揺せず「後日改めてお返事を」
と、首をタテに振りませんでした。2回目は、三井長右衛門ひとりだけ呼ばれ密室での会談となりました。圧力をかけられたでしょう。
「戦は一時期のもの、100年続くわけではない。だが、橋立を切断すれば元には戻らない。」との持論を粘り強く交渉し、とうとう
伍堂大臣はあきらめました。この日、懐に三井家に伝わる短刀を忍ばせ、主張が受けいれられなかったらその場で自害するつもり
.だったそうです。その後、陰湿ないやがらせが続き、町会議員の切り崩しもあり、三井は昭和19年失意のうちに亡くなりました。
今日、多くの方が天橋立を訪れ、日本三景の美しさに感動して渡っていますが、命を捨てて守り抜いた宮津人がいたことを何人が
知っているでしょうか。