水鳥達も 姿を現れ 川の水で
水鳥達も 姿を現れ 川の水で
高校二年の終わり、図書館で偶然隣に座った君に、僕は一目惚れをした。
僕はそれから学校が終わると駆け足で図書館に通い、いつも君を事を探していた。
勇気を出して話し掛けてみた事が切っ掛けで、僕は君と友達になる事が出来たんだよね。
君はとても可愛くて、僕なんかじゃ絶対に不釣合いだと思っていたし、側に居られるだけで幸せだった。
彼氏がいる事も判ったから、好きだという気持ちも伝える事が出来ないでいた。
そんなある日、僕は君の異変に気付いた。
会った時よりも大分やつれていたから、
「大丈夫?」
と聞くと、君は笑いながら、
「受験のせいで食欲がないだけよ」
と言った。
だから僕もそんなに気には留めていなかったんだ。
でも、それから2、3ヶ月も君と会えなくなるだなんて思ってもいなかった。
あの後、眩暈で倒れてそのまま入院をしていただなんてさ。
久しぶりに図書館に来た君は帽子を被っていて、僕は聞いてはいけない質問をしてしまったんだよね。
この時まで、僕は君の病気を知らなかったんだ。
「私、白血病なんだって」
初めは信じられなかったけど、君が帽子を脱いだ姿を見て、僕は全てを理解したんだ。
君はそれからずっと元気がなかったけど、暫くして嬉しそうに僕に話しかけてきた。
「ドナーの人が見つかったの!」
僕もこの時は心から嬉しかった。
でも結局、ドナー側の都合で移植が駄目になってしまったんだよね。
君は泣きながら、こう言ったよね。
「彼氏にも、ドナーにも逃げられちゃった⋯」
そんな君に、僕は勇気を出して告白をしたら、
「こんな私でいいの?」
と承諾してくれた。
その時に初めて僕は、君の手を握ったんだ。
骨と皮だけになっていて、驚く程に細くなっていた。
凄く凄く温かかった。
それから1ヶ月後に、君は僕に手紙を残して旅立った。
「あなたと付き合えた1ヶ月間、本当に幸せでした」
苦労して書いたと解る字を見て、僕はただ泣く事しか出来なかった。
一緒の大学へ行こうと約束していたのに、君の願いを叶えられず本当にごめん⋯。
君が居なくなってから、もう8年が経ちます。
大学も卒業し、もう3年。
来月、君と同じ境遇の方に、僕の骨髄を提供する事になりました。
これが僕にとっての『君への罪滅ぼし』だと思っています。
気がつくと、7歳の息子はいつも電車のおもちゃで遊んでいました。
夢は“しゃしょうさんになること”でした。
あの日から父親はその小さな背中を抱きしめることができていません。
ことし4月、息子は知床で観光船「KAZU I」に乗りました。
いまも行方がわかっていない息子と、父親は夢の中でだけ再会するようになりました。
親子で過ごすその時間を、日記に書き残し続けています。
知床観光船事故
2022年4月23日、北海道・知床半島の沖合で乗客乗員26人が乗った観光船「KAZU I」が沈没。20人が死亡、6人の行方が今もわかっていません。海上保安庁は6人の捜索を続けるとともに、観光船の運航会社の社長について業務上過失致死の疑いで捜査を進めています。
息子たちの帰りを待ち続けて
7歳の息子とその母親が沈没事故で行方不明になっている北海道・十勝地方の父親です。
事故から4か月が経った8月ごろから息子と過ごす“夢”を書き留めています。
事故の被害者家族が置かれた現状を知ってもらいたいと、記者に見せてくれました。
9月23日の日記
“息子の夢を見た。自転車みたいな乗り物で元気よく家の周りの歩道を走っていた。家の中から見ていた自分は、手をふった。息子はハニカミながら小さめに細かく手をふりかえしていた”
ラムネを持ってきて、ご飯の上にのせてほしいとせがんだり…。
カレーを食べて体中に黄色いルーをつけてしまったり…。
息子はたびたび夢の中で無邪気な姿を見せるようになりました。
それでも目が覚めて時間が経つと、息子と何の話をしたか、どんな表情を見せてくれたか、思い出せないこともあったということです。
「息子と過ごした時間を残しておきたい」
夢を書き留め始めて1か月。夢の中の息子は、困難に直面しても前向きに生きようとしていました。
10月4日の日記
“2人の楽しそうな声を聞いた。夢の中で息子は病気で半年から1年ほどしか生きられないということになっていた。
その中で、息子に楽しく生きてほしいと頑張っていた夢だった”
息子との夢は、その小さな背中を後ろから抱きしめたところで終わることが多いといいます。
10月20日の日記
“息子とお風呂に入っている夢を見た。息子が膝の上に座っていて、お尻の骨が当たって痛かった。息子は痩せているから…。久しぶりに思い出した感覚。やっぱり会えなくなるのがわかっていて、後ろから息子を抱きしめた”
父親
「夢の中にいながらも、またすぐに息子と会えなくなってしまうことがわかっている、そんな夢が多いです。気をまぎらわそうとテレビを見ても、食べ物ひとつを見ても、ああ息子がこれ好きだったなとか、そういうことをどうしてもやっぱり考えてしまいます」
“無事でいてくれ” 届かなかったメッセージ
4月23日。
息子は母親と2人で知床に遊びに出かけていきました。
初めて観光船に乗るのを楽しみにしていた様子が、やりとりしていたメッセージから伝わってきたといいます。
午後、事故を伝えるニュースに気づきました。
何が起きているのかきちんと理解できないまま、父親は繰り返しメッセージを送りました。
何時間が過ぎても、メッセージが既読に変わることはありませんでした。
ようやく運航会社と連絡がとれ、乗船名簿に2人の名前が記載されていたことを伝えられました。
息子と過ごした時間
息子は物心がついたころから、電車が好きでした。
足の踏み場がなくなるほど部屋いっぱいに鉄道模型を広げては、いつも自慢げな表情を向けてきたそうです。
あれから半年が経とうとしていた9月、そんな息子との思い出が詰まった住宅を引き払うことになりました。
父親は息子が一生懸命作った自分の顔の版画や、手作りの電車をひとつひとつ手に取りながら段ボールに移していきました。
保育園で作った七夕の短冊には、これからやりたかったこと、将来の夢が書かれていました。
事故からほどなく、知床岬の沖合で子ども用のリュックサックが浮いているのが見つかりました。
お気に入りの新幹線の柄。どこへ行くにもいつも背負っていたものでした。
息子が遠くに離れていってしまったような気がして涙がこぼれました。
「本当に船に乗っていたんだな、と。信じたくはないけれど」
どこかで生きていてくれたら
それ以来、息子たちにつながる手がかりは一切ありません。
時間が過ぎるなかで、父親は心境の変化も口にします。
「“本日は巡視船何隻が出て捜索しましたが、現在のところ行方不明者の発見には至っておりません”という通知が、もうずっと、何か月も続いています。
最近はメールで送られてくるものに対して、期待して待っているという気持ちはなくなってきています」
10月下旬、海上保安庁と警察は知床半島先端部の海岸で集中捜索を行いました。しかし、潜水士などを派遣して沿岸部を捜索する機会は日を追うごとに減っています。
雪が多く降るようになれば捜索の条件はより厳しくなると、父親は焦りを募らせています。
「冬になって雪が降れば捜索が難しくなるというのはわかっていたので、雪が降るまでに海岸線を捜索する回数を増やしてほしいと言っていました。
天候が悪くて中止になっても、次の捜索の日程が決まるまでに半月かかる。現地で捜索してくれている方は本当に一生懸命探してくれていると思いますが、捜索方針を決めている方が、本気で見つけようとしてくれているのかなと不信感を抱いてしまいます」
父親は、運航会社や国の対応にも、やりきれない思いでいます。
「運航会社の社長は以前、『逃げも隠れもしません』と言っていたが、いまその言葉が全く守られていないと感じます。事故原因についてどう思っているのか、もう一度きちんと説明してほしいです。捜索の初動の遅さや観光船の検査の甘さなどを放置してきた国にも不信感を持っています」
いつか2人が帰ってきてくれたら
ある日突然、目の前からいなくなってしまった大切な家族。
夢から目が覚めるたびに現実に引き戻されながらも、父親は親子の時間をノートに書き留め続けています。
取材後記
父親が見せてくれた直筆の日記を読み始めたとき、無邪気な7歳の男の子の姿が浮かび、私も思わず涙をこらえ切れなくなりました。
「夢の中でしか会えない」という父親のことばの重みが、文章に詰まっていると感じました。
私が北見局で勤務していたとき、実家のある横浜市から母が知床の観光船に乗るのを楽しみに訪ねてきてくれたことがありました。
誰の身に起きてもおかしくなかった今回の事故。
「事故を忘れてほしくないから」と取材に応じてくれる父親の思いを届けられるよう、この事故を追い続けていきたいと思います。
建設の総事業費はいくら? 意外と安い?東京スカイツリーのお値段
高さ634メートルという、空前のスケールで建設された東京スカイツリー。一体どれだけの金額をかければ、これほどの巨大なタワーを建造することができるのだろう?
たとえば、世界一高い建物として知られるドバイの「ブルジュ・ハリファ」は工事費用だけで約1400億円、映画『オーシャンズ11』にも登場したラスベガスの高級ホテル「べラージオ」は約300億円かかったといわれている。
「展望台から見上げる景色は最高…🤩💕」
タワーとビルという違いはあるにせよ、単純に金額だけを見ると、東京スカイツリーの総事業費650億円というのは、ブルジュ・ハリファの半分以下、ベラージオの約2倍で済んでいることになる。見方によってはこれはかなり“安い”といえるのでは
もちろん、これらはジャンルが異なるため、単純な比較はできないが、こうして見てみると、やはり東京スカイツリーの650億円というお値段は、意外と“安い”という印象を受ける。
ちなみに、建設エリアである墨田区の2008年1月発表では、東京スカイツリーによって地元だけで年間約880億円もの経済効果があると見込んでいる。そう考えれば、東京スカイツリーの総事業費650億円というのは「けっして“高い値段”ではない」
東京スカイツリーは誰のもの? 東京スカイツリーは国や自治体のものではない
高さ634メートルの巨大タワーということで誤解してしまいやすいが、実は東京スカイツリーというのは、国や自治体のものではない。
では、誰のものなのかというと、これは事業主体である東武鉄道(株)と東武タワースカイツリー(株)のものということになるが、つまり、東京スカイツリーは、一般のビルなどと同じく、民間企業の所有物
ちなみに、建設エリアである墨田区の2008年1月発表では、東京スカイツリーによって地元だけで年間約880億円もの経済効果があると見込んでいる。そう考えれば、東京スカイツリーの総事業費650億円というのは「けっして“高い値段”ではない」ということができそうだ。
「東京ドームの白い頭が見えます。💖」
ちなみに、放送局は東京スカイツリーの建設を推進はしたが、建設に直接関わったわけではない。また、放送用の電波は放送事業者のアンテナから送信されるが、送信機室は各局が使用料を払って“間借りする”という形となっている。
東京の観光スポットといえば真っ先に名前が挙がる浅草寺。国内外から年間約3,000万人もの人が訪れ、世界中で知られる観光スポットと言っても過言ではありません。入り口に構える「雷門」にかかる赤い大きな提灯は浅草のシンボルとして知られ、周辺には江戸情緒が残る下町の街並みが広がります。
「浅草浅草寺が見えます。東京の観光のスポット」
浅草浅草寺
観光スポットとして有名な浅草寺ですが、実は約1400年の歴史を持つ、東京都内最古の寺院なんです
浅草寺の始まりは、推古天皇36年、西暦にして628年まで遡ります。檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしている最中、一躰の仏像を発見しました。
浅草寺の始まりは、推古天皇36年、西暦にして628年まで遡ります。檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が宮戸川(現在度の隅田川)で漁をしている最中、一躰の仏像を発見しました。
何川に戻しても網にかかることから、持ち帰って土地の長に見せたところ、その仏像が聖観世音菩薩の尊像であることが判明しました。その尊像を祀ってつくられたお堂こそが浅草寺の起源とされています。
浅草寺はその歴史の長さゆえ、1041年の大震災、1079年の火災等により被害を受け、その都度修復されてきました。1642年、門前町家の失火から浅草寺は再び焼失してしまいますが、その7年後の再建により完成した浅草寺本堂は、関東大震災の被害も免れ、約300年間無傷を保ってきました。
しかし、1945年の東京大空襲により、本堂を含む境内一帯が甚大な被害を受けてしまいました。その後、1951年から始まった再建によって、今の姿となった。
「もう一つ東京の名物が見えてきました。」
「浅草に流れる川、墨田川そして、桜橋が見えます💌」
「桜橋、夏には 墨田川花火大会で人で 大勢の人が…💦💦」
「初めてスカイツリー展望台ヘ 行って来ました。」
「こんな高い所へ 行ったのは初めての事」
「行く前に気持ちの不安で不安でチョット心配でした(笑)」
「毒親」「親ガチャ」という言葉がさかんに使われるようになり、親と縁を切る方法まで取り沙汰されるようになっている昨今。
その一方で、「本当は親に理解してほしい」という望みを捨て切ることができずにいる人も少なくありません。
母親からの精神的な支配などを背景に、長年ひきこもった経験のある林恭子さん(56)もその一人でした。母親との対話の機会を持とうとしていると聞いて、取材を始めました。
私は母の“ゴミ箱”だった
当事者の会の活動や執筆などを通じて、ひきこもりの人たちの思いを発信しつづける、林恭子さん。
私はこれまで何度も、番組や記事でインタビューをしてきました。
その恭子さんが、母親とともにイベントに登壇することになったと聞いて驚きました。
去年出版した著書「ひきこもりの真実-就労より自立より大切なこと」の中で、10代から始まったひきこもりの生活と、母親との確執を赤裸々につづっていたからです。
母親には執筆の許可は得たものの、詳しい内容を告げないまま出版に至り、本を読んだ感想すら直接聞けていないと言います。
「『書きますよ、あなたのことを』といったら、『好きに書いたらいい』とだけ言われました。母は本を読んでくれたようですが、私には何も言ってこないので、怒っているかどうかもわかりません。家族には『これじゃあ鬼ばばじゃないか』とつぶやいていたそうです」
恭子さんにとって、母親は“全く母性を感じない”存在だったと言います。
母親の口癖は、「やるからには一番になりなさい」という言葉で、恭子さんは、期待に応える“よい子”であろうとし続けました。
小学1年生から始めたピアノでは、「音大に入る」という母親が立てた目標に向けて、ピアノの横に座り続ける母親から厳しい指導が飛びました。
中学に入ると今度は「まんべんなく点数をとること」と求められ、恭子さんが希望した高校とは違う、進学校へ進みました。
「私の言うことを聞いていれば間違いない」という母親に意見することはできませんでした。
父親の仕事の都合に合わせて全国を転々とする、転勤族だった一家。
目まぐるしく変わる環境や、転校するたびに変わる校則への適応に苦しみましたが、母親に相談することはできませんでした。
その後、母親の勧めで進学した高校で、過呼吸や急激な体重の減少などの深刻な身体症状が現れるようになり、不登校に。
さらに転校先の高校も1日でやめてしまいました。
通信制高校に通ったり、アルバイトをしたりするなど、もがきながらも断続的に10年以上ひきこもっていました。
そんな恭子さんに、母親は、毎日のように父親や祖母への不満をぶつけていました。
「毎日のように母の愚痴を聞かされていた私は、自分のことを『ゴミ箱』なんだなと思っていた。『母も大変だから、誰かが聞いてあげなきゃいけないんだ』と思っていたのだ。でも、はき出す母はスッキリするかもしれないが、私はネガティブな言葉を浴び続けるので、そのたびに具合が悪くなった」(「ひきこもりの真実-就労より自立より大切なこと」
私は“鬼ばば”だった
都内で開かれたイベントには、ひきこもりの子を持つ親や経験者など、50名を超える人たちが集まりました。
そこに、母親の林節子さん(仮名・84歳)の姿がありました。
「すごい鬼ばばだなと思いました。でも、娘をいじめようとか、虐待しようと思ってやったことではありませんでした。私が育った時代と、娘の時代には経済的にも世の中的にもすごく隔たりがあります。私は傷つきながらも、“なにくそ”という気持ちで立ち上がってきましたから。(娘は)少し生ぬるいところがあるので、ハッパをかけたほうがいいかなという、そういう感覚はありました」
「子どもから見たら相当ひどくても、『わざとやっていたわけではない』と、おそらくすべての母たちはそう思っているでしょう。自分がひどいことをしていると思ったら、止められると思いますので。でも、私はハッパをかけて奮起するタイプではないので、安心させてほしかったです」
やりとりの中で、節子さんは、母親になる自信を持てないまま子どもを産み、葛藤を抱えていたことを明かしました。
「私みたいな不完全な人間が子どもを産んでいいんだろうかと。親の欲望だけで子どもを産んでもいいのか、すごく悩んで。でも産んだ以上は、もう完璧に育てなきゃいけないという、力の入り具合が半端なかったです」
“ついでに生まれた子”として
母親としての葛藤があったと語った。
ご自宅に伺い、詳しくお話を聞かせていただきました。
節子さんは、明治生まれの両親の元に8人兄弟の下から2番目で生まれました。
無口だった母親と、職人の父親から、“何かをしてもらった”という記憶はなく、全て自分一人で決めてきたと言います。
そんな自分を「ついでに生まれた子」と表現しました。
小学1年の頃に終戦を迎え、父親は失業、暮らしぶりの厳しかった一家。
節子さんは高校卒業後、進学を諦めて生命保険会社に入社しました。
25歳で結婚したあとは、やりがいのある仕事や趣味の登山など充実した日々を送り、DINKS(共働きで子どもを持たない夫婦)として暮らしていきたいと考えていました。
「私自身も、母親から愛情を受け取った記憶がなくて、“自分には母性というものがないんじゃないか”と自信がありませんでした。完璧主義なところも、子育てには向いていないだろうな、と思っていました」
しかし、子どもを切望する夫に折れる形で出産。
仕事をやめ、夫の仕事に合わせて全国を転々とするようになりました。
当初不安を抱いたとおり、「やるからには完璧に」という思いは、子育てに向かい、そして娘にも影響を与えていくことになりました。
「私は子どもの頃にやりたいと思ってもできなかったことはたくさんあるわけじゃないですか。だから娘には、やるんだったらある程度まできちんとやりなさいみたいな。やるからには完璧に。自分もそうやってきたし、娘にもできると思って疑いを持ちませんでした」
“父親不在”の不安の中で
転勤を繰り返し、誰も頼ることができない中での子育て。
不安は常につきまとっていました。
しかし、夫は仕事で帰宅が遅い上、あまり物を言わない性格でした。
「元気に育っていればいいじゃないか」
「名前を書けばどこかの学校には受かるだろう」
子どもたちの教育について相談したくても、取り合ってもらえないことが続いたと言います。
「私は自分のやり方に自信が持てない。夫には『私これでいいのかしら。この子育てで良いのかしら』っていうのはすごく問いかけはしてたんですね。でも、全然耳を傾けようとしませんでした。彼の中では、もともと『元気で命さえあればいい、生きていればそれだけで良い』っていうのがあったようです」
そうした態度を、あまりに脳天気だと感じ、いつもいらついていたという節子さん。
いらだちは、“厳しさ”という形で子どもたちに向かっていきました。
特に、長女である恭子さんに対しては、不満をはき出すこともありました。
「今振り返れば、うっせきして溜まり込んだものを、私はそれこそゴミ箱に捨てるように、無意識のうちに口にしていたと思います。年端も行かない子どもにそういうことを言ったのは、私は罪深いと思います。(恭子さんが)何年間も苦しんだ時間は、一番多感な時期で、一番楽しいはずの時期でした。それをつぶしてしまった。やっぱりひどいことをしたと思います」
わかりあえずとも
父親の他界をきっかけに、2年前から同居をしている2人。
不仲のまま縁を切る親子もいる中で、ひきこもり始めた頃からの40年、「完全に断絶したことはない」そうです。
その理由として、恭子さんが20代から30代にかけて、とことんぶつかりあった10年間があったからだと言います。
20代の頃、自身の生きづらさの源流が母親との関係にあると感じた恭子さんは、それまでの憤りを、夜な夜な母親にぶつけるようになっていました。
「夕飯が終わって寝ようという時間に、何時間も突っかかってくるわけですよ。明け方の3時、4時までのことも。翌日仕事があるので『ちょっと悪いけどいい加減にしてくれない?』というと『仕事と私とどっちが大事なの?』ってなるわけです」
「私も絶対負けられないから、本気でぶつかり合う。でも、終わって必ず何か1つ、気づきがあるんですよ。娘の思っていることや考えていることです。何十回も繰り返して、私の中で少しずつ積み重なってきて、理解に繋がっていきました。それと同時に、私自身を振り返る糧にもなりました」
一方で、恭子さんにとっても、母親とぶつかり合う経験は、違う意味で大きな糧となっていました。
それは、「母親は自分とは別の人格であって、わかり合うことは不可能である」ということに気付いたことでした。
「はっと気付いたんですよ。あ、これ無理だなと。ある種の“諦め”ですよね。母に自分のつらさをわかってほしいと思って、何度ぶつかってもだめでだめだって延々繰り返して、ようやく腑(ふ)に落ちたっていうんですかね。それで母親のほうを向くのではなくて、自分の事をちゃんとやらなきゃって思えました」
「自分の人生を取り戻さなければ」
その後、恭子さんは家を出て、アルバイトをしながら当事者の会の活動を始めました。
さらに仕事や結婚など、自分の世界が広がっていく中で、「自分の人生の舵(かじ)を取り戻した感覚を得られた」と振り返りました。
「かつては私の世界のほぼ9割が母で占められていましたが、母という存在が、だんだんだんだん小さくなっていって、私という世界の中の一部にすぎないという風に変わっていきました。物理的な距離とともに、改めて自分を生きられるようになっていきました」
それからおよそ20年。
「母と私は非常に近い存在ではあるけれども、最もわかり合えない人という意味では一番遠いですよね。でも、性格も感じ方も育ってきた時代も環境もまったく違うので、当たり前なんですよね。どんな人間どうしだって、違う人がいれば、ちょっとそりが合わないという人もいる。たまたま私と母がそうだったというだけのことで、べつに悲しいことでもなんでもない」
“元気で生きていれば”
自宅では、ふたりでアルバムをめくりながら会話をはずませる姿がありました。
そこには、恭子さんが生まれた頃の写真や、初節句、クリスマスなど、成長の記録がこと細かく残されていました。
その脇に添えられていたメッセージには、一人の新米の母親の率直な思いが綴られていました。
「変な顔してるな-。それでもよその赤ちゃんよりかわいく見えたり、小さいと思い心配になったり。親ばかがさっそく顔を出す」
「おばあちゃんいわく『日増しに大きくなるね』内心ママもうれしい」
「初めてママとお風呂。こんなにも子どもってかわいいもんかしら」
「母には母性がないとか言っておきながら、愛されなかったとは思ったことないんですよね。結局はうちにはいつもこれがあったから、思いっきりぶつかり合えたし、断絶せずにいられたんだと思います」
こうしてアルバムや母子手帳をめくって記憶をたどる中で、わき上がってきた思いがあると、教えてくれました。
「それこそもう1回子どもを全部私のおなかの中に戻してね、やり直せるもんなら、と思います。『もっともっとあなたたち自由に伸び伸びとやらせてあげるのにね』って。私が経験してきたみたいに、ぶつかってけがもするだろう。痛みも受けるでしょう。
だけどそれもすべて『経験になるからそれもいいんじゃない?そういう人生も』っていうふうに言ってあげたい、したいですね。伸び伸びと自分が自分らしく生きられるように親はあくまで後ろからバックアップしていくのが親の務めっていうか、うん、役目じゃないかなって今は思います」
そして節子さんは、最後に、2年前に他界した夫。
「“元気で生きていればいい”と脳天気なように見えた夫は、親は子どもを見守ってさえいれば良いと言うことがわかっていたのかもしれないなと、最近は思います。私は後ろも振り向かず、横見もしないでひたすら突っ走ってきたから、気づくことができませんでした。
80超えて気づいても遅いかもしれませんが、死ぬ前に気づくことができてよかったです。残りの人生は、こうじゃなきゃいけないということにとらわれず、自分の気持ちに素直に生きたいと思います」