「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「戦後日本の回想・S26年」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-14 07:10:39 | 温故知新


「戦後日本の回想・S26年」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
戦後、昭和25年より経済は朝鮮戦争の軍需景気によって街々の工場は活気づいていたが、マッカーサーとアメリカ大統領の朝鮮戦争の意見の相違によって連合軍最高司令官のマッカーサーは解任された。ワンマンのマッカーサー帰国に空港に20万人も見送り、日本の独立と自立を促すサンフランシスコ講和条約に野党社会党らと単独か全面講和かに意見が分かれ、国会は紛糾して吉田首相の単独講和に進めらえた。7月には朝鮮戦争も休戦となり、マッカーサーの後任のリッジウエイがGHQを引き継いだ。日本も独立に向かって、日本航空を発足させ、民間ラジオを開局させ、茶の間の上の棚にラジオが置かれ、国民の落語・浪曲・連続ドラマと多彩な楽しみが増えた。またNHKがテレビ初の実験実況中継でプロ野球を放送した。この年からパチンコが大流行し出し、また映画の製作も各社盛んに制作され、ベネチェア映画祭で「羅生門」グランプリ受賞し大いに喝さいを浴びた。また書店には絶大な人気を博した「鉄腕アトム」が少年らに夢を与えた。



「戦後日本の回想・S25年」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-13 08:37:05 | 温故知新


「戦後日本の回想・S25年」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
戦後2,3年ともなれば、工業や建設、道路など国民のライフラインの建設の槌音高く、荒廃した闇市を壊して都市計画を進めて再建していった。対外的にも貿易も徐々に向上し、国の成長を見込めるようになってきた。国民の娯楽も映画、戦後歌謡、プロ野球の初ナイターが行われ、戦前ものの小説やアメリカからの文化や流行が導入され、ラジオに耳を傾けて流行歌や流行のファッションや芸術文化も取り戻し自由な表現で絵画や小説が次々発表された、小倉市初競輪を開催され、宝くじに夢を求めたり、テレビから連載ドラマや、「東京ウギブギ」が爆発的に流行した。また天才少女歌手美空ひばりが巷に流れ、企業と財界の癒着で「昭和電工議国事件」まで起こり、多党政党で芦田内閣が誕生した。
戦後処理に東条英機の絞首刑の東京裁判が判決下された。これからの日本は世界各国に戦争責任の「賠償問題」が大きな壁となって立ちはだかっていく日本だった。日本国中の工作機械・織機、工作機器など剥がされて東南アジアに戦争責任の賠償として船で運ばれていった。日本の再建はゼロからの再建ではないマイナス100%からの再建であることを忘れてはならない。



「戦後日本の回想・S23年」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-13 07:17:54 | 温故知新

「戦後日本の回想・S23年」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
戦後2,3年ともなれば、工業や建設、道路など国民のライフラインの建設の槌音高く、荒廃した闇市を壊して都市計画を進めて再建していった。対外的にも貿易も徐々に向上し、国の成長を見込めるようになってきた。国民の娯楽も映画、戦後歌謡、プロ野球の初ナイターが行われ、戦前ものの小説やアメリカからの文化や流行が導入され、ラジオに耳を傾けて流行歌や流行のファッションや芸術文化も取り戻し自由な表現で絵画や小説が次々発表された、小倉市初競輪を開催され、宝くじに夢を求めたり、テレビから連載ドラマや、「東京ウギブギ」が爆発的に流行した。また天才少女歌手美空ひばりが巷に流れ、企業と財界の癒着で「昭和電工議国事件」まで起こり、多党政党で芦田内閣が誕生した。
戦後処理に東条英機の絞首刑の東京裁判が判決下された。これからの日本は世界各国に戦争責任の「賠償問題」が大きな壁となって立ちはだかっていく日本だった。日本国中の工作機械・織機、工作機器など剥がされて東南アジアに戦争責任の賠償として船で運ばれていった。日本の再建はゼロからの再建ではないマイナス100%からの再建であることを忘れてはならない。



「戦後日本の回想・S22年」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-12 08:22:18 | 温故知新


「戦後日本の回想・S22年」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
「戦後直後の政界は多党政治で自由党から民主党、社会党、共同民主党や進歩党と乱立し離合集散を繰り返し、不安定な政治運営、国家予算も疲弊し、アメリカからは政策に注文マーシャルプランを進めて、物資不足で闇市や買い出しに、ヤミ米が横行し、国民の娯楽はラジオクイズに連続放送に映画館は人だかりで、夜ともなれば学校の校庭で無料の映画の夕べで庶民は唯一の楽しみで、街には芝居小屋に土さ廻りの旅の一座が巡業し、食事は代用食と言って、サツマイモや麦飯で空腹に耐えた。一家に一つの裸電球と度々電力不足で停電でろうそくで長い夜を凌ぎ、交通の便も悪く舗装のしていない砂利道に行き交い、少しの雨でも泥濘になり、雨が降り続けば一面川のように、不衛生な状態に、配給に行列に並び、その日暮らしの日々であった。東京地裁の判事は配給の米だけで暮らし、栄養失調で亡くなった。やりくりやりくりの日々の生活であった。庶民の不満は労働組合へ組み込まれストを決行、マッカーサー総司令官の命令で中止され、日本政府よりGHQの発言のほうが強力であった。アメリカからは支援の援助があったが、東南アジアの国々からの国交回復は賠償問題から始めなければならず、国家再建と賠償の二重の苦しみを不況と貧困に立ち向かわなければならなかった。。





「歴史の回想・天狗党の乱」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-11 07:58:10 | 温故知新


「歴史の回想・天狗党の乱」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
1、「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。


「歴史の回想・太平洋戦争」アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍

2020-04-11 06:13:52 | 温故知新

「歴史の回想・太平洋戦争」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍
太平洋戦争(戦争の呼称)昭和16年(1941)から1945年にかけて、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間で戦われた戦争。国際的には第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては1931年満州事変以来の対中国侵略戦争を拡大したもので、政府はこの戦争を「志那事変」を含めて「大東亜戦争」と呼称した。しかし、敗戦後の1945年9月以降は太平洋戦争と呼ぶようになった。太平洋戦争はまた、満州事変及び日中戦争とともに「十五年戦争」と総称される場合もある。なお学会には、戦争の実態を表す「アジア・太平洋戦争」の呼称を使用すべきでないという意見もある。「開戦までの経緯」1937年の盧溝橋事件で本格化した日中戦争は、日本では「志那事変」と呼ばれたが、紛れもなく全面戦争となった。当初、政府も軍部も中国の抗日民族統一戦線の力量を軽視していた。ところが中国の予想外の強い抵抗で戦闘は拡大の一途をたどり、1938年秋の武漢・広東攻略戦で、日本軍の攻撃は限界に達し、戦争は長期持久戦の泥沼に落ち込んでいった。しかも一方で中国と戦いながら、陸軍はソ連、海軍はアメリカを敵として軍備の大拡張続けていたから、軍需の拡大が国民生活をを圧迫し国内の矛盾は深刻になっていった。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、1940年春以来、ドイツ軍が英仏軍を破り、フランスを降伏させるなど、西部戦線が電撃的勝利を収めと、日本はこれに便乗して東南アジアに進出してその資源を手に入れようとして行き詰った日中戦争を打開しようとした。そして南方に進出拠点として、1940年9月仏領インドシナ北部に武力進出、さらにドイツ、イタリア日独伊三国同盟を結んだために、アメリカ、イギリスとの対立が激化すた。アメリカは石油の輸出制限の強化するなど経済制裁に乗り出した。第二次近衛文麿内閣は、1941年4月から日米間の国交調整を図ろうとして日米交渉を開始した。アメリカは日本の中国からの撤兵を求め、日本は撤兵に応じず資源獲得を求めたが、交渉妥結には至らなかった。この間に1941年6月独ソ戦争準備と南方に進出の両方を進めるという南北併進の国策を決定した。しかし日本は期待に反してソ連敗北の事態は起こらず8月に対ソ攻撃のの計画を中止、南進を進み始めた。9月6日開戦を決意し躊躇した近衛文麿内閣が総辞職し、同月18日に主戦論者の東条英機内閣が成立した。東条内閣は11月5日に御前会議に12月初頭の開戦を決定し、11月26日アメリカから従来通り中国から撤兵することを要求された。12月1日にの御前会議に最終的に対米英戦争を決定した。1941年12月8日早朝、宣戦布告に先立って陸軍のマレ半島に上陸、海軍の真珠湾攻撃が奇襲戦法によって始まった。当初は相手の準備不足に付け込み計画通りに進んだが、兵站戦の準備不足に物資、武器不足に徐々に後退し、後手後手の作戦に後退の一途をたどり、太平洋海戦で主力空母や戦艦を失い、攻略した南太平洋の拠点の島々はアメリカ軍に玉砕をしていった。日本軍の防衛線は次々破られて、特攻隊を仕立て若い兵士の肉弾戦闘機となって自爆していった。それでも事態や、戦線は好転せず、後退を強いられて、敗戦を重ね、日本兵・民間人には過酷なイバラの道に突き進んでいった。







歴史の回想・『太閤の夢の夢』アマゾン・グーグル・楽天・書籍電子書籍紹介 角川電子書籍・

2020-04-10 18:27:03 | 温故知新

『太閤の夢の夢』アマゾン書籍電子書籍紹介 角川電子書籍・
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
 織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
 天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
 秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。




「歴史の回想・疫病の襲来」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍

2020-04-10 17:52:18 | 温故知新

「歴史の回想・疫病の襲来」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
「古代日本に天然痘の襲来」人類誕生後、弛まない進化によって、この地球上に高度な文明を構築し地球上の征服者として君臨してきたが、その文明科学に立ちはだかる三大脅威・苦難が「天災と戦争と疫病」がある。日本史上を見ても、平城京に襲った天然痘の大流行があって、政治の政権中枢にあって権勢を誇った「藤原四兄弟」は次々に天然痘(疱瘡)に亡くなった。一時は政治も朝廷の儀式・行事も機能しなくなったという。また民百姓まで伝染し、一説に日本の人口の4分のⅠが失われたという。
今日では放送は根絶されたというが、我々子どもの子供頃は学校で疱瘡の予防接種が腕に傷つけ菌を植え付け抗体をつけたものである。「東アジアから日本に来襲した天然痘」
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。
『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。
735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。





歴史の回想・「浅井長政の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-04-10 17:45:10 | 温故知新


「浅井長政の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
浅井長政(1545年~1573年)北近江の戦国大名。足久政の子。名ははじめ賢政。備前守を称す。南近江の戦国大名六角氏の重臣平井定武の娘と結婚したが、六角の下に立つことを嫌って離縁して、1560年(永禄3)の野良田表の戦いで六角氏を破った。1567年、織田信長が美濃平定すると、信長の妹お市の方と結婚して信長と同盟関係を形成させた。浅井氏は、初代浅井亮政の時から越前朝倉氏とのつながりが強く、1570年(元亀元)4月、信長が朝倉氏を攻めたときは、信長との同盟を破棄。同年6月の姉川の戦いで、長政は小谷城に籠城する形になり、1573年(天正元)信長方に攻められて落城、自刃した。お市の方と3人の娘(茶々・淀殿)発、小督は城を出たが、嫡男万福丸は木下秀吉によって殺され、浅井氏は断絶した。





「戦後日本の回想・S21年」アマゾン・グーグル・楽天・・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-08 06:17:51 | 温故知新

「戦後日本の回想・S21年」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
戦後の間もない昭和21年は瓦礫と廃墟と化した国土の再建と、衣食住の食糧難が国民に敗戦という重苦しい国民の心に大きな重荷となって死にものぐるいで、形振り構わず、ただ今日一日を懸命に生きる。闇市は全国的に乱立、大日本帝国の価値観の転倒、アメリカに追準するほか成すすべがなかった。進駐軍に媚びて物乞いまがいの誇りを捨てての生き残りであった。GHQは戦前の軍部責任執行者・政治家などを「公職追放の処分をした。所が治安・公的処理が不全になって国家運営が滞り、その後、徐々に公職に復帰させていった。国民はアメリカ的民主主義を理解して、それなりの自由主義を理解をしていった。文化芸術は思想的理由で迫害されていた左翼と言われる人々の自由な表現ができるようになっていった。左翼労働者の共産党は潜行して活動から、堂々と表面に出て活動の場を与えられ、GHQも労働者や労働組合運動を理解を持って応じていた。何より戦後日本人の娯楽の面で戦前になかった視野が広まっていったが、食料品や生活必需品は慢性的に困窮し、栄養失調に日々の食料品に闇市や闇米によって流通していった。筆者は進駐軍の脱脂粉乳を飲んだ子供の一人である。当時の食糧難の時代でも脱脂粉乳の不味さは未だに忘れられない。




「戦後日本の回想・S20年」アマゾン・電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-05 19:49:33 | 温故知新

「戦後日本の回想・S20年」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
戦後日本の始まりは、昭和16年12月8日、日本軍が、マレー半島、真珠湾を攻撃以来、米・英・蘭と開戦「太平洋戦争」以来、拡大化の一途を辿った日本も兵站戦と軍需物資や経済的困窮に戦局は悪化、昭和20年7月17日~8月2日のトルーマン・チャーチル・スターリンのポツダム会談で開催された「ポツダム宣言」を日本が受諾拠って終戦を迎え、8月15日の「天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)から日本の戦後が始まった。焼土と化した日本に無条件降伏以外に選択肢はなかったが、戦争終結には有利な条件で終結を望み、連合国と駆け引きの応酬でが繰り広げられた。何より日本の陸海軍の参謀から政党・政治家らにその判断はゆだねられ、天皇も捨て身で戦犯も覚悟の上に重臣に戦後日本の未来を託された。何百年いや何千年皇祖に仕え、今後も保持伝統を維持したい重臣らの思いは「天皇の温存」の思惑があった。連合国は天皇に責任を問うものも多かったが、それら全てをマッカーサー総司令官にその判断を全てを任すことで戦争終結の交渉に臨み、荒廃した日本に足を踏み入れた。「日本に民主主義を普及させる」そんな意気込みにGHQの戦後日本の統治が始まった。
筆者自身の戦後は、母方の在所に疎開し、身を寄せて暮らしていた。ある日の事「お父さんが」戦地から帰って来たの報せに家に帰り対面したが、生まれて間もなく父は招集、父の仕事は職業軍人、陸軍刑務所の看守、裏から手を回せば戦地に赴くことはない。しかし、日本男児の意気込みは、自ら望んで戦況の厳しい白骨街道を残した禍根のインパール作戦に志願して戦地に赴いた。父に二人の子供残しての激戦地の志願であった。しかも生まれて間もない筆者と2歳上の姉と、二十歳そこそこの母残して広島からの輸送船の出航であった。戦地で三年、九死に一生を得て日本に復員した父は母の実家に向い、われら待ち受ける家族に対面したのである。筆者は3歳余りの年月を経ての対面に面影も知る由もない。おかあちゃん、この「おっちゃん」何処の人やと言って警戒してなかなか懐かなかった。二歳上の姉は「父ちゃん、父ちゃん」と戦地に行った父の面影を覚えていて甘えていた。これも戦争のなせる禍の出来事であった。



「歴史の回想・箱館戦争」アマゾン・グーグル。電子書籍紹介。楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電

2020-04-04 17:00:19 | 温故知新


「歴史の回想・箱館戦争」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
箱館戦争(五稜郭の戦)蝦夷地箱館を中心に道南で戦われた。戊辰戦争の最期の戦いで箱館戦争ともいう。五稜郭の戦と呼ばれるのは旧幕府軍が本拠を置いた五稜郭の攻防戦に因む。旧幕府の海軍副総裁榎本武揚らは東洋一の最新鋭軍艦開陽丸などを擁して。1868年(慶応4)4月の江戸城開城後8隻の艦隊で品川沖を脱走。前老中板倉勝静らの旧幕府、フランス軍事教官ブリュネや旧幕兵を加えて兵力1500人を集め、10月に蝦夷地鷲ノ木に到着し、南下して箱根へ向かった。新政府の箱館府知事清水谷公孝は青森に敗走旧幕府軍は、11月には松前藩の福山城を攻撃し、道南を平定した。五稜郭に本営を置き、陸海軍の仕官以上投票によって榎本武揚を総裁に選び、陸軍奉行に大鳥圭介が陸軍奉行並びに土方歳三が就任し、軍事指導に当たった。外見としては共和国制を敷いたが、政権の経済的な基盤は旧来の場所請負制と、強奪的献金にあった。1869年(明治2)2月新政府は黒田清隆らを参謀に大軍で進軍を開始した。前年11月、開陽丸は座礁し沈没しており、榎本軍は海軍の要を失っていた。榎本軍は3月25日岩手県宮古港の新政府軍艦隊に奇襲をかけたが失敗。4月、新政府軍は江刺周辺に上陸し、矢不来の激選を制し、箱館を海陸から総攻撃をした。旧幕府軍の中島三郎助らは徹底交戦して16日に戦死したが、五稜郭で防戦した榎本らは18日に降伏した。この戦争を最後に戊辰戦争は終結した。





「歴史の回想・承平天慶の乱」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍

2020-04-03 08:14:27 | 温故知新

「歴史の回想・承平天慶の乱」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
平将門の乱・平安前期、関東に起こった内乱。下総・常陸の一族間に私闘を繰り返した平将門が939年(天慶2)11月常陸国府を焼き払ってのち、下野・上野の国府を次々襲って国司を追い払って、自ら新皇を称し、坂東諸国に受領を任命するなどしたもので、古代末期の本格的な反乱。藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と言われている。はじめは女論(女性をめぐる争い)により931年(承平元)叔父で舅の良兼と争う。935年に叔父国香や前常陸国野本などの合戦で殺害し、ために族長の伯父良兼の率いる一族の軍と闘うこととなり、源護の告発で中央政府の召還を受けた。将門は上京し釈明して許され帰郷したが、なお一族と国香の貞盛を信濃国国分寺付近に追って合戦し、摂政藤原忠平より召喚を受けている。938年(天慶元)秋頃、武蔵国権守興世王らの徴税攻勢に抵抗する足立郡司武蔵武芝に加担し、939年2月頃、武力調停で興世王と和解したが、武蔵介源経基は自分が謀殺と通報した。同年11月常陸国司らに常陸国府軍闘い国府を占拠、略奪。興世王の「一国を討つ責めは軽くはない。同じことなら坂東を慮掠して様子をみよう」の言をいれ、12月に下野・上野と次々に国府に襲い掛かり手中に収めた。上野国府で坂東諸国に受領を徐目を行い、また神がかりした昌妓巫女の「八幡大菩薩菅原道真の霊が朕の位を将門に授ける」との宣託により新皇に即位した「将門記」は記す。また下総の邸何に王城を建て大臣以下百官を任じ、内印・外印の寸法を定めたと記すが、定かではない。しかし弟の平将武らを伊豆国守などに任じて坂東を制圧、新たな政権樹立を企てた可能性がある。939年12月下旬、豊前国・播磨国の国司を襲撃した藤原純友は、4月に発生した出羽国の俘囚の乱や、将門の常陸国襲撃の報せを当然耳にしたであろう。将門が純友の国司襲撃事件を知ったか定かではないが、相前後して940年初頭よリ坂東諸国の制圧を拡大させ、地域での利害衝突はなお激化していった。そこで政府は、年末に発生した純友国司襲撃事件に対して、都の防備を固め、諸国追補使を、ついで追補凶賊使を、任命し瀬戸内海に送り込んだ。他方、将門を討伐する抜きんでた殊勲には破格の恩賞を定め、また民部卿藤原忠文を征夷大将軍右衛門督に任じ討伐の決意を固め、2月8日に初遣のための節刀賞与が行われた。恩賞賜与の決定は将門と対立する武装勢力をいたく励まし、2月に下野国押領使藤原秀郷、平貞盛らは大軍を持って将門軍と合戦を繰り返している。春の農事で従類・伴類の集まらない将門軍の隙をつき奇襲により、将門は2月14日に下総国猿島で敗死した。以降は恩賞を預かるために残党がりが行われた。藤原秀郷には破格の従四位下下野守に、貞盛には従五位下に任じられ、謀反を密告した源経基はすでに従五位下に叙され、また藤原純友追討に功により中央・地方の官を歴任していった。経基は清和源氏、秀郷は下野国小山・結城



歴史の回想・「坂上田村麻呂の謎」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・角川。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍

2020-04-02 12:48:34 | 温故知新


「坂上田村麻呂の謎」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
坂上田村麻呂(758年~811年)平安前期の武将。坂上苅田麻呂の子。791年(延暦10)蝦夷征伐のために征夷副使ににんめいされる。794年の征夷で戦果を挙げ従4位下に昇進。796年陸奥守で鎮守府将軍を兼務、実質的な陸奥支配の最高責任者となる。797年には征夷大将軍に任命され、戦線を北上させて胆沢城を築城。多賀城にあった鎮守府をここに移転させた。またこのときの征夷事業では蝦夷の首長阿弖流為・母礼を降伏させて、これを伴い平安京に凱旋。二人の助命嘆願を提出するも受け入れられる、二人は再度征夷大将軍に任命されたが征夷は実施されなかったので実働はない。805年功績と、桓武天皇の渡来系士族重視路線によって参議に就任、翌年には中納言にした。薬子の変では、鎮圧に貢献。粟田別業にて死去した。ときに正三位大納言兼右近衛大将兵部卿であった。


歴史の回想「信玄の西上作戦」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍

2020-04-01 05:43:46 | 温故知新

「信玄の西上作戦」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
「西上作戦の起因」(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。 
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している。
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。
信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。
これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、(武田軍は)遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
劣勢に追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。
しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。
信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。