「芭蕉紀行漂泊の憧憬」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
「月日は百代の過客(かきゃく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮(ぎょうしゅく)された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕(うたまくら)を辿りながら、時には杜(と)甫(ほ)の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧(はいかい)を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇(きう)壮大(そうだい)な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情や世相が知ることができることにある。
今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。
先人に学び貴ぶ謙虚な芭蕉の姿勢が読み取れる。現代人には、その先人への畏敬と謙虚さが欠落していることを、「紀行文」が教えている。
また芭蕉の物事の興味旺盛は物見遊山のなかに、土地土地の人々の暮らしぶりを観察し俳句に綴っていく紀行であった。
また道中の出来事風景や習慣、習わしを詳しく書き残したことで元禄二年(1689)の時代背景を知ることが出来る。
「月日は百代の過客(かきゃく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮(ぎょうしゅく)された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕(うたまくら)を辿りながら、時には杜(と)甫(ほ)の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧(はいかい)を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇(きう)壮大(そうだい)な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情や世相が知ることができることにある。
今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。
先人に学び貴ぶ謙虚な芭蕉の姿勢が読み取れる。現代人には、その先人への畏敬と謙虚さが欠落していることを、「紀行文」が教えている。
また芭蕉の物事の興味旺盛は物見遊山のなかに、土地土地の人々の暮らしぶりを観察し俳句に綴っていく紀行であった。
また道中の出来事風景や習慣、習わしを詳しく書き残したことで元禄二年(1689)の時代背景を知ることが出来る。
「歴史の回想・土佐勤王党」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍
土佐勤王党の下士(郷士、足軽等)庄屋(村役人)階層を基盤として結成された尊攘派同盟。文久元年(1861)8月、江戸遊学中の郷士武市瑞山(半平太)らが水戸・薩摩・長州の尊攘志士らと京都に集結を約束、帰郷して190余名の血盟者110余名の支持者を得た。参政吉田東洋は公武合体路線をとり、主張は退けられた。武市らは反吉田の保守的門閥派と結託し1862年4月登用を暗殺し、朝廷から土佐勤王への国事周旋の命をを得、藩主山内豊範を擁して入京、薩長に並ぶ勤王藩の名声を得た。盟主武市は土佐藩勤王派の代表として朝廷政府に影響力を行使、攘夷督促の勅使(三条実美、姉小路公知)に随行し幕府に攘夷実行を迫った。しかし、幕府準顧問の隠居山内容堂は1863年2月に腹心の吉田を殺した勤王党への復讐を開始、八月十八日の政変を機に武市ら幹部は収監、東洋暗殺事件を厳しく糾明、慶応元年(1865年)5月、武市を断罪した。同志多数が迫害を受け脱藩、坂本龍馬も中岡慎太郎が代表となって薩長同盟の周旋するなど幕末動乱期最終局面での重大な運動に尽力し、王政復興の方向性に甚大な影響を与えた。
「近江天保一揆の起因」(おうみてんぽういっき)は、江戸時代後期に起こった百姓一揆。甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日)近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民が、江戸幕府による不当な検地に抗議し、『検地十万日延期』の証文を勝ち取った。一揆後、幕府により数万人を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。3一揆への道程
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「歴史の回想・日露戦争」アマゾン電子電子。紹介・角川電子書籍・
日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。ロシアはバルチック艦隊を1904年10月に本国から送り出し、ウラジオストクの艦隊と合流させて日本海の制海権の奪還に目指しなたが、5月27,28日の対馬海域での回線で日本の連合艦隊に敗北した。「講和」これ以上は戦争の継続は国力の限界を超えていたので、日本は奉天会戦と日本海海戦とを契機にアメリカに講和の斡旋を強く依頼した。他方、ロシアも1905年1月の革命運動の高揚依頼、その政治体制は大きく揺らいでいたし、欧米列強も帝政ロシアの崩壊を恐れて講和へと動いた。その結果、I、ローズベルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれ、9月5日に日露講和平和条約が結ばれた。
「歴史の回想・二・二六事件」アマゾン電子電子。角川電子書籍・
二・二六事件は昭和一一年(1936)早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件。陸軍第一師団下の歩兵第一・第三連隊を主力とした将校20名、下士官88名、兵1375名などが総理大臣岡田啓介、内務大臣斎藤実(即死)大蔵大臣高橋是清(即死)教育総監渡辺錠太郎(即死)らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯が原町で前内大臣牧野伸顕を急激した。蜂起部隊は永田町・三宅坂一帯を占拠し、政治の中枢機能は完全に麻痺した。収集を急ぐ陸軍大臣川島義之は宮中の協議の結果、この日の午後3時30分「陸軍大臣告示」を決起舞台に下達した。そこのは「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノと認ム」と記され、状況は決起部隊に有利に展開したかに見えた。しかし、翌27日午前8時50分、東京市には戒厳令が施行され、28日午前5時8分には「反乱軍」の原隊復帰を命ずる「奉勅命令」が下された。この状況転回には、重臣の殺害に激怒し、自ら近衛師団を率いて討伐するとさえ言った昭和天皇の強い意思が働いていた。事態は杉山元参謀総長と石原莞爾作戦課長を中心に鎮圧に向けて動くが「紅軍相撃」の危機も切迫、これを回避するため「下士官、兵に告ぐ」というラジオ放送が流され、帰順を勧めるビラがまかれた。こうして29日の午後、反乱軍は帰順し事件が終結した。同年3月4日「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」の特設陸軍軍法会議が設置され。7月5日には死刑17人を含む判決が出された。また翌年8月には村中孝次、磯部浅一、とともに思想的指導者として北一輝、西田税が処刑された。この事件の背後には、権力の掌握によって「高度国防国家」の次元を目指す統制派幕僚と「君側の奸」を排除した「一君万民」の理念の実現(昭和維新)を目指す皇道派青年将校との、国家構想をめぐる二重の対立が含まれていた。その意味で、反乱軍の鎮圧は軍幕僚の主導権の確立を意味し、以後、軍部は政治的発言を増し、戦争への道を突入していった。
「山名宗全の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
山名宗全(持豊)(1404年~1473年)室町中期の武将。幕府侍所頭人。但馬等の守護。法名宗全。官途は左衛門佐・右衛門督・弾正少弼。山名時煕の次男。1431年(永享3)兄持煕が将軍足利義教の勘気に触れて廃嫡されたあと、1433年父から家督を譲られる。但馬・備後・安芸・伊賀の4か国の守護に就任、1435年父の死により山名氏一族の惣領を継ぐ。1440年6月以前に侍所頭人と山城守護になり、1441年(嘉吉元)7月頃まで在任。同年嘉吉の乱では搦め手軍の総大将として播磨に進撃し、赤松満祐を自刃させた。この功により赤松氏の旧領国播磨は持豊に、備前・美作も山名一族に与えらえた。山名氏併せて9か国の守護となって管領家細川一族の8か国を凌ぐに至った。その後持豊の娘を細川勝元の室とし、細川氏と提携してきた。1450年(享徳3)赤松則尚が勝元らを頼って赦免されたことに強く反発したため、将軍足利義教から追放されようとしたが、持豊が隠居家督を嫡子教豊に譲って事なきを得た。しかし1458年(長禄2)赤松政則が同じく勝元に頼ってきて赦免されるに至って、持豊と勝元の対立が決定的になった。伊勢貞親と季瓊真蘂が足利義視暗殺を図った文正の政変ではなお両者は同調したが、畠山・斯波家の家督争い勝元に対抗できる畠山義就・斯波義康を引き立てた、将軍家の後継争いでも足利義尚を支持した
ことから、ついに応仁文明の乱に突入した。開戦当初、持豊を総師とする西軍は押され気味であったが、大内政弘のらの参戦で盛り返し東西対抗でや義視や南朝の後胤を西軍迎えたり名分をとした、しかし戦線は膠着状態に入り、1472年(文明4)持豊から康和を提案したものの実現を見ないまま翌年3月18日に持豊は京都の陣中で没した。
「歴史の回想・西南戦争」アマゾン電子電子。角川電子書籍・
「明治10年(1877)鹿児島私学校士族を中核に結集し・決起した西郷隆盛を擁して起こした反政府の士族反乱、国内で最後の内戦、大久保利通は征韓論をきっかけとした明治6年の政変後に内務卿に就任していた、事実上ナンバーワンの位置に立った。大久保は政府は学制、徴兵制、地租改正など近代化政策として対士族政策閉じて廃刀令と金禄公債の支給を断行したのであるが、これが士族特権のすべてを奪うこととなったもので事実で、一部士族層は反発を急激に強めた。とくに鹿児島では西郷の下野とともに帰鹿した私学校の党城士族層の反発が、県令大山綱良と結んで憲政を牛耳り政府の反目した。西郷の生活ぶりに対して誇張され伝えられ、士族の反政府の感情を煽った。熊本神風隊の乱、前原一誠の萩の乱際しては西郷は動こうとしなかったが、政府は鹿児島の動向を注視しつつ、ひそかに鹿児島にある陸軍火薬庫の弾薬を運び出そうとし、また密偵も派遣していてた。しかしそうした政府の挑発行為が発覚して、私学校士族が激高、ついに西郷も立ち上がったのである。明治10年81877」2月14日西郷を薩軍総司令官に13000の鹿児島士族を7大隊に編成し、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府晋佑(1847~1877)らが体調になって鹿児島を出発し、熊本に向かった。挙兵際して西郷は「政府への尋問の筋」があってと武装してするのだと大山鹿児島県令に届けを出していた。まず熊本城の熊本鎮台を陥れ、九州を制したうえで大坂を目指す、そうすれば九州や四国に、さらに諸国に士族の応援がある、というのが薩軍の計算であった。事実熊本、高鍋、延岡ほか九州各地から7000名余り反政府の士族の呼応があり、その中には熊本共同体の宮崎八郎など著名な民権派も加わった。参軍山形有朋が率いる政府軍征討軍の博多着が2月22日、すでにこの日熊本城を包囲した薩軍の攻撃が始まり、約2000の鎮台兵を率いる司令長官谷干城は籠城体制をとった。3月4日より20日まで、熊本を目指す征討軍と熊本県北西部、田原村で繰り広げられ死闘に薩軍は敗北し、4月15日熊本城の包囲を解いた。以降薩軍は劣勢となって人吉から宮崎方面へと転戦し、8月17日わずか300人となった西郷軍は可愛岳を突破して討伐軍の包囲を突破した。9月11日に鹿児島に突入して城山に立てこもった。しかし、24日の徴兵軍隊の総攻撃を受けて壊滅した。この戦争を薩軍を支援する民衆はは極めて少なかった。政府の改革を西郷に期待し田士族は、宇来い自由民権運動に参画していった。
「北条氏政の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
北条氏政(1538年~1590年)戦国・安土桃山時代の武将。戦国大名北条氏第四当主。父は北条氏康。母は今川氏親の娘。通称新九郎、左京大夫、隠居後は相模守。北条・武田・今川氏も三国同盟の一環として、1554年(天文23)に、武田晴信の娘と結婚。1559年(永禄2)に家督を継ぐ。翌年徳政令を発して年貢減免を実施するなど、民政の安定に努めた。また、1561年の上杉景虎の侵攻を契機に、関東諸国の平定に取り掛かり、まず、下総国国府台で里見氏を破り、引き続き岩付城の太田氏や上野国由良氏や北条氏など屈服させ、支城体制を整えた。上杉氏との同盟後は、武田氏との抗争となり、三増峠での敗戦などを経験、そのために家臣にたいする軍役改定や郷村に対して農民徴発令を出し、軍事力を強化した。また検地の実施や、段銭徴収の増額など領国経営にも精を出した。1580年(天正8)に家督を嫡子氏直に譲った後も政務を後見し、それがため豊臣秀吉の小田原攻めによる開城の際は自刃した。当主在任中虎朱印状と400通余と、隠居後の使用した印文「有効」印判状及び判もの、書状など500通の発給文書が知られている。
」
「藤原頼長の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
藤原頼長(1120年~1156年)平安後期の公卿。関白藤原盛実の次男。母は忠実の養子となる。異母兄忠通の養子となる。1130年(大字)元服にあたって正五位下に叙せられ、翌年従三位、以降中納言、権大納言と進み、1136年(保延2)にわずか17歳で内大臣となる。1147年(久安3)左大臣有仁の死後、一上の宣旨を賜わり、蔵人所別当となるや、外記日記・殿上日記の筆録を督励し、上月月奏官人の出勤日数を天皇に上奏する、励行・官政などの朝議の復興に尽力を尽くした。1149年に左大臣となり、翌年天皇の外戚の地位を目指して近衛天皇に養女の多子を入内させた。頼長の博覧と公事に精励する姿に、摂関家の将来を期待した父忠実は、多子立后を終えると、兄忠通に頼長へ摂政を譲るように説得した。しかし忠通はこれを拒否したため、忠実は忠通を義絶氏長者の地位を取り上げて頼長に与えた。1151年(仁平元)に鳥羽法皇に奏上して、頼長に内乱の宣旨を蒙らせた。このた、摂政から関白に転じた忠通と内覧・氏長者の頼長との対立は激しさを増した。頼長は「なにごともいみじくきびしい人」という異名を持っていたという。そのためか鳥羽上皇もしだいに彼を「ウトミ思い召し」になった。1156年(久寿2)に近衛天皇が没すると、これが忠実・頼長の呪詛によると噂が流れ、法王の信頼を失って失脚、宇治に籠居を余儀なくされた。1156年(保元元)に鳥羽法皇が没すると後白河天皇、忠実らの挑発によって、崇徳上皇とともに挙兵に追い詰められた。頼長は奇襲あるいは東国へ下向を主張する源為義の意見を退けて、大和の武士や興福寺の悪僧信実・玄実らの到着待つうちに拠点とした白河北殿を天の方に急襲されて敗北。頼長は乱戦の流れ矢で重症負い、奈良に引きこもる父を訪ね面会を求めたが拒絶されその地で絶命した。
「源頼朝の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
源頼朝(1147年建久3年・~1199年)在職。源義朝の三男。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の女。1158年(保元3)初めて皇后権少進に任官する。藤原信頼と義朝が結んで、藤原通憲(信西)・平清盛に対決した平治の乱で初陣。乱では当初清盛不在の虚を衝いて信西を討った信頼方が優勢であったが、後白河天皇が熊野参詣から戻った清盛方についたことによって形成は逆転。義朝一党は、再起を期して東国に逃れようとしたが失敗し、途中で義朝とはぐれた頼朝は美濃で平氏方捕らわれ京都に送られた。本来なら斬られるべきところを、伊豆に流罪になったが、これが清盛の義母池禅尼の口添えによるものと伝えらえる。伊豆で流人生活を送る間に、現地の豪族北条時政の女(北条政子)と結婚。1180年(治承4)後白河法皇の皇子以仁王が平氏打倒の令旨が伝えらえた。これを呼応を促す形で頼朝も8月に挙兵した。初戦に伊豆の目代にあった山木判官兼隆を討ったのち石橋山の戦いに敗れて、逃れて安房国へ渡り、下総の千葉常胤や上総介平広常らの援助を得て東国の武士たちに糾合し、10月源氏源氏ゆかりに居を構えた。その後、頼朝追討のために大軍で東下した平維盛軍沿いを富士川の戦で退けたが、そのまま上洛をする道を選ばず常陸国の佐竹氏を討ち、上野・下野の兵力を従えるなど、基盤としての東国を固める。1183年(寿永2)7月、平氏の都落ちと入れ替わって境に入った木曾義仲が平氏追討に手間取り、後白河はじめ院の近臣勢力とも融和できずにいるのを知った頼朝は、後白河に接近し宣旨を得て、東国支配権を承認された。これに起こった義仲は後白河に対する実力行使に及ぶと、弟の源範頼にと義経を代官として派遣し義仲を排除した。さらに範頼・義経には西国から摂津まで失地を回復しつつあった平氏軍を攻撃を命じ、一の谷の戦で勝利する。その後、平家没官領を手中に収め、門注所・公文所を設置する等東国経営のここを割いた。敗走した平氏は讃岐の屋島に本拠を設けたため、頼朝は範頼にその追討を命じて山陽道を西進させ、範朝の戦果が思わしくないと見るや頼朝の意向を背いて任官した義経にその兵を授けて平氏の殲滅を図った。その結果、1185年(文治元)2月に屋島の戦や壇ノ浦の戦で平氏は滅亡する。しかし平氏撃滅の功労者の義経と頼朝とは、後白河の離間策もあって不和が表面化し。義経は縁故の奥州藤原に頼ると、それの理由に宣旨を待たず奥州藤原氏追悼の大軍を発し、1189年9月藤原泰衡らを討って義経も討たれた。事態が収拾されて頼朝は後白河と会見したが、双方に齟齬があって後白河が没してから頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
「梶原景時の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
梶原景時(?~1200年)鎌倉前期の武士。父は鎌倉景清。通称平三。1180年(治承4)の石橋山の戦で平氏方に属しながら源頼朝を救い、再起した頼朝に従臣。翌年侍所所司となる。1183年(寿永2)頼朝の命を受けて上総御権介平広常を謀殺。1184年(元暦元)源義経らと上洛し源義仲を討ち、平氏追討ののための西海を転戦、播磨・美作総追補使に任じられた。1185年(文治元)屋島攻撃の際義経と対立し、頼朝に讒訴して失脚させた。弁舌巧みで京都的教養を持つ景時は頼朝に重用され、御家人統制にあたったが、官僚的性格と憲性欲から御家人の反感を買った。1199年(正治元)頼朝の没後組織された「十三人宿老会議」の構成員になり、御家人六十六人から弾劾を受けて失脚、1200年正月再起を期して上洛の途中駿河国狐埼で在地武士とかっせんし一族とともに敗死した。
「赤松政則の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
赤松政則(1455年~1499年)室町時代後期の武将。播磨・備前・美作の守護。赤松満祐の弟で時勝の子。嘉吉の乱で赤松惣領家は滅亡したが、1458年(長禄2)赤松氏の遺品がが南朝から神璽を奪還した功もより、赤松家再興が許され、家督を相続。加賀半国守護となる。1465年(寛正)元服。将軍足利義政より名前の一字を受けて政則と名乗る。応仁・文明の乱では妻の父細川勝元の東軍に属し、赤松氏の旧領播磨・備前・美作3か国の守護職を回復・1477年(文明9)に侍所頭人となる。将軍義政・義尚に重用され、義材の六角氏攻撃には軍奉行となる。
「筒井順慶の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
筒井順敬(1549年~1584年9安土桃山時代の大名。大和国郡山城主。興福寺の官符衆徒。陽舜房順慶と称した。幼くして家を継ぐが、松永久秀によって居城筒井城を追われ、以後も久秀と抗争に明け暮れる。久秀ははじめ織田信長に降伏したが、1571年(元亀2)謀反したため、順慶が久秀追討に起用された。1576年(天正4)信長から大和一国の支配を任され、主に明智光秀の配下の武将として活躍。やがて郡山に築城した。信長が本能寺で横死した際には微妙な立場で苦悩の局面だった。山崎の戦では郡山城に籠って動かなかった。「順慶の洞が峠」の嘲笑を受けることになった。以後羽柴秀吉の有力武将として各戦場を転戦し活躍した。関原の合戦後は筒井騒動の余波でで筒井家は衰退していった。謡曲や茶の湯の名手武将として著名で、井戸茶碗「筒井筒」をはじめ、元は順慶の所持で今も伝わる名品が多い。
「古河公方の攻防」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・。
古河公方は室町中期から戦国期にかけて下総国古河を拠点に活動した足利氏小姓である。鎌倉公方に足利成氏が、上杉氏に対立して康正元年(1455)頃古河に入ったことに始まる。成氏氏は梁田氏や重臣たちを近隣に配置し、お山・結城氏ら北関東の大名たちを従えて、
上杉氏と戦いを続け享徳の乱室町後期の関東で展開された内乱。鎌倉公方が古河公方に拠点を移し関東管領の上杉氏派の戦で、20年間近く及んだ。享徳3年(1454)足利氏は上杉氏を遂に成氏氏が関東管領の上杉憲忠しを謀殺したのである。そのことを機に、翌年より本格的戦乱状況に入った。成氏氏はその時の拠点が下総古河を居所として、梁田ら重臣と直臣たち遠山・結城氏ら北関東の大名たちと糾合し、対する上杉方は武蔵五十子を拠点に山内・扇谷両上杉しとその家老ら、さらに越後の上杉氏ら連合して対抗した。結局講和してその地位を保った。成氏の子政氏と、その子も多か高基の子も、大名ららの支持を得て活動したが、高基の子の足利晴氏が北条と結んだためその影響に置かれ、次の義氏は完全に同氏が男子がなく死去すると攻防は消滅するが、娘が家を継承し、近世には喜
「大坂城代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
大坂城代は江戸幕府の職名。将軍たる大坂城に常駐してこれを守備、守衛するとともに、大阪在勤中の幕府諸役人の最高責任者として政務を統轄した。併せて西日本諸大名の監視の任務と非常時における軍事指揮権を持っていた。大坂は元和元年(1615)の大坂城落城、松平忠明の城主時代を経て1619年幕府の直轄地となり、内藤正信(1568~1626)が最初の大坂城代に就任。任期は不定期で幕末まで続き伸べ70代を数えた。江戸時代中期以降は奏者番兼寺社奉行から大坂城代に進み、さらに京都所司代に、そして老中に進む昇進事例が多かった。また坂城代の下に大坂在番が置かれた。大坂在番は、大坂城代の指揮下にあって大坂城の警備の常駐と幕府軍事組織で、定番・大番・加番・目付をさす大阪定番は、京橋口定番と、玉造口定番の定員2名で、1,2万国の譜代大名が選ばれた。任期不定。大坂大番は、東大番と西大番があり、それぞれ大番頭が1名、大番衆0名からなっている。大阪加番は、大判を補強するためにあり、山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番・の4加番・がある、3万から1万国級の譜代大名が選ばれ任期は1年。大坂目付は大坂在勤の1万石以下の役人を監視する役目で定員2名からなる。旗本から選任され任期は1年が基準であった。