「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「高僧名僧伝・一遍」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-08 08:59:00 | 投稿済C

「高僧名僧伝・一遍」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
一遍(1239年~1289年)鎌倉中期の念仏聖。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫、通広の子、幼名は松寿丸、10歳で出家して髄録と名乗り、1251年(建長3)大宰府に赴き浄土宗西山派の聖達や華台に師事して名を智真と改めた。1263年(弘長3)父の死によって帰国して還俗したが、数年後に再出発して聖戒(一遍の弟あるいは甥)とともに聖達を訪れた。1271年(文永8)信濃の善光寺に参籠して「二河白道図」写し、それを伊予国窪寺の草庵に持ち帰り念仏を専心した。やがて十劫の昔に阿弥陀仏が悟りを開いたことと、今の衆生が一念で往生できることが
同時一体であることを感得し十一不二頌を作成。1273年に伊予の岩屋寺に参籠し、翌年、超一・超二・念仏房の三人と遊行の旅に出る。四天王寺・高野山に参籠して、念仏札を配って歩いたが、札の受け取りを拒否されて困惑する。しかし熊野本宮で、衆生の往生はすでに名号によって定まっているので信不信、浄不浄にかかわらず札を配れ、との熊野権現の啓示を受けて信仰を確立。名を一遍と改めて超一らと別れて、「南無阿弥陀仏」【決定往生六十万人】ときされた札を配り賦算ながら、九州から奥州までほぼ全国を遊行して回った。1279年(弘安2)には信濃国小田切の武士の館、踊念仏を始めている。一遍は寺や道場を建立することなく遊行を続け始めた。一遍に付き添う時衆のための、1287年に生活必需品を12種に限定。宿所ではそれらを修める十二光箱を僧尼の間に置いて男女問題の発生を抑止しようとした。1280年(正応2)所持していた聖教を焼いて播磨国兵庫の観音堂で没した。伊勢や熊野などの神社信仰と親和的な点思想的の特徴がある。




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