「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想・「有馬氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:18:36 | 温故知新


「有馬氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
有馬氏」(ありまうじ)
① 筑後久留米藩主そのおこりは赤松則村の孫義祐(よしすけ)で、摂津国有馬郡有馬庄(兵庫県神戸市)の地頭となり有馬氏を称したと伝える。7代有馬重則が豊臣秀吉に仕えて播磨三木満田城に移ったが、その子則頼が関ヶ原の戦いに東軍に属して加増を受けた。ついで9代豊氏(静岡県)横須賀に3万石、1600年(慶長5年)には3万石を加増されて丹波(京都府)福知山に移り、父則頼の遺領2万石も付与された。1620年(元和6年)に筑後(福岡県)久留米に転封され、御井、御原、生葉、竹野(たかの)、山本、三潴(みつま)、上妻、下妻の8郡21万石を領した。
以後廃藩置県まで歴代の久留米藩主で、江戸城内での家格は大広間詰であった。明治に入り華族に列し、頼万が伯爵となった。
②越前丸岡藩主 肥前高来郡有馬庄(長崎県南島原市南・北有馬町)におこるという。鎌倉時代には高来郡南部に勢力をもち、豊臣秀吉の九州知行割のおりには、高来郡内4万石の領地が有馬晴信に安堵され日野江城に住した。1612年(慶長17年)の岡本大八事件で、晴信は甲斐(山梨県)に配流されたが、子直純が遺領を継ぎ、1619年には1万3000石を加増され、日向国県(宮崎県延岡市)に転封、臼杵、宮崎、諸県、児湯の4郡に5万3000石を領し延岡城にあった。1691年(元禄4年)には農民逃散の責を負わされて3千石を減じ、越後国(新潟県)糸魚川に転封、ついで越前国(福井県)丸岡に移封し、廃藩置県まで続いた。明治以後子爵となった。
③下野吹上藩主 筑後久留米藩主有馬氏の支流。有馬豊氏の三男頼次駿河大納言忠長に仕え、忠長が罪を得たおり自らも蟄居したが嗣子なく没した。しかし、豊氏の外孫吉政が継ぎ、氏倫のとき、徳川吉宗の側衆となり、1716年(享保1年)伊勢国(三重県)三重郡に1300石を領知、翌1717年に下野国(栃木県)芳賀郡に1000石の地を得た。1726年に伊勢国多気、河曲、三重、下野国(栃木県)河内(かわち)、上総国(千葉県)市原郡内に、7700石を加増され、計1万石を領した。1781年(天明1年)氏恕のとき上総国五井(ごい)に陣屋を置き、氏郁のとき領知替えがあり、1842年(天保13年)下野国寒河郡吹上(栃木市吹上町)に陣屋を置き廃藩置県に至った。明治期に子爵を与えられた。
④筑後小松崎藩主久留米藩主の支流。久留米藩主10代忠頼に嗣子がなく、外戚(がいせき)の小出豊範を養子としたが頼利が生まれたので、豊範は御原郡小松崎1万石に分封されたが、まもなく絶家した。




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