「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・​​二条家一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:35:15 | 温故知新

​​​​​​​「二条家一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
(1)藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実を祖とする。二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。良実は1242年(仁治3)関白となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。鎌倉末期道平は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。その孫が足利義満の諱(いみな)一字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を一字もらうことを例とした。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。明治維新後、公爵を授けられた。
(2)藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の子孫(鎌倉後期~南北朝時代)の家名。定家の子為家(ためいえ)の長男為氏(ためうじ)を祖とする。定家の二条京極邸の中の二条大路側の家を伝領したゆえの名で、「二条」と号したのは子の為世からである(為氏は「藤原」とのみ)が、同じく為家の子為教の京極家、為相の冷泉(れいぜい)家にそろえて為氏からをさすのが普通。俊成・定家以来の歌道師範家の嫡流として重きをなし、両統分立以後は京極・冷泉家(派)が持明院統(じみょういんとう)と結び付いたので、いきおい大覚寺統と結び付き、為氏が『続拾遺集』を撰んで以来、代々勅撰撰者となった。 南北朝分裂後、北朝で一時勢力を失ったが、為定(為世の孫)が将軍足利尊氏の支持を得てふたたび師範家となり、3勅撰集をなした。しかし南北朝時代末期に人材を欠き、あるいは殺害されて断絶した。


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