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室町期の武家。本姓は紀氏。本貫地は播磨国揖西郡浦上荘。鎌倉末期に赤松氏と婚姻関係を持ち、南北朝時代に赤松氏が有力守護大名に成長するとその有力な被官になった。貞治3年(1364)になり浦上行景が備前守護代となり、南北朝末期まで同職を浦上一族が歴任。浦上則宗(1429~1502)備前国三石城主で、赤松の被官。美作守。嘉吉の乱(1441)赤松氏の再興に尽力尽くし、幼主赤松政則を補佐、応仁・文明の乱では東軍に属した赤松氏の勢力挽回に尽力し文明二年(1470)頃に政則が侍所所司となる。その後、山城守護代を経て1483年には将軍の陪臣として異例の山城守護に命じられた。備前では守護代松田氏を駆逐し子の則景を守護代とし、自らは播磨・美作両国の守護代となって赤松領国の支配の実権を握った。政則没後はその継嗣義村を擁立しして赤松家中の混乱を鎮め浦上氏の全盛の基盤を築いた。
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