「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「後北条氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-12 06:52:51 | 温故知新

「後北条氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
南北朝から室町時代の武家。播磨守護大名で、室町幕府四職家の一つ、始祖は村上源氏の末流で、播磨国佐用荘赤松村に土着して赤松氏を称し、鎌倉初期に則景が同荘地頭職に補されたと言われる。正慶2年元弘3年(1333)赤松則村が護良親王の令旨を受け六波羅探題を攻略(元弘の変)。南北朝期は足利尊氏方として活躍し、一族の内、則村が播磨、赤松範資が摂津、貞範が美作守護に補された。則村は後は赤松則祐が家督を継ぎ、備前守護を兼ねる。その子義則は侍所頭人となり、四職家の人として勢力を拡大するが、義則の子、赤松満祐が嘉吉元年(1441)に将軍足利義教を殺害し(嘉吉の乱)幕府の追討軍に討伐を受け、赤松惣領家は一時滅亡する。長禄2年(1458)赤松氏の遺臣が南朝から神璽を奪還し、赤松政則に家督を再興が許される。応仁・文明の乱では東軍に属し、播磨、備前、美作の領国を回復。政則の養嗣子義村が守護代浦上村宗に殺害されて以降衰退し、その後、則房が豊臣秀吉に仕え但馬武田1万石を領するが、関ケ原の戦いで西軍に属し滅亡した。

 

「最上氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-10 05:51:32 | 温故知新
「最上氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
出羽国の武家。延文元年(1356)羽州管領(のちの羽州探題)として最上郡山郡山形城に入部した斯波兼頼(1316~1379)を始祖とする。兼頼は奥州管領斯波家兼の次男。兄の斯波直持が奥州管領を継ぎ、ともに足利一門三職斯波家の一族として奥羽に勢力を固めた。分郡の最上・村上2郡に依拠し最上氏を称したのは、15世紀初期・欧州探題シナ氏が大崎氏を名乗った頃で、直家・満直父子の代とみられる。
天童、中野、高擶などの2郡内の郷を名字とする多くの庶家分出し、特に最上氏に養子を二度も送り込んだ中野氏と天童氏は重鎮的位置を占めた。
義定・善守の頃、戦国大名として勢力を強め、最上義光の代に最高期を迎え、豊臣期・徳川初期にも巧みな外交・内政で危機を切り抜けて、庄内まで領地を確保した。しかし元和8年(1622)に義俊は近江国に1万石に改易、子の義智以降は5000石の幕府の高家として命脈を保つことが出来た。

「前田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-09 06:19:45 | 温故知新
「前田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
①江戸時代の外様大名家。祖先は尾張国愛知郡荒子城主。前田利家が織田信長に取りたてられ、豊臣秀吉の五大老となり徳川家康と並び立ったが、その後徳川幕府の下で加賀・能登・越中3国100万石余の外様大名として廃藩置県まで14代続いた。居城は加賀国金沢。利家の時から菅原姓を称したが定姓は未詳。秀吉から羽柴姓・豊臣姓を、徳川氏から松平姓が許され、利家は極官、官位は正三位、前田利長従三位、斉泰正三位で他は正四位下であった。元和2年(1616)加賀藩初代の五男利孝が上野国甘楽軍に入府、三代利常の隠居時に次男の利次に越中国一〇万石、三男利治に加賀国江沼郡に分知、江戸城詰め間は大広間、元禄二年(1689)から御三家並みの白書院。家紋は剣梅鉢。②加賀藩三代利常の次男前田利次寛永一六年(1639)越中国に10万石を分知されて富山城主となり、富山藩成立、廃藩置県まで13代続いた。官位は極官は代々十四位下、江戸城詰間は柳の間、従四位下に進めば大広間であった。③加賀藩3代利常の3男前田利治(1618~1660)寛永16年(1639)可が酷江沼郡に、7万石分知され、同郡大聖寺町に館を持ち大聖寺藩が成立。廃藩置県まで14代続いた。④加賀藩初代利家の5男前田利孝(1594~1637)は徳川氏に仕え、元和2年(1616)上野国甘楽郡に1万石余を領知として七日市に陣屋を構え、廃藩置県まで12代続いた。官位は十五位下であった。


『五山・十刹の盛衰』アマゾン電子書籍紹介。  

2019-08-08 06:04:44 | 温故知新
『五山・十刹の盛衰』アマゾン電子書籍紹介。
 朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格。南宋(なんそう)の禅宗制度を移入したもので、朝廷や幕府が住持を任命する。
 臨済宗の五山に「このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
 五山、十刹(じっさつ)、諸山(しょざん)の3種の寺格がある。史料のうえで最初に五山に列せられたのは正安元年(1299))5月の鎌倉浄智寺で、そののち応長元年(1311)頃に鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺が加えられた。
 京都の禅寺は、さらに正慶2・元弘3(1333)10月に大徳が五山に列し、翌年正月南禅寺が五山第一に列せられた。
 建武年中(1334~1338)には建仁寺、東福寺も五山に加えられた。 
 やがて室町幕府が成立して天龍寺が建てられると、各寺の位次が定められるようになった。
 将軍足利尊氏は康永元(1342)4月、五山第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺、凖五山浄智寺と定めた。
 延文3年(1358)9月、将軍義詮(よしあきら)は第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とした。
 このうち建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が鎌倉五山、ほかが京都五山である。
 至徳3年(1386)7月には、将軍義満によって創立された相国寺を加えて、五山之上南禅寺、第一天龍寺・建長寺、第二相国寺・円覚寺、第三建仁寺・寿福寺、第四東福寺・浄智寺、第五万寿寺・浄妙寺という京都五山優位の位次が初めて決定された。のち一時期、義満は相国寺と天龍寺の位次を取り替えたが、やがて元に復した。
 このように五山の順位は権力者が替われば順位が変わり、その後、京都では大徳寺と妙心寺では時の執権者の意に沿わなかったとか政治的に考慮して林下として加えることが無かった。
 五山に次ぐ十刹には、浄妙寺や豊後(ぶんご)の万寿寺などが鎌倉末期に列せられたのが初見で、ついで暦応4年(1341)8月、尊氏によって相模(さがみ)浄妙寺・相模禅興(ぜんこう)寺、筑前聖福(しょうふく)寺、京都万寿寺、相模東勝寺・相模万寿寺、上野(こうずけ)長楽寺、京都真如(しんにょ)寺・京都安国(あんこく)寺、豊後万寿寺の10か寺が決められた。
 そののち義詮、義満によって一部の改定が行われたが、康暦2年(1380)正月、義満によって第一等持(とうじ)寺(京都)、第二禅興寺、第三聖福寺、第四東勝寺、第五万寿寺(京都)、第六長楽寺、第七真如寺、第八安国寺(京都)、第九万寿寺(豊後)、第十清見(せいけん)寺(駿河(するが))の十刹と、臨川(りんせん)寺(京都)、宝幢(ほうどう)寺(京都)、瑞泉(ずいせん)寺(相模)、普門寺(京都)、宝林寺(播磨)、国清(こくしょう)寺(伊豆)の凖十刹、計16か寺の位次が決められ、ここに十刹は10か寺より多い一種の寺格に変わった。
 ついで至徳3年(1386)7月に等持寺・臨川寺・真如寺・安国寺・宝幢寺・普門(ふもん)寺・広覚(こうかく)寺・妙光(みょうこう)寺・大徳寺・龍翔(りょうしょう)寺の京都十刹と、禅興寺・瑞泉寺・東勝寺・万寿寺・大慶(だいけい)寺・興聖(こうしょう)寺・東漸(とうぜん)寺・善福寺・法泉寺・長楽寺の関東十刹が決定されたが、こののち将軍義持の頃からしだいに数を増し、文明末年(1486)頃には46か寺、さらに中世末には60か寺余の多きに達した。十刹に次ぐ諸山は、元亨元(1321)に相模の金剛崇寿(こんごうすうじゅ)寺が列せられたのが初見で、そののち各国の有力禅寺がしだいに加えられて、江戸初期には全国で230か寺を数えるに至っている。
 これら禅宗官寺の多くは将軍の御教書(みぎょうしょ)によって認定されたが、なかには北朝の院宣(いんぜん)や南朝の綸旨(りんじ)によるものもあった。
 なお、禅宗官寺は原則として五山のどの派の者も住持になりうる十方(じっぽう)住持制をとっており、その住持期間も原則として三年二夏(満2年)と決められていた。五山、十刹、諸山に編成された禅宗寺院を五山派と総称し、林下(りんか)と区別する。


「六角氏一族の群像」グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-08-07 05:27:05 | 温故知新

「六角氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
近江国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、泰綱の代に京都の六角堂に居を構えたことから六角氏を名乗る。南北朝時代から室町時代に、同族の京極氏と近江を二分して南6郡(滋賀、栗太、野洲、蒲生、神崎の守護職を得る。京極氏と佐々木氏惣領を争うなど、一族の内紛が続き、さらに朽木氏などの自立性の強い同族・奉公衆や馬淵氏ら有力国人層と対立するなど、領国支配は困難を極めた。文安年間(1444~1449)には満綱・持綱父子が家臣の反乱により自刃している。その後、六角高瀬は隣接する京都の室町幕府と対立、長享・延徳年間(1487~1492)に2度にわたる将軍親征をしのぎ、守護代伊庭氏の反乱を抑えて戦国大名の基礎を作った。その子、六角定頼が全盛期を作り、幕府政治にも積極的に関与したが、永禄6年(1563)重臣後藤父子の殺害を契機に家臣が離反し(観音寺騒動)衰退。1567年には六角氏式目を制定したが、翌年織田信長に敗れ没落した。


「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-06 06:08:43 | 温故知新
「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
「中世下総国の武家。下野国の在庁官人小山政光の三男結城朝光が寿永2年(1183)源義広の乱で戦功をあげて下総国結城郡地頭職を獲得、郡北部に入部し結城氏を名乗った。結城朝広・結城広綱の代まで平方氏、寒河氏、山河氏、網戸氏、白河氏、大内氏らの各氏を分出、一族ともに発展してきた。鎌倉後期の結城時広、結城貞広、結城朝祐は御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となり、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に従って14世紀後半に結城直光(1329~1395)が安房守護に就任。その子結城基光(1349~1430)は40数年間下野守護として君臨、鎌倉府の一方の中心となった。永享12年(1440)結城氏朝は基光の路線を継承して持氏の遺児足利安王丸らを擁立、1年余に及ぶ籠城戦のすえ、室町幕府軍・上杉軍に敗れ戦死したが、(結城合戦)末子結城成朝(1439~1463)が持氏の遺児足利成氏の復帰と共に結城氏を再興。結城政朝(1479~1545)の時に家中統制に成功し宇都宮氏を破って勢力を伸ばし、結城政勝(1504~1559)は小田氏に勝利したほか、城下町の整備や結城家法度制定などに尽力。結城晴朝は上信氏、小田原北条氏の狭間で家名を保って豊臣秀吉から領地安堵を受けた。慶長6年」(1601)結城秀康(徳川家康の次男)は関ヶ原の戦功で越前に転封、その5男結城直基が晴朝の養子となって結城氏を継いだ。

本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-05 05:47:39 | 温故知新
「本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。
正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは、正重を祖とする信濃国飯山藩本多氏の大名家二家が成立した。また、定正家には加賀藩家老本多氏、福井藩家老の本多氏がいる。


『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍紹介

2019-08-04 05:41:48 | 温故知新

『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍紹介
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
 感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇壮大な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情,今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。
先人に学び貴ぶ謙虚な芭蕉の姿勢が読み取れる。現代人には、その先人への畏敬と謙虚さが欠落していることを、「紀行文」が教えている。
また芭蕉の物事の興味旺盛は物見遊山のなかに、土地土地の人々の暮らしぶりを観察し俳句に綴っていく紀行であった。
また道中の出来事風景や習慣、習わしを詳しく書き残したことで元禄二年(1689)の時代背景を知ることが出来る。



「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-03 05:08:54 | 温故知新
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 美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し、土岐氏を名乗った。承久の乱で幕府方についたことで美濃国内で勢力を伸ばし、執権北条氏とも婚姻関係を持った。正中の変で一族が関係したが、南北朝の内乱に於いて土岐頼貞(?~1339)は足利尊氏に従い、その軍功により美濃守護になった。
土岐頼康の代には美濃・尾張・伊勢の三国を守護として勢力を拡大したが、その子土岐廉行の時、一族の内紛によって明徳元年(1390)幕府軍の追討を受けた。その後、美濃一国の守護として存続したが、応仁・文明の乱のころからは守護代斎藤氏によって実権は奪われ、天文21年(1552)土岐頼芸の時に斉藤道三によって追放され、守護土岐氏は滅亡した。庶流は土岐世保家・常陸土岐氏・明智土岐氏と江戸時代になっても旗本として土岐氏の血筋を伝えている。



「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-08-02 05:49:09 | 温故知新
「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。








佐竹氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-01 05:41:00 | 温故知新
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 中・近世の武家。新羅三郎源光が常陸介となり下向、子の義業が久慈東部佐竹郷を領し、その子佐竹昌義が吉田清幹の娘と結婚して土着、常陸国那珂川以北の奥七郡を支配し、佐多氏を名乗る。治承4年(1151~1226)佐竹秀義は平氏に属し源頼朝に敵対、金砂山(茨城県久慈郡金砂)で攻防戦展開するが敗れて所領の大半を失う。その後、奥州合戦、承久の乱で戦功をあげて所領の一部を回復し、獲得した。足利氏、二階堂氏らと婚姻を通じて勢力を回復の基礎を固め、南北朝内乱では佐竹貞義(1287~1352)・義篤(1311~1362)父子が足利氏に属して南朝側と戦い、常陸守護に任じられ、多くの一族を分立させた。しかし一族中の最も有力な山入氏は、鎌倉公方と親しい惣領家に対し、将軍方に属して対立、15世紀末には佐竹義舜(1470~1517)を追って太田城を占拠した。間もなく義舜は岩城氏の支援を得て太田城を奪回し、その子佐竹義篤(1507~1545)は弟佐竹義元(?~1540)を排して白河に進出した。義昭・義重父子は常陸、下野東部、陸奥南部に跨る分国を形成、豊臣秀吉から54万石余りの知行を認められた。関ケ原の戦いで佐竹義宜が石田方に属し、出羽国秋田20万石に減封されたが、大坂の陣で戦功をあげて秋田藩主として一四代にわたっ。三代義処は弟義長に2万国を分与し、秋田新田藩(岩崎藩)が成立。戊辰戦争では政府側に味方して本藩の12代藩主佐竹義堯が従三位・参議、秋田県知事に任じられた。