最近の日本では経済や政治、格差や貧困などの社会問題のニュースなどそっちのけで、大谷翔平選手のニュースばかり。
1000億円を超える報酬だとか、何十億円もの金を盗まれたとかいう記事を見せられていると絶望的な気持ちになる。
日本人の平均年収414万円って、一体何なんだろうと。
まあ、そんな気持ちになると言ったところで、「能力のある選手が、大金持ちでどこが悪い」、「それが資本主義の醍醐味だ」、「貧乏人のひがみだ」という人が多いのだろう。
しかし、敢えて言いたい。
自由主義を標榜する私たちは、「どこまで格差を拡大すれば気が済むのか」と。
日本やアメリカや西欧は、「自由主義国家」。
「自由主義国家」は、「民主主義」と「資本主義」に支えられている。
「民主主義」によって、国民は、為政者を自由に選ぶことができる。ただ、国民一人に与えられているのは「一票」。
首相であろうと社長であろうと、大谷選手であろうと「一票」。
ところが、資本主義の下では、富だけは上限無し。一人の人間が日本の全ての富を所有してもお咎め無し。
政府が格差の拡大を止めようとしたところで、国民同士の競争を煽って格差を助長するのが資本主義なのだから、資本主義を放棄しない限り格差は絶対に無くならない。
しかも、そんな資本主義が、共産主義や社会主義を駆逐してしまった現在、資本主義は至高のイデオロギーとなった。
資本主義によって、国民は、自由な経済活動により富を得る公平な機会を持つことができる。
その結果、自由な経済活動のおかげで、社会的、政治的、経済的な制約や抑圧を受けること無く、資本主義の醍醐味である夢のような人生を謳歌できる。
実に素晴らしい。
資本主義は、いい事ずくめ。
しかし、それは競争の勝者にとっての話。
残念ながらほとんどの人にとって、資本主義が約束する夢のような人生なんて虚構に過ぎない。
「自由と民主主義」の国家で、自由を謳歌し満喫できるのは、ひと握りの競争の「勝者」だけ。
しかも、今や競争の勝者は、地位や名誉ばかりでなく富を含め、何もかも独占している。
資本主義という至高のイデオロギーのもとで、競争の勝者を頂点とする新たな階級社会が形作られている。
少なくとも、この競争が平等で公平なら我慢できるかもしれない。
しかし、実際には世襲や縁故がまかり通る不平等で不公平な競争なのだから我慢できないのだ。
資本主義の要である競争が、エセ競争とは言わないまでも、不平等で不公平な競争なのだ。
そもそも人間は、人種、性別、健康、能力、体型、容姿からして異なる。
平等には創られていない。
そんな、不平等な人間を、同じルールで競争させたところで、勝敗は決まっている。
人種、性別ならまだしも、「健康や能力、体型や容姿」の差は、乗り越え難い。
格差が生まれるのは、当然だろう。
しかも、不平等で不公平な競争から生み出される格差は、親から子へ、子から孫へと、受け継がれていく。
その中で、格差は拡大しても、縮小することは無いようだ。
若いうちは、こうした生まれつきの不平等や不公平に耐えられず、もがき苦しむ。
ところがそのうちに、生きていくことで精一杯になる。
「不平等を呪ったところで甲斐無し」と悟り、競争に背を向け、「自由と民主主義を謳歌できるのは、自分とは無縁になった競争の勝者だけ」と諦観するようになる。
確かに、それが無難な生き方かもしれない。
しかし、それではいけない。
だいたい、「敗者復活のない勝者総取りの競争」を是とする自由主義なんて、おかしいだろう。しかも、その競争は不平等で不公平。
よく考えて欲しい。
人生を、絶望の中で生きていく国民が増え続けたら、自由主義を支える民主主義や資本主義なんてもたなくなるということを。
このまま「格差」を放置し続ければ、自由主義は、それに反対する外部からのイデオロギー的な挑戦によって崩壊する前に、内部から崩壊してしまう。
取り返しがつかなくなる前に、立ち上がろう、誰もが自由主義を謳歌できる社会を目指して。