63のじじいに母が健在
その母が最近口癖のように言う
昔ならこんなんじゃなかった
年だねぇ
この前 土産を渡しに行ったら 30分ほど
昔話 今の自分の体の情けなさを語る
今朝5時のお天道様
今日は母の日であることを思い出した
ご近所の母が親しかった人は今は認知症で伏せっている
その方のところへ 身寄りの無い親戚の方が同居していた
喪服を着ているのを見かけた
癌で亡くなったそうだ 身内だけでの密葬
自分は小さい頃からロックとジャズで育った
自分より3歳年上の人たちとは会話も趣味も食い違う
昭和20年生まれからは戦争を知らない世代
この年を境に 世代間の断絶は大きい
価値観 生き方がまるで違う
同じ老人として 死生観 人生観が180度と言っていいほど異なる
自分は母親が20の時の子であるから
83と63
客観的に見れば そう年齢差の無い年代に入った
大正14年昭和元年の年に生まれ
早くに父を亡くし 母親は小さな店を開き女手一つで子供5人を育てたそうだ
母は長女であったため 忙しい母親に代わって家事一切をこなしてきた
高等小学校しか出てない が健康優良児で表彰されたほど頑丈でもあった
18の時 親父から熱烈なプロポーズを受け
と言ってもその時代のこと 親父はその母親に結婚の許可を熱心に申し込んだ
お袋は分けのわからないまま結婚したと言う
親父が徴兵で戦争に行った留守
明治生まれの 祖母であるきつい姑に仕え
戦後の食料に乏しい時代少しでも余っている土地を耕し野菜を作ってしのいだ
三菱鉱業の社員と言えども
皆貧しく敗戦で疲弊しきった時代のことだ
着る服はほとんど母の手作り
和服の裁縫はもちろんのことセーター類も全部母が編んでくれた
料理も近所の主婦が集まってくるほど工夫に長けていた
家計の助けにするため生け花や木目込み人形などを教えていた
東京に来てからは
俺たち3人を大学に入れるため
保険の外交員をやって学資を調達してくれた
親父が 俺が27の時交通事故で死んだ後
二人で会社を切り盛りしてきた
お袋が68の時かな 会社を清算したのは
それ以来家からほとんど出ない
母は家族以外と会話を望まない
会話上手と思っていたのだが
それはお付き合いのため彼女が努力してきたことで
本来は人とのお付き合いは好きではなかった
彼女は世間様に合わせてきた
本来の自分の意思ではなかったようだ
その価値基準は社会人母親主婦としてのあるべき姿を演じてきた
無理をしてきた
自分にはそう思える
現役を退いた後 子宮筋腫で手術 膠原病 糖尿病
気がついた時点で無理やり病院へ連れて行った
健康であったが故か 医者嫌い
自分は己の意思を曲げてまで世間様に同調はしない
世間様がどうあろうと 自分は自分 人様は人様
敵半分 味方半分 それが自分にあった生き方だと思っている
それに少しでも悪いところがあればすぐ医者にかかる
母には いつもゆう
昔は昔 今が大事だ
料理なんか弟や妹に任せておけばいいじゃない
お袋は 自分の体も心も酷使し過ぎた
もっと 楽しなよ
でもね 性分だから
母は死ぬまで変わらない
彼女の生きがいは子供
世話をするのが生きがいなのだろう
小さい頃から母の世話を拒んでいた
そのたびに母は悲しそうな顔をしていた
親不孝だね
長生きしてくれ 頼む
その母が最近口癖のように言う
昔ならこんなんじゃなかった
年だねぇ
この前 土産を渡しに行ったら 30分ほど
昔話 今の自分の体の情けなさを語る
今朝5時のお天道様
今日は母の日であることを思い出した
ご近所の母が親しかった人は今は認知症で伏せっている
その方のところへ 身寄りの無い親戚の方が同居していた
喪服を着ているのを見かけた
癌で亡くなったそうだ 身内だけでの密葬
自分は小さい頃からロックとジャズで育った
自分より3歳年上の人たちとは会話も趣味も食い違う
昭和20年生まれからは戦争を知らない世代
この年を境に 世代間の断絶は大きい
価値観 生き方がまるで違う
同じ老人として 死生観 人生観が180度と言っていいほど異なる
自分は母親が20の時の子であるから
83と63
客観的に見れば そう年齢差の無い年代に入った
大正14年昭和元年の年に生まれ
早くに父を亡くし 母親は小さな店を開き女手一つで子供5人を育てたそうだ
母は長女であったため 忙しい母親に代わって家事一切をこなしてきた
高等小学校しか出てない が健康優良児で表彰されたほど頑丈でもあった
18の時 親父から熱烈なプロポーズを受け
と言ってもその時代のこと 親父はその母親に結婚の許可を熱心に申し込んだ
お袋は分けのわからないまま結婚したと言う
親父が徴兵で戦争に行った留守
明治生まれの 祖母であるきつい姑に仕え
戦後の食料に乏しい時代少しでも余っている土地を耕し野菜を作ってしのいだ
三菱鉱業の社員と言えども
皆貧しく敗戦で疲弊しきった時代のことだ
着る服はほとんど母の手作り
和服の裁縫はもちろんのことセーター類も全部母が編んでくれた
料理も近所の主婦が集まってくるほど工夫に長けていた
家計の助けにするため生け花や木目込み人形などを教えていた
東京に来てからは
俺たち3人を大学に入れるため
保険の外交員をやって学資を調達してくれた
親父が 俺が27の時交通事故で死んだ後
二人で会社を切り盛りしてきた
お袋が68の時かな 会社を清算したのは
それ以来家からほとんど出ない
母は家族以外と会話を望まない
会話上手と思っていたのだが
それはお付き合いのため彼女が努力してきたことで
本来は人とのお付き合いは好きではなかった
彼女は世間様に合わせてきた
本来の自分の意思ではなかったようだ
その価値基準は社会人母親主婦としてのあるべき姿を演じてきた
無理をしてきた
自分にはそう思える
現役を退いた後 子宮筋腫で手術 膠原病 糖尿病
気がついた時点で無理やり病院へ連れて行った
健康であったが故か 医者嫌い
自分は己の意思を曲げてまで世間様に同調はしない
世間様がどうあろうと 自分は自分 人様は人様
敵半分 味方半分 それが自分にあった生き方だと思っている
それに少しでも悪いところがあればすぐ医者にかかる
母には いつもゆう
昔は昔 今が大事だ
料理なんか弟や妹に任せておけばいいじゃない
お袋は 自分の体も心も酷使し過ぎた
もっと 楽しなよ
でもね 性分だから
母は死ぬまで変わらない
彼女の生きがいは子供
世話をするのが生きがいなのだろう
小さい頃から母の世話を拒んでいた
そのたびに母は悲しそうな顔をしていた
親不孝だね
長生きしてくれ 頼む
いつも 説得力がある方なので
真に 心に響きます
ps お料理が 上手で羨ましいです
いつも 楽しみに見ています
m(_ _)m
料理もしてます
介護申請でもすればよいのでしょうが
母は嫌がります
家族以外の人が家にいるのがいやなのです
きっと気を使わなければいけないし
人様の援助を受けるという事が耐えられないのでしょう
ある意味プライドの高い人ですから
でも寝込むほどではないし
親がいてくれるだけどもありがたいことです
俺の料理は自己流です
味付けも妻の希望の味付けを目指しています
夕飯は もう習慣ですので
何も考えずやっています
褒めてくれてありがとう^^