スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
5年前に肺癌でなくなった父が
残した幼い日の記録を
私たち家族だけではなく
どこかの誰かにも読んで欲しいと
ふと 思いついて書きます。
父の満州の思い出を。
開拓団へ疎開
「戦争が済んだらインドに行ってみよう」という両親の会話を覚えている。
しかし、それどころか、奉天の空襲がひどくなり、危険だからと母の兄が開拓団で入植している所へ疎開することになった。
長い汽車の旅で着いた駅が、サンカトン(山河屯)というところだった。
白系ロシア人の駅長だった。
駅には伯父さん(母の兄)が迎えに来てくれて、その馬車に両親、弟の照男、満男、わたしが乗り、
一面とうもろこし畑の中を、のぼったりくだったりしながら、村に着いた。
家は、馬車が2台くらい入る広い庭があって、馬を繋ぐ棒が2本立っている。
右手には背の高い乾燥小屋、左手には便所、右前には牛小屋、馬小屋があった。
これらの家は満人を追い出して日本人が住んでいるのだと聞いた。
その時が何月なのか覚えていないが、トウモロコシが随分高くなっていたので、昭和20年の6月か7月頃ではないか。
この村は市村という名前がついていた。
それは人々が市村から入植したからである。
村の中は満人の住む家と一緒になっていて、左隣には足を小さくした(てんそく)女の人が、1メートルくらいの長さのキセルを吸っていた。
良家の婦人という風貌だった。
少し離れたところに、満人のおさ(長)がいて、この人を りゅうぱいじゃん と呼んでいた。
人格者であった と記憶している。
終戦後、食料や衣服を、この人からか この人の世話でもらうことができたのだと思う。