『ティツィアーノとヴェネツィア派展』を観覧。
午後は、先週に引き続き、その講演会を聴講です。
整理券(聴講券)の配布は、13時からなんですが、
何となく12時半頃に向かってみたら、
講堂前の階段はとうに超え、
ロビー階のインフォメーションカウンター前で折り返し、
更に行列が続いていました(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-
最近、なんだかこの手の講演会は
盛況になっている気がするんですが、この人気ですか。
配布時間15分前頃には既に、列に並んでいる人だけで
満席になってしまっていて、その後に来た人には、
係の人が断っているような状況でした。
それでも配布は前倒しにはならないと・・・
ちょっと時間が無駄ですね。
今日の講師は、神戸大学大学院教授の宮下規久朗さんで、
講演タイトルは『ヴェネツィア美術の魅力』
講演開始時間になって、講演開始です。
- まずはヴェネツィアの解説。ヴェネツィアは、110の島と400の橋で出来ている。
- その始まりは、5世紀のゲルマン民族の大移動から逃れた人々が、水上をはじめたのが起源
- 今回の展覧会にも出ているヤコボ・デ・バルバリの版画《ヴェネツィア鳥瞰図》(1511年(1500年初刷))で描かれている建物の七割くらいが今もある
- ヴェネツィアには、飛行機でミラノ空港に行ってそこから電車でサンタ・ルチーア駅に行ってそこから入ることが多いが、アリタリア航空以外でヨーロッパ内の空港で乗り継いでヴェネツィア空港に行くと、サンマルコ広場に船で入る事が出来て、『ヴェネツィアに来た!』と言う気になるのでおすすめ
- いまのヴェネツィアは小さいが、その文化は、嘗て広かったヴェネツィア共和国の版図の全域に及ぶ
- ヴェネツィアは、421年3月25日の建国と言う伝承がある。その日は実は、マリア妊娠の日である。なので、ヴェネツィアは聖母に捧げられた国とも言われている
- 嘗て、ヴェネツィアとビザンツ帝国は友好関係(朝貢関係)にあって、フランク王国や他のイタリアの勢力の侵入を防げていた
- 第四回十字軍におけるコンスタンチノープル陥落によって、よりヴェネツィアは繁栄した。
- 支配層の貴族の身分を厳しく決定する“セラータ”制度で政治が安定した
- トルチェロ島。ヴェネツィアの最古のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂がある。聖母子のモザイクが見どころ
- サン・マルコ大聖堂。嘗ての宗主国ビザンツ帝国のコンスタンチノープルにあった聖使徒大聖堂を模して作られた
- サン・マルコ大聖堂のテトラルキア、青銅の馬。これらは、第四回十字軍の際、コンスタンチノープルから略奪してきたもの
- パラ・ドーロ。これもコンスタンチノープルから略奪してきた。嘗ては祝祭日だけの開帳だったが、今は入場料を払えば見ることが出来る。必見
- ヴェネツィアは1000年以上に渡り、外敵の侵入を防いでいた。ヨーロッパの多くの王宮は城であるが、ドゥカーレ宮殿は城ではない。それは、外敵の侵入を防げたと言うことを示している
- ヴィヴァリーニ工房とベッリーニ工房が競いあい、ベッリーニの工房が勝つ。しかし、ベッリーニ工房の作品は国外からの発注も多く、イタリアにはあまりない
- ヴェネツィアは祝祭が発展していた国。貴族、国民が一体に外敵に対する必要があったので祝祭が発展した
- ジェンティーレ・ベッリーニ《聖十字架の奇跡》には黒人が描かれている。当時のヴェネツィアは奴隷貿易のセンターでもあった
- ラッザーロ・バスティアーニ《総督フランチェスコ・フォスカリの肖像》。フォスカリは人望はあったが、息子の汚職疑惑(濡れ衣の指摘もある)によって廃位された悲劇の総督。国民から人気があり、国葬によって弔われた
- ロンバルド親子。彫刻家。建築家でもあった。サンタ・マリア・デイ・ミラコリ聖堂を作った
- ジョルジョーネは若くして亡くなったので、ほとんど作品は無い。数少ないジョルジョーネの作品の中でも《嵐》どういうモチーフなのか謎
- ジョルジョーネの《眠るヴィーナス》は、ティツィアーノの影響が見られる
- ティツィアーノ《復活のキリスト》。ヴィヴァリーニの《復活のキリスト》の影響を受けている
- ティツィアーノ《フローラ》。コルティザーナと言う高級娼婦の絵ではないかと言う説もある。あるいは、結婚の決まった女性を描いたと言う説もある。
- 同じフローラでも、メルツィ《フローラ》雰囲気が大分違う
- レンブラントも《フローラ》を書いている
- パルマ・イル・ヴェッキオの《フローラ》にも影響を与える
- ティツィアーノ《聖母被昇天》で名実ともに、ヴェネツィアの公式画家に
- ティツィアーノ《ペーザロの祭壇画》。教会の柱も借景して、絵に取り込んでいる。絵はその場で見るのが一番。
- ティツィアーノ《改悛のマグダラのマリア》は人気にある作品
- ティツィアーノ《パウルス三世の肖像》。ベラスケスの《インノケンティウス10世の肖像》と並ぶ教皇の絵の傑作のひとつ
- ティツィアーノの絵は、近づいて見ると、筆のタッチが分かりより素晴らしい。図録では判らない
- ティツィアーノの《パウルス三世とその甥》は、まだ未完成。パウルス三世の左手が書かれて無い。ちなみに、ティツィアーノは、聖職者の息子の出世ためにパウルス三世に近づいたと言われる
- ティツィアーノ《ダナエ》。ミケランジェロは、この作品を見て『デッサン力が無い』と評した。
- ティツィアーノは、時代が後ろになるにつれて、タッチが荒くなって行く。最晩年の《ピエタ》は荒い。その、ティツィアーノの晩年の様式は、その後の画家に多大な影響を与える
- ロレンツォ・ロットはティツィアーノの影響を受けた画家。ロットの《聖アントニヌスの施し》と言う作品があるが、これは当時のヴェネツィアの社会福祉政策は優れていた場面を描いている
- ロットは絵画の中に絨毯をよくかいていて、ロット絨毯と言われる
- パオロ・ヴェロネーゼの《レヴィ家の饗宴》は、最初、《最後の晩餐》と言うタイトルだったが、宗教裁判所に呼び出され『全然最後の晩餐じゃないじゃないか』と言われた。その結果、タイトルを《レヴィ家の饗宴》と変えた。ヴェネツィアは、ローマから離れていたので、教会の影響力が小さく、その程度で済んだ。
- ドメニコ・ティントレット《天国》。世界最大の油絵でもある。
- ドメニコ・ティントレットの《伊東マンショ像》は、油絵で書かれたほとんど最古の日本人では無いか
- ティツィアーノの弟子、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロは、イタリア美術最後の巨匠。
- 17~18世紀の良家の子息がやっていたグランドツアーと呼ばれる遊学の最後の地として、ヴェネツィアがあった。土産物として絵画が買われた
- その後、ヴェネツィアは単なる観光地になってしまい、芸術の地としての輝きは無くなったが、ヴェネツィア・ビエンナーレで復活しつつある。
- ヴェネツィアは水の上にあるので、色々な光を反射するので、美術の色彩が発達したのではないか
話しされている先生で、ところどころ脱線しかけながらの話で、
中々面白かったです。