とはいえ、土曜日は曇りではあるものの、
まだ雨は降っておらず&風もまだ無かったので、上野にGO!
東京都美術館で今日から開催のプーシキン美術館展の
記念講演会の聴講です。
展覧会は、今日が初日で、見に行こうかなぁとも思ったのですが、
展覧会と講演会のハシゴをすると大変なので、今日は講演会聴講のみ。
展覧会は、また後日にしました。
初日で行われる講演会で、且つ、講師がプーシキン美術館の
館長さんと言う事なので、「これは、満席か?」と思って、
めっちゃ気合を入れて聴講券配布に挑んだんですが、
空席もあって、そんなに気合を入れなくても良かったかも。
今日は、国立西洋美術館でもプラド美術館展講演会があるので、
分散したかな?
って言うか、次回も、講演会が重なっているんだよねぇ。
日程を調整して欲しいなぁ。
さて、今日の講演会の講師は、上記の通り、
プーシキン美術館館長のマリーナ・ロシャクさんで、
タイトルは『プーシキン美術館と珠玉のコレクション』
講演は、だいたい以下の感じですね。
- まず、講演がロシア語!当然通訳はいます。そう言えば、以前は、フランス語の講演と言うのもあったな。
- プーシキン美術館の巡回展が日本に来るのは今回で3回目。1回目は2005だった年。
- 日本の美術愛好家に何を持ってくるのがいいか常に考えていて、結果、やはり印象派と後期印象派が日本に良いという事がわかった
- プーシキン美術館は、古代エジプトから始まる非常に幅広いコレクションがある。そんなプーシキン美術館には、世界中から貸与依頼の手紙が来るが、必ず印象派・後期印象派は貸与希望の中に入る
- 世界中で印象派・後期印象派の展覧会があるが、プーシキン美術館の作品抜きではありえない
- さて、世界中のどの美術館もひとりあるいは何人かのコレクターにコレクションは依存している。プーシキン美術館も同じである
- 今日は、プーシキン美術館に関連する2人のコレクターについて話をする。二人のコレクションは、エルミタージュ美術館の礎にもなっている。
- 現在のプーシキン美術館とエルミタージュ美術館が収蔵している珠玉のコレクションの礎を築いたのはセルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフと言う二人のコレクター
- 20世紀初頭が2人の人生の最も輝いた時期である。
- シチューキンとモロゾフの2人は常に一緒に語られた。今日はそれぞれについて語りたい
- 20世紀初頭。ロシアの頂点の時期。この頃には、商人、商人(あきんど)、ビジネスマンと言われるこれまでに無い人たちがロシアに出現し始めた
- これらの人々は、単なる商人と言うだけではなく、世界にある新しいものを自分の国に取り入れようとする教養も備えた人たちだった
- まずシチューキン。彼の一族は、彼の父親の代から大きな財を築いて居た。
- シュルキンは、ドイツやイギリスで教育を受けた。少なくとも4ヶ国語を学び、音楽、文学に造詣が深かった。加えて、信仰に篤く、道徳的だった。
- シチューキンの一族のビジネスでは、数多くの工場があった。労働者も多数抱えて居た。従業員のために学校、病院、住宅も作るのが務めと思っていた
- シチューキンは、4人兄弟で一番体が弱かった。よって、自分で自分を鍛えなければならないという気持ちが強かった。武士道的な精神も学び、その他健康に関する事では、必ず窓を開けて寝たり、冬に冷水を浴びたり、菜食主義であるなど。スポーツにも熱心に取り組んだ。体が弱かったと言う事がシチューキンの人生に大きな影響を与えた
- シチューキンが結婚相手に選んだのはモスクワで一、二を争う美女。結婚後二人は、クレムリンに近い一等地に家を建てた。そしてそこで、モスクワの上層部と交感した
- シチューキンは常にインパクトを求める人物だった結婚間もない二人は、1900年代始め、インド、エジプト、スーダンを訪れた
- このオリエントへの旅が、後年にシチューキンがマティスに惹きつけられる礎になった。
- シチューキンはモスクワの保守層に位置付けられるが、絵画はそれとは逆なラディカルな作品に惹かれた。
- 弟のイワンがパリに住んでおり、兄シチューキンに影響を与えた
- パリに住んでいたイワンは、当時のパリに数多いたボヘミアンと交流していた。これを通じて、シチューキンがパリ、フランスの芸術に触れるようになった
- シチューキンは、ボラールという人物が経営するギャラリーに出入りしていた。ボラールは、当時の先端の芸術(ピカソの様な)に手を出すリスクをとる人物であった
- ボラール、ルエール、オンゴランというのが当時のパリで有名な3人のギャラリー経営者。この3人は、今、私たちが知っている様な傑作を描く画家たちと交流があったが、当時はまだ、画家たちは不遇な境遇であった
- シチューキンもモロゾフも絵を買うためパリに行った。ギャラリーでは彼らが来るのを待っていた。画家も、シチューキンたちに絵を買ってもらうために待っていた
- シチューキンは、ピサロからコレクションを始めるが、ピサロにはボラールのギャラリーで出会っている
- シチューキンは、短期間でモネの作品を13作品を買った。一点あたり20000から40000フランの値段であるが、現代の価値に直すと、莫大な金額であり、この時の購入価格が、今に続くモネの作品の価値を決めたとも言われている
- シチューキンは同時代のロシア美術には興味がなくフランス美術にのみ興味を持っていた。作品の購入に際しては、他人に意見を求める事なく自分だけで決定していた。シチューキンのコレクションは、シチューキンという人間の愛、情熱の歴史である
- シチューキンは新しい自分のターゲットを見つける事があると、全てを手に入れたがった
- 一般にコレクターは安定を求めるが、シチューキンの場合はリスクをとる事にためらいは無かった
- 作品を見て好きになるには女性を好きになるのと同じとシチューキンは言っている
- モネの作品は一気に13点買っている
- セザンヌは、作品は買ったが恋はしなかった。なので5点しかない。他方、ゴーガンは16作も買っている
- しかし、シチューキンは直ぐにゴーガンを理解したわけではなかった。
- シチューキンは、画家を理解するために学習する人だった
- 気に入った作品は、宮殿ともいうべきシチューキンの家の主だった部屋に飾られていた
- 一方、「これから慣れる必要がある」「理解のために勉強する必要がある」と言う作品は、ランクの下の別の部屋に飾っていた
- シチューキンの家は全くオープンな家で、人々に「見に来てください」というような家だった。実際に見に来た同業の人達には、作品は不評であった。それを見たシチューキンは「他人を苛立たせた」と満足していた
- ゴーガンは、そんなシチューキンであっても、目に触れないようにしていた様な作品だった。しかし、シチューキンがゴーガンを理解するにつれ、目につくところに飾り始めた。
- ゴーガンの作品は、長男自殺、妻の肺炎での死亡、弟のイワンの自殺。末っ子の自殺などが続いたシチューキンの人生が辛い時期に薬としての役割も果たした。
- この人生のつらい時期に、シチューキンは28日間の巡礼に出た。
- 巡礼の旅でシチューキンは生まれ変わったと感じる事が出来たと感じ、モスクワに戻った。そして、パリのボラールの画廊に行ってゴーガンを手に入れた。
- その後の「恋」の歴史は、マチスとピカソ。
- マチスとピカソとシチューキンの出会いはパリ。ガートルート・スタインのサロンで出会った。
- シチューキンはボラールに「マチスと個人的にも知り合いたい」と言った。マチスはまだまだ新進気鋭の若い時期の事である
- このことはマチスにも幸運で、マチスがシチューキンに出会わなければ、マチスがどうなっていたかはわからない。
- 当時の人にとってマチスは過度に斬新だったが、シチューキンはマチスの作品を37点購入した。特に《音楽》と《ダンス》という作品は、シチューキンが自宅に飾るために注文したもの。
- 作品は、マチスにとっても実験だった。《音楽》と《ダンス》は屋敷の入口に飾るものとして発注されたのだが、作品には、少年が裸で描かれていてポルノととられかねなかった。
- シチューキンが、《音楽》と《ダンス》の習作を見たとき、リスクが高すぎたのでマチスにその事を何とか伝えようとしたが、マチスは既に作品の構想が完成しており、このまま行くべきだと思っていて、逆にシチューキンの思いを変えようとした。結局、シチューキンは、ゴーガンへの取り組みと同じ取り組みをしようとした。
- しかし完成作を見たとき、シチューキンはやっぱり「ダメ」と思い、マチスに「自分の2人の少女が、毎日この作品を目にするとは考えられない」と手紙を書いた。「裸を葉っぱで隠せないか」とシチューキンはマチスに言い、マチスは了解したが、何度か手紙をやり取りして時間が経っていたその頃には、シチューキンは慣れて来ていて「これでもいいか」と思い始めていた。
- その後シチューキンは、モスクワにマチスを招いたが、自身は親族に不幸があり別のところにいた。そのため、接待役として仲間の事業家たちに「マチスを豪遊させてくれ」と頼んで、マチスは豪遊を味わった。このことは、その後、シチューキンが持っていたマチスの展示を変えてしまうと言う事に繋がっている。シチューキンは、マチスの作品だけ飾る「バラの間」を作った。
- まだシチューキン・コレクションの完成ではなかった。ピカソがなかった。
- ピカソへの愛は、シチューキンが秘めていた激しさを露わにした
- なぜならば、ピカソの作品はキュビズム初期の作品で、世の中には全く理解されていなかった。
- 《扇子を持った女性》が、最初に買ったピカソ。シチューキンは、慣れない作品の通例通り、人があまり通らず、狭く、薄暗い廊下に最初は飾った。
- 廊下を通るたび目に触れるようになり、人目に触れるようなところに飾られて行くようになった。
- ピカソの作品は51点にもなる。それらは、直接ピカソから買った。
- このような経過で、シチューキンの家はコレクションで飾られて行く。
- ピカソの作品に並ぶように飾られたのはドラン。
- シチューキンの開かれた家は、ロシア・アバンギャルド産むベースになった
- その後、シチューキンの人生の悲しいパートが始まる。第一次大戦でパリに行けなくなり、革命が始まった。シチューキンは、娘婿にコレクションは託し、家族を引き連れパリへ逃げた。しかし、彼のコレクションは国有化されてしまい、第一国立美術館と呼ばれる様になった。
(ここで、残り20分)
- モロゾフもシチューキンに引けを取らない人だが、全く違う人
- 美とハーモニーを大切にし、モネ、シスレーを愛した
- セザンヌはモロゾフにとって「自分の画家」であり、ナビ派を好んだ
- 世の中にあるベストのボナールはモロゾフのコレクションにある
- モロゾフとシチューキンは、互いをライバル視してはいなかったが、実際にはライバルだった
- モロゾフは、自分のコレクションも人々に影響を与えるようになってほしいとおもっていた
- モロゾフはボナールに絵画三点を発注
- マチスにも絵画を発注し、マチスはモロッコ三部作を作成した。これらは、モロゾフ邸の入口を飾る
- モロゾフは、ドニを発掘してもいる。ドニの作品は、モロゾフ邸の音楽室の壁を全て飾った。
- モロゾフとシチューキンの違い。モロゾフは雌鶏が卵を温めるかのように作品に接した。どのように作品を飾るべきか常に考えて、壁には開きスペースを作っていた。ボラールに作品を探させて、開きスペースを埋めた。
- モロゾフは根切りをしないコレクターとしてパリで知られていた。モロゾフは値段には興味なく、作品が自分に必要であるということしか興味なかった
- モロゾフはキャバレーの踊り子と結婚したが、モロゾフの階級ではあり得ないことだった。
- シチューキンは、パリに逃れてからは、お金には困らなかったが、芸術を愛するということはなかった。
- 革命が起きてモロゾフのコレクションも国有化。国立第二西洋美術館となった。モロゾフは美術館となった自分の家に住み続けたが、質素な部屋に移る様に言われたためパリに逃れた。その後バーデンバーデンで50歳でなくなる
- シチューキン邸にモロゾフの作品が移され、一緒にされた。国立西洋近代美術館になった。
- 纏められた二つのコレクションは、他を圧倒する作品。
- ほかのコレクションも集められ、作品は充実していった。
- その国立西洋近代美術館に後のNY MOMA館長となる人物が訪れ、NY MOMA設立のインパクト得た
- 美術館の作品は、共産党の理念に合わず解散の危機に常に晒されて、最終的には本当に解散決定。職員は作品が散逸する事を恐れた。
- プーシキン美術館はドレスデン美術館の作品を引き受けていた時期。数多く受け入れていた頃だったので、収蔵するスペースが足りなかった。
- そこで、エルミタージュ美術館に声をかけて、プーシキン美術館の館長とエルミタージュ美術館の館長が作品を折半することなった。作家ごとではなく、数で単純に分けた。
- スターリンが死ぬまで、どちらでも収蔵庫にしまわれていた。プーシキン美術館ではスターリン死後に公開される。
- フルシチョフ秘密報告の頃始めてピカソが公開。新惑星発見かのようにインパクトを与えた
- しかし2000年代に至るまで、コレクターについては全く知られていなかった。
- 2004年になって初めてシチューキン・コレクション展をプーシキン美術館で実施。その後モロゾフ・コレクション展も実施。今はキャプションに元々のコレクションの表記がある
- パリでシチューキン・コレクション展を行い大成功した。モロゾフ・コレクション展はまだ行っていないので、これから行う予定。
こんな感じでしょうか。
15:30までの予定時間にも関わらず、
シチューキンの話だけで15:10頃になっていたのにはビックリ。
モロゾフの話はしないのかと思いましたよ(苦笑)
話は論理的で、非常にわかりやすかったです。