午前中に展覧会の方を見た後は、午後にトークイベント。
上野の美術館で行われるこの手のイベントの場合、
講演会という形式で、90分位で終わることが多いんですが、
こちらでは気合が入っているのか、14時開始で、
17時終了という、全部で3時間の長丁場。
そんな長丁場のイベントの式次第は以下の通り。
(1)開催館担当学芸員によるリレー講演(1時間程度を予定)
~途中休憩~
(2)パネルディスカッション(1時間30分程度を予定)
二部構成なんですね。
そして出演は、以下のお三方。
阿部 哲人(米沢市上杉博物館 主任学芸員)
長村 祥知(京都府京都文化博物館 学芸員)
西山 剛(同館 学芸員)
ここに江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一さんも
出演予定だったんですが、“急病”と言う事で欠席。
インフルエンザですかね?
って言うか、長村さんも風邪を引いていたようです。
まずは、第一部の講演から。
基本的に、見どころの解説です。
一番手は、米沢市上杉美術館の阿部哲人さん。流石に、上杉家のあった米沢市の方だけあって、上杉謙信に絡んだ話
- 東京展の後半に展示される作品の中から、上杉謙信が、室町幕府体制の再建を祈った『上杉輝虎願文(作品147)』を示しながら、上杉謙信五つの願いのお話。
- その五つの願いとは、
①謙信の分国の安定(越後、上野、下野、安房が分国。不安要素は、喧嘩、口論、無道狼藉、博打、火事、兵乱など)
②人に敬われるような謙信の武運や振る舞い
③足利義昭の命令による北条氏康との和睦
④武田信玄の討滅
⑤上洛による室町幕府体制の再建
- 願いの実現のため、足利義輝死後に、足利義昭の将軍就任運動を行った
二番手は、京都府京都文化博物館の長村祥知さん。
- 長村さんも、まずは上杉家文書から『後奈良天皇女房奉書(184番)』についての解説。
- 曰く、女房の文書は、文頭を揃えず、且つ、ひらがなで書くのが特長
- 上杉家文書にはもう一つ特徴。武家に残されている多くの文書は、天皇や将軍などからもらった文書であることが多く、それらは掛け軸や表装されてしまっていることが多いのに対し、上杉家文書の場合は、掛け軸や表装されずに、そのまま残っている
- 続いて、1535年の『後奈良天皇の綸旨(183番(京都、米沢のみ展示))』について
- これは、長尾為景が御旗の新調したいと朝廷に申請したことに対する許可の返事。
- ここで面白いのが、「いまある御旗が古くなったので、新たな御旗を下賜ください」ではなく、御旗を“新調”しても良いかという内容であること。つまりは、朝廷からもらうこと自体が重要なのではなく、朝廷のお墨付きが有ることが重要であると言う事を示している
- 加えて、この183の文書に対して、その後、何の連絡も無いことを指摘する文書が後に出されていて、やんわりと“お礼”を催促するような内容になっているところも興味深い
- 最後に、清水寺再興奉加帳について。
- これによれば、応仁の乱で荒廃した清水寺の再興に際し、日野富子など室町幕府の有力者が寄進している事を示している
- 面白いのが、越前朝倉氏は、室町幕府有力者よりも多額の寄進をしているということ。(その為、朝倉堂と言うお堂が建てられている)
- 朝倉堂が、洛陽三十三所観音巡礼の第十三番札所であることから、観音巡礼についても言及
- 観音巡礼は西国三十三所から始まるらしく、平安時代からあって、坂東三十三所、秩父三十四所などにも広がる
- 秩父が34ヶ所なのは、西国・坂東・秩父を合わせると百になるようになっているから
- 他にも近江三十三所、洛陽三十三所などの巡礼もある
最後の三番手、京都府京都文化博物館の西山剛さん。
西山さんは、美術品的観点から講演。
- 興味深い作品として、『達磨・豊干・布袋図(京都 妙心寺)』
- これは、達磨・豊干・布袋が一つになっている、達磨とそれ以外は書いている人が違い、足利義政が豊干・布袋図に達磨図を入れ込んでひとつにした
- 次は、狩野元信筆『四季花鳥図屏風』(白鶴美術館)。
- もともと興福寺あったもの
- この作品で面白いところは、春夏秋冬と描かれた後、ふたたび春がえが描かれている所。季節は巡っていくと言う事を描いている
- 最後に、『松崎天神縁起絵巻 室町本』(防府天満宮)
- 実は、これと同様の絵巻がある
- なぜ複製されたかは諸説あるが、現代のマニアがコレクションを、見る用、保存用などのように複数持つことが有るように、後世に残したりするためとも考えられる
休憩を挟んで、第二部。
最初のテーマは「権威と権力」
- 北条氏康と戦争状態にあることを非難し、和睦を命令する『足利義輝御内書(196番)』
- そしてさらに、謙信の意見・申し開きを聞いた上で、あらためて北条氏康と和睦を命令する文書になっている永禄8年3月23日の『足利義輝御内書(197番)』
- 当時上杉謙信は、北条氏康に押されていて、和睦命令は、実は謙信にとって渡りに船。
- 将軍は、絶対服従ではないが、無視できない存在でもある。
- この和睦命令で興味深いのは、同じ様に上杉謙信と争っていた武田信玄には触れておらず、北条氏康のみが対象であること。こう言う所も、上杉謙信が受け入れる余地があった
- 当時の京都には幕府も朝廷もある。
- 実態的な支配力は無いかもしれないが、幕府もそうだが、朝廷に対しても権威を求める事はある。
- この当時、実態的には、当時の将軍足利義輝よりも上杉家の方が軍事力があったと考えられる。
- だが、上杉家が幕府を凌駕しようとする動きは無く、権威として利用できるならば利用としていた。
- 上杉謙信は、二度上洛している。
- 一度目は天皇にのみ拝謁、二度目は天皇と将軍に会っている。この際、幕府に対して、守っていくと言う事を申し述べている。
- 将軍の権威の下、輿に乗る権利、北条との戦いの正統性などの特権をもらっていてる。
二つ目のテーマ、「京都の権威」
- 京都を中心とする権威と秩序の広がりについて
- 官位・官職、古典文化・威信財・美術工芸品、特権の広がり。もちろん、実力“も”必須の時代だった
- 1481年(文明13)大内政弘が所望した『源氏物語(大島本)』。
- これは、飛鳥井雅康が書写したもの。
- なぜそれが判るかと言えば、『関屋』に書かれた奥書に書かれていたので分かる。
- 当時、応仁の乱などで財政が困窮していた公家が諸国に下向して、和歌や蹴鞠を教授していた。こう言うさなかに書かれたと考えられる。
- 筆跡などにより、『源氏物語(大島本)』の多くは飛鳥井雅康の手によると思われるが、『桐壷』は違う。
- 『桐壷』は吉見正頼のもの。
- これも奥書に書かれている。
- 1564年(永禄7)、長府で聖護院道増が補写。
- 当時、聖護院道増は、足利義輝の依頼で、大内と毛利の和睦交渉を仲介。
- 当時の流行りとして連歌があって、大名が部下よりも下手な歌を歌うわけにはいかないので、中央からの下向してきた公家に寄る連歌教授は地方大名には重要だった。
- 『源氏物語(大島本)』の書写の背景には、そう言う事情がある。
- 公家が多数下向していた事については、いままで想像されている以上に道沿いの宿場が整備されていた事をしめしている。宿泊料金も統一化されていたと言う研究もある。
- 戦国において物流は重要だったので、街道が整備されていたというのはリーズナブル
三つ目のテーマ「美術工芸品」
- 『国宝 雪中帰牧図』(奈良 大和文華館)。足利義久が持っていたと言われている。
- とは言え、将軍に、審美眼があったかは不明。むしろ、投資対象として見ていた可能性。
- 『国宝 狩野永徳筆 洛中洛外図屏風』(米沢市 上杉博物館)。
- この洛中洛外図屏風上杉本は、非常に状態がいい。恐らくは、大事に保管されていた。
第四のテーマ「列島の交流」
- 先にも示している清水寺再興奉加帳。畿内のみならず、様々な西国の有力者の名前がみられる。
- 北海道上ノ国町の勝山館(かつやまだて)。
- ここからは、本州で作られた製品(倭人の文化)が出土している。当然、アイヌの文化も出土。特徴的なのは、お墓。倭人の文化、アイヌの文化ともにみられる。大陸からの青磁、白磁もみられる。
- 非常に広い範囲で交流が行われていた
ちょっとまとまりがないですが、こんな感じでしょうか。
見どころとか、歴史的背景とかが解説され、非常に有意義でした。