博物館関連の様々なイベントが開催されるそうです。
そんなイベントの一つに、
徳川将軍家の霊廟が参拝できるという寛永寺特別参拝イベントがあり、
申し込んでみたところ当選したので行って来ました。
カメラを持って行ったんですが、根本中堂の外観以外は、
撮影不可と言う事で、写真はありません。
悪しからず。
さて、特別参拝当日の今日は、朝は晴れていたものの、
午後から雷雨の確率が高いというかなり微妙な天気。
実際、空を見ると、このまま曇っていって、
雨が降り出しても不思議ではない様な感じ。
上野駅で近傍でランチを摂った後、ぐるっと回って、
通ったことのない、開山堂(両大師)や輪王殿の前へ。
途中の陸橋から。
こんな感じの見え方がするんですね。
そして、東京国立博物館の前を横切って、
藝大の手前で曲がって、国際子ども図書館とトーハクの間を通って、
寛永寺第三霊園側から、境内へ。
上野の寛永寺。
正確には、東叡山寛永寺。
その名前は当然知っていて、且つ、上野には何度も何度も来たことがありますが、
寛永寺に来たのは、初めて。
嘗てはね、上野恩賜公園の敷地全体が、寛永寺の境内だったわけですが、
いまの時代からみると、上野公園の奥に位置しているように見えてしまいます。
時代の流れと言えば、そうですが、なんだかね。
特別参拝開始は、14時からですが、受付は13時半から。
ちょうどその頃に、根本中堂に到着したところ、
既に受付を済ませてしまった人たちが多数。
比較的年齢層の高い方たちですが、待ちきれなかったんでしょうね。
14時の開始までの間、根本中堂の中を少し見てみます。
須弥壇中央には、十二神将や四天王、毘沙門天、不動明王などがたくさん配置。
東京国立博物館の十二神将の展示も見事ですが、
実際に祭られてお参りされているこちらは、より素晴らしく見えました。
いやぁ、凄いですよ。
さて、14時なり、寛永寺の住職がやってきて、まずはお話から。
- 今回の、特別参拝の倍率は8倍だった
- 江戸城を中心として、鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺を配置。もともとは、国全体の未来を願うためのものしての役割が寛永寺で、一方の増上寺は、徳川(松平)の菩提寺としての役割だった。
- 未来を願うと言う事で、寛永寺のご本尊は薬師如来。増上寺は、菩提寺と言う事なので、阿弥陀如来である。
- 上野は、京都・滋賀を模して造営されたと言われているが、上野の桜は、元々奈良の山桜を模したもの。しかし、戦争ですべて焼失してしまい、今の上野の桜は、戦後、ソメイヨシノを植えたものである。
- 寛永寺貫首は、慈眼大師天海が開祖だが、三代目貫首からは、寺格と言う事もあり、宮様が来て、輪王寺宮と呼ばれた。
- 寛永寺の本坊は、絵が残っていない。輪王寺宮の宮さまの住んでいるところだから、畏れ多いと言う事なのだと思う。
- 寛永寺には、多くの支院があるが、名前に“院”が付くのは藩が寄進して、寛永寺にお参りする時に、休憩や支度などの際に使ったもの。従って、“院”は、寄進した藩でなければ、使えない。一方、清水観音堂など、名前“堂”が付くものは、そう言うものではなく皆のお参りする事が出来るところである。
- 寛永寺用語で、表方=将軍のみ、裏方=将軍以外の徳川家の人びと
- 幕末、江戸城は無血開城されたが、篤姫が最後まで反対して粘ったと言われてる。しかし、周囲の人々が「一時的なものですから」と説得して、篤姫も江戸城から退去することになった。実際には、一時的ではなく、永遠に江戸城に戻ることはできなかったが
- 上野戦争の頃、江戸の庶民の感情としては、薩摩などのよそ者よりも、地元で親しみのある彰義隊の方に心情的には近かった。
- 上野戦争では、寛永寺は焼け野原に。そして、今の西郷像付近に、彰義隊犠牲者の遺体は集められたが、賊軍と言う事で、埋葬することも弔う事も許されなかった。そんな中、南千住・箕輪の円通寺の住職が自らの命を賭して彰義隊犠牲者を弔ったので(寛永寺の僧侶は、戦争の際に逃げてしまい居なかった)、御成門が円通寺に移されたという由来がある。その御成門は現存している
- 昔の根本中堂は、今の上野公園の噴水付近にあり、大きさも、東大寺大仏殿にも勝るとも劣らないような、間口が今の2倍ある、かなり大きいお堂だったが、彰義隊の上野戦争で焼失した。
根本中堂でのお話はこれくらい。
ここからは、葵の間、徳川将軍霊廟に移っての解説です。
- 徳川15代将軍慶喜蟄居の間、葵の間。2回移築されていて、材料を継ぎ足さないでいたので、大きさが二畳ほど小さくなっている。奥には、廁。
- 徳川将軍霊廟。徳川宗家の拝殿、御三卿の拝殿がある。御三卿の、田安家、一橋家は今もお参りに来る。一方、清水家は、今の当主がクリスチャンなので(挨拶などには来るが)参拝には来ない。
- 今回は、“特別参拝”と言う位置付で徳川将軍霊廟を見てもらう。従って、見るだけではなく、お参りも願いたい。
- 五代将軍綱吉の墓は銅製。一番大きい。当時、将軍の葬儀は、秘密裏に夜に行っていた。宝塔の中に公卿座りで土葬されている。霊廟の回りの石垣は、元々は無かったものだが、勝海舟が霊廟が荒らされるのを憂い作った。その際、霊廟にあった灯篭を売って資金を捻出したので、元々徳川将軍霊廟にあった石灯篭が、全国に散らばっている
- 八代将軍吉宗の宝塔は五代将軍の隣にある。石製で質素。吉宗以降の将軍は銅製禁止とした。また、霊廟を新たに造成するのも禁止し、既にある霊廟に宝塔を設けることとした。吉宗は、綱吉を尊敬していたとも考えられ、故に、綱吉の隣に墓を作ったのではないかと考えている。また、吉宗の宝塔、ここに至る石畳は、関東大震災、東日本大震災を経ても、しっかりしている。それだけ、当時の技術の粋を極めて作られている。現代の技術者に見せても、凄い技術で作られているとのこと。
- 十一代将軍になる予定だった家基の宝塔もある。家基は、将軍になる前に品川で亡くなった。徳川家で、名前に“家”の文字を持ちながら、将軍になれなかった唯一の存在で、将軍同格で祀ってある。
- 五代将軍綱吉の宝塔を挟んで、八代将軍吉宗の反対側に、十三代将軍家定と家定正室の篤姫の宝塔。通常、裏方の存在が、この様に祀られる事は無いが、篤姫は将軍同格に祀ってある。16代の当主が祀ったのだが、それほど篤姫の存在が徳川家にとって大きかったと言う事と、篤姫は明治の世になってから亡くなったから可能であったと考えられる。
- 徳川宗家16代当主の家達とその奥方のそれぞれのお墓と17代当主家正が夫婦で眠るお墓もある。16代目からは、土葬ではなく火葬になった。18代恒孝氏も、将来はここに眠る予定となっている。
- 最後の輪王寺宮の北白川宮能久親王は、上野戦争では、兄の小松宮彰仁親王と戦う事になった人。その後、還俗し、軍務について台湾で薨去。皇族にあたるので、宮内庁の管轄になっているが、寛永寺貫主であったので、寛永寺で祀ってもいる。
明示的には言いませんでしたが、住職の言葉の端々に、
徳川家への尊敬の念を感じました。
逆に言うと、幕末の薩長の動きに、疑問を感じている様にも思えました。
いやぁ、勉強になりました。
さて、写真は撮影不可と最初に書きましたが、
ちょっとだけあります。
これは、根本中堂の屋根の上。
寛永寺自体が、葵の御紋にまみれているんですが、
ここにもあるんですね。
そしてこちらは、根本中堂の前にある灯篭。
アップ。
これにももちろん葵の御紋。
これは、鐘の付近にあった、旧本坊表門鬼瓦「阿」形
これは、その隣にある、根本中堂鬼瓦
こんど、増上寺にも行ってみようかなぁ。