心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。
聖書の「種まきのたとえ」の話しはルカの8章、マタイの13章、マルコの4章に出てきますから、おそらくはイエス様のたとえの中でも、外すことのできないものだったのだと思います。ではこの「種まきのたとえ」でイエス様は何を言おうとしているのでしよう。私たちの人生にも水戸黄門のうっかり八兵衛が「てーへんだ、てーへんだ」と転がり込んでくるような事が起こることがあります。でも水戸黄門のドラマはほとんどがフィクションで、実際の黄門さまはそのような全国を回って、悪を退治したわけではないと言います。でもあなたの人生に起こる大変なことを、ほんとうに乗り越えさせてくれる方がいます。その方はその大変な時にあなたがその大変を乗り越えられるようにと、信仰の種をあなたの心に今も蒔き続けてくださっているのです。良い地になるとはイエス様のこころに似てゆくこころのことです。そこには愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という、御霊の実、つまり神の実がなります。でも実のならない他の三つの土地も私たちの心の中にあるのです。そのあなたの心の中にある実を結ばない三つの土地を耕して、良い地の地境を少しずつ広げ神の実がなるようにすること、それが神様のこころへと近づいてゆくということなのです。そして主はあなたがそうしてくれることを期待して、今日もあなたのこころに聖書を通して、みことばの種を蒔き続けてくださっているのです。ならばいつから耕しはじめますか。そう「明日からではなく」今日からはじめてゆこうではありませんか。
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私たちはついつい主の働きでも人の上に立つような働きをする人が重要だと考えがちです。しかし神の基準は異なります。それはひとりひとりに神が与えられたその分量で行えば神の御前では十分なのです。『しかし、私たちは一人ひとりキリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。』(エペソ人への手紙4章7節)少ないからと言って卑下してはならず、多いからといって誇ってはならないのです。私たちは時にはその弱さのゆえに心が揺るがされることもあります。そんな弱さを私たちが支え合うために、神はひとりひとりに賜物を与えてくださったのです。それは自分のために与えられるものではなく、誰かのために与えられる神からあなたへの贈物なのです。
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悪を行なう敵に悪をもって報復する時、その報復合戦は永遠に続くことを私たちは世界の情勢を見て知っています。つまりその方法では平和は築けないということです。これは無条件に停戦せよと言っているのではありません。『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』(マタイの福音書5章44節)。神にあって私たちが聖書に示されている愛を行う時、そんな私たちを見て「そんなのなんになるの、ほんとバカな人たちだ」と馬鹿にされることもあります。それでもイエス様はすべての敵意を、そしてすべての人の罪を引き受け、それらすべてを持って十字架へと進まれたのです。『また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(エペソ人への手紙2章16節)。今ほんとうにこのことを、終わらない憎悪の世界にいる人々に知ってほしいと思うのです。
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足掛け九年という、ほんの少しの間でしたが、携わらせていただいたキリスト教葬儀。そこには必ずと言っていいほど、キリスト者としてこの地上を生きた方の、確かな証しがありました。召されたキリスト者一人ひとりの葬儀での証しは、地上の人生を見据えながらも永遠の御国への希望を掲げるとと同時に、今を生きることの大切さを遺された者に語りかけているようでした。それは、召された方一人ひとりの「いのちの遺言」と言えるでしょう。『主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」(ルカの福音書7章13-14節)』
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『どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。』(ピリピ人への手紙3章2節)。パウロはイエス・キリストの福音だけでは救われないと主張するユダヤ人たちを「犬」と呼んでいてちょっとびっくりです。彼ら律法主義的なユダヤ人たちはイエス様の十字架と復活を信じる信仰だけで救われるのではなく、救われるためには割礼も必要だと主張しました。それでもそんな彼らの多くはそれを悪意からそう発言したのではなかったでしょう、悪意からと言うより彼らはかつての教えからアップデートできていなかったのです。携帯電話もパソコンもそうですがアップデート、バージョンアップは前のバージョンがあってこそできます。ですからまったく前のバージョンがインストールされていなければアップデートはできません。旧約聖書の知識があって新約聖書へのバージョンアップ、アップデートができるわけですから彼らの律法主義や宗教的伝統も、決してすべてが無駄なものではありませんでした。しかし時至って神は、イエス・キリストを通してその律法主義からイエス様の十字架と復活による救いへと私たちを信仰をアップデートされたのです。
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