心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

眠れない夜には

2024年09月08日 | ◆聖書の言葉
三浦賛美(みうらさみ)さんのコンサートに行ってきました。彼女のYouTubeは自分のいのちを大切に思えなくなってしまっている若者の心に、そのままの今のあなたを大切に思ってくれている神がいることを、さりげなく飾り気なく優しく語り掛けています。辛くて眠れない夜、さみさんの賛美歌を通してひとりでも多くの人が、自分のいのちの大切さに気づいて欲しいと祈りました。

YouTube「眠れない夜には」三浦賛美

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復活のイエス様と最初に出会った人

2024年08月05日 | ◆聖書の言葉
イエス様が十字架にかけられ墓に葬られ、弟子たちが皆「もう何もかも終わりだ」と失望のどん底にいた時、イエス様の復活の事実を最初に彼らに伝えたのは、他の誰でもなく罪深き女と言われていいたマグダラのマリヤでした。私たちはその事実をけっして小さく見積もってはならないでしょう。かつては自分の罪深さに苦しみ、人目さえ避けて生きてきたマグダラのマリヤ、彼女がもしパリサイ派の者に近づいていったら、きっと彼らはあわてて長服を手繰り寄せて遠ざかったことでしょう。でもイエス様はそんな彼女に復活の最初のお姿を現してくださったのです。『マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。』(ヨハネの福音書20章18節)

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それでも人生には意味がある

2024年07月09日 | ◆聖書の言葉
私たち信仰者にとっての備えとは何でしょう。それはやがて訪れる七年の患難の時も決して悪に屈することなく、イエス様にあって信仰を手放すことなく、堅く信仰に立ち神の御国へと携え揚げられる為の備えです。『むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。』(ペテロの手紙第Ⅰ- 4章13節)最後の裁きの直前の七年の患難は、今あなたがそして人類が経験している苦難、困難、災難を遥かに超えるものです。でもその時、あーあの苦難を私はイエス様への信仰によって乗り越えてきた、あー私はあの困難に打ち勝ってきた、あー私はあの災難だって教会で共に祈り、そして超えてきたではないかと思い出す時、それはあなたの信仰の力として、あなたを必ず助けることになるでしょう。それはこの地上の人生においては辛いことであることに間違いはありません。でも私たちは「なぜ私の人生にはこんなにも苦難、困難、災難があるのか」と考えるのではなく、この苦難、困難、災難には、どんな意味があるのだろうかと考えることが必要なのです。「夜と霧」を書いたヴィクトール・フランクルは、ユダヤ人としてナチスの強制収容所で妻と両親の命を奪われた後に『それでも人生には意味がある』と語りました。今あなたが経験している苦難も、困難も、災難も、それはやがてすべての人に訪れる患難を、あなたが乗り越える為のものである、とあなたが知る時、私たちは本当の意味で、今、自分の目の前にある苦難、困難、災難に対して、勇気を持って立ち向かうことが出来るのです。

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朱に交われば赤くなる

2024年05月06日 | ◆聖書の言葉
『朱に交われば赤くなる』ということわざがあります。交わる仲間や友人によって感化されることのたとえであり、人は周囲に影響されやすく、交際する相手によって善にもなれば悪にもなると国語辞典にありました。聖書には『鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる』(箴言27章17節)とありますから、信仰者は良き信仰者との交わりによって、クリスチャンとして成長するのではないかなとも思います。教会の存在意味はそこにあるとも思います。

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神のリズムで生きる

2024年04月09日 | ◆聖書の言葉
詩と賛美と霊の歌により感謝して心から神をほめ歌う時、あなたが神のリズムに合わせて生きる時、私たちの過去の自分の発言に縛られた思いは消え去ります。神のリズムで生きるのは嫌ですでも祝福だけはくださいでは、本当の意味での聖書の中にある祝福、喜び、楽しみ、恵みと平安には、おそらくたどり着けないでしょう。神のリズムは、次に何をすべきかにあなたを集中させます。それは時に難しいリズムほど過去を考えている暇をあなたに与えません。そうです神のリズムはあなたの心を、未来へと向けさせるのです。「夢の国」ディズニーランドは子どもたちを熱狂させます。でも出口を出て、家に帰れば、そこにあるのは現実の世界、夢の国は、永遠には続きません。しかし「神の国」Kingdom of God、「天の国」kingdom of heaven、天国は、単に死者の行く世界ではありません。そうではなくそれは「神が統治する国」という意味でもあるのです。それは十字架の上でイエスさまを信ずる者に『あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』(ルカ23:43)とお答えになった事と同じ事が、イエスさまを信じるあなたにも、今のこの世で、永遠の御国として、あなたに与えられるものであり、家路につけばやがて霧のように消える夢のような楽しさではないのです。ですからさぁ! 今日から始めましょう。一年のサイクルを、一ヶ月のテンポを、そして一週間リズムを、そして一日一日を、しっかりと、「たーん た たん」と、神のリズムに合わせて、共に生きてゆこうでは、ありませんか。
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憎しみの向かう先

2024年03月04日 | ◆聖書の言葉
『アンネの日記』が何か所もの図書館で破られてしまった事がかつてありました。いろいろな意見はあると思う。でもそれを表現する時には何よりもやさしさが大切だと思う。はじめから喧嘩をしたいのか、それとも本当に相手にわかってもらおうとしているのか。もしもはじめから喧嘩をしたいと思っての事ならば、その人の心の中にあるのは絶望的な悲しみだという。だから気づいてほしい、憎しみの向かう先は滅びであり、たとえ相手を打ちのめしたとしても、それがあなたの悲しみの心を癒したりはしない事を。『主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助けだされた』(詩編107篇20節) ひとりでも多くの人が、神様のことばによっていやされ、憎しみから助け出されますように。
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父なる神の愛

2024年01月07日 | ◆聖書の言葉

俯いていた心の目を上げ、前を見てみてください。そこにはあなたを迎えようと両手を広げ、そしてあなたに走り寄ってあなたをしっかりと抱きしめてくださる、父なる神がおられるのです。『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』(ルカの福音書15章20節)。すべての物を失っても残るものがあります。それはいつでも、それはどんな時でも、それはいかなる場合でも、それはあなたがどこへ行ってしまったとしても、あなたの帰りをずっと待っていてくれる『父なる神の愛』なのです。
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イエス様を、喜び、楽しみ、祝おう

2023年12月09日 | ◆聖書の言葉

紀元前165年、シリア軍によって蹂躙された自分たちの神殿をユダヤ人たちが取り戻し祓(はら)い清めた時、神殿の聖なる油はたった1日分しか残っていませんでした。ところがなんとこの燭台の火はその1日分の油で8日間も燃え続けたのです。この出来事を記念して行われる別名「光の祭り」とも言われているこのハヌカの祭では、「ハヌキア」と呼ばれるこの九枝の燭台に毎日一本づつ火を灯して8日間の間みなで喜び祝うのです。この祭りは新約聖書では『宮きよめの祭り』(ヨハネ10:22)として登場します。イエス様もきっとこの『宮きよめの祭り』の時に宮にいたわけですから、ユダヤの伝統としてこの祭りを守られたていた事でしょう。それは闇に光をもたらすイエス様ご自身を現す祭りの予表として、楽しく喜び満ち溢れた時としてイエス様もきっと子どもたちと一緒に過ごされた祭りだったことでしょう。ろうそくで灯す光り、甘いパン、それはクリスマスケーキや、聖なる静かな夜に灯るろうそくを連想させます。ユダヤ人の祝うハヌカと異邦人の祝うクリスマスには直接の関係は無いと言う学者もいます。でもやはりこれだけ二つの祭りのイメージが近いことからもまったく関係ないとするには無理があるように私には感じられます。さあ私たちも今月、そんな楽しい喜び満ち溢れた光の祭りハヌカの祭りを、そしてクリスマスを通して、人々を救うために、天からこの地上に、人となって来てくださった、暗闇を照らすまことの光、イエス様のご降誕を、ご一緒に心から喜び楽しみそして祝う者となろうではありませんか。
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イエス様の和解の使者として

2023年11月06日 | ◆聖書の言葉

全能なる神はすべての権威を持っておられるお方です。その神の御子イエス様は押しつけもせず強制するでもなく、ご自身のいのちを捧げることによって神との和解の道を私たちに示してくださいました、それが和解の十字架です。それはもうすでにイエス様を信じている者たちだけの死ではありません。それは神の全能の力を無視する者のために、主なる神の権威を侮る者のために、憐みの主の御心に背く罪人の為に捧げられた、和解の死なのです。『これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。』(コリント人への手紙第Ⅱ-5章15~21節【新改訳2017】)。世界は今、憎しみと憎悪に覆い尽くされようとしています。だから今こそイエス様のその思いを、イエス様の贖いの死を、イエス様の和解のことばを、ひとりでも多くの人が聖霊を通して、超自然的に受けとることができるように、祈る者になろうではありませんか。なぜなら主は、あなたが『イエス様の和解の使者として』生きることを、望んでおられるのですから。
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だれでも渇いているなら

2023年10月04日 | ◆聖書の言葉

神殿があった時代、仮庵の祭りの間には毎朝「水を捧げる祭り」を行っていたといいます。人々は神殿の麓にある「シロアムの池」から水を汲み、たいまつを掲げ手に楽器を持って賛美と踊りを踊りながら、その水を神殿まで運び上げて捧げていたのです。その仮庵の祭りが近づいたある日、イエス様はこう語られたました『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネの福音書7章38節) それは二千年の時を超えて、今を生きるあなたに語られた言葉でもあるのです。

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人生のリニューアルオープン

2023年09月03日 | ◆聖書の言葉

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第Ⅱ-5章17節)イエス様の死は、サタンの力を打ち破り、罪の鎖から私たちを解放します。信じない者たちには、イエス様の死は、無価値に見えますが、信じる者にとっては、ことばでは言い表せないほどの、賛美と感謝を伴う、無限の価値となるのです。さぁもし今、そのことに気づいたなら、今日が、今がその時です。今この瞬間、今日を、あなたの人生のリューアルオープンの日としようではありませんか。
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名もなき普通の人たち

2023年08月07日 | ◆聖書の言葉

『彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。』(使徒の働き12章13-14節)。聖書の中には主を愛し、そして人を一生懸命に愛した人たちが、たくさん登場します。もちろんアブラハムは信仰の父です。その息子イサクも、孫のヤコブも、モーセも、エリヤも、ボアズも、ダビデも、ソロモンも、パウロも、ヨハネも、ペテロも、母マリヤも、もちろんみんな偉大な信仰の先輩であり、聖書の中の有名な人たちです。でもキリスト教会2000年の歴史は、そうした有名で立派な人たちだけで紡がれてきたわけではないのです。いえ、むしろ、名もなき普通の人たち、ロデさんのような普通の信仰の人々によって、その出会いによって織りなされてきた時が、ほとんどすべてなのです。
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愛を取り戻す為に

2023年07月04日 | ◆聖書の言葉
「なんで私だけが」「なんで俺だけが」という思いが引き金になって、自分の命を大切にしなかったり、誰かの命を大切にできなかったりする事件が、後をたちません。「自分の事なんか誰も分かってくれない、だから自分も他人も、もうどうなってもいい」と、自暴自棄なって犯罪を犯し逮捕され、挙句は「無敵な人」なんてゆう悲しいレッテルをマスコミに「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」に付けられて。でもひとりひとりの人生は、そんな簡単なものではないはずです。本当はあなたはひとりぼっちなんかじゃない。でも世の中の人はみんな、その事を知りません。ほんとうは「私のその苦しみを、私のその悲しみを知るために、私以上の苦しみを自ら進んでお受けになった方がいたんだ」と自暴自棄になってしまった人が知っていたら、そこにはもっと違う生き方があったはずです。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(ヘブル人への手紙12章2節)。イエス様は一度あなたが離してしまったその『愛を取り戻す為に』苦しみの道を歩み、そして十字架にかかられたのです。
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種蒔く神の御思い

2023年06月05日 | ◆聖書の言葉
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコの福音書4章12節)。「種を蒔く人のたとえ」は、しばしば種を蒔かれる側の人の心の状態の話しとして語られます。しかし実はこの「種まきのたとえ」の視点は、蒔かれる側の人の心「四つの地」の方ではないのです。ではこの「たとえ話し」の視点、中心はどこにあるのでしょう。実はこのたとえ話しの中心は「四つの地」でもなく「種」でもないのです。実はこのたとえ話しの中心は「種蒔く人」なのです。収穫の効率を問うなら、道ばたや、岩地、いばらの中に、種を蒔く人なんていないでしょう。あなたが実のならない土地に種を蒔いている人を見つけたとしたら、きっとあなたはその人に「ちょっと種がもったいないから、そんなところに蒔くのは、やめなさい」と注意するのではないでしょうか。ところがこの「たとえ」の人は、良い地、だけではなく問題のあるその他三つ土地にも、多くの種を蒔いているのです。そうです、この種蒔く人は、悪い土地にも期待をしているのです。もう、お気づきですね、この「たとえ」話しの中心は、四つの地でも種でもなく、種蒔く人つまり、種を撒かれるお方、神が中心となる「たとえ」なのです。蒔いておられるお方、神はそのあわれみと愛のゆえに、そうですすべての人にまったく同じよい種を蒔かれ、そしてすべての土地の収穫を期待されたのです。やがて実を結ぶのはあなたです。しかし豊かに実ったその実を収穫するのは、あなたではありません。その実を収穫するのは、種を蒔いた主人、つまり神であるということです。
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後になって考えてみると

2023年05月11日 | ◆聖書の言葉
友人とは自分を助けてくれる人、敵とは自分の邪魔をする人、とその時はそう思うかもしれません。でも「後になって考えてみると」その友人の甘い言葉、甘言(かんげん)で道を踏み外し、その敵の邪魔を乗り越えたからこそ立てる今の場所があったりもします。苦難にあえば心は折れそうになり、時には孤立無援でその状況を恨むかもしれません。しかしそれが主の訓戒であり、その苦難を乗り越える力と希望もまた、あの時、主が与えてくださったのだと「後になって考えてみると」わかる時もあります。愛する人を失った心の痛みは、もう世界が滅びてしまってもよいと思うほどであったとしても、神がその悲しみの心に触れてくださり、なぐさめてくださっていた事を知る時、あの時があったからこそ今の自分の信仰があると「後になって考えてみると」そう思う時だってあるのです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8章28節)。喜びの出来事はもちろんですが、その時は自分にとっては好ましく思えなかった悲しみの出来事すら、イエス様の心を深く深く知るための出来事だったと、「後になって考えてみると」気づくこともあるのです。
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