私はゼロではない。何故なら、私には思いがあるからだ。そして、ゼロではないのなら、私は1なのだ。1であることはとても素晴らしいことだ。何故なら、神も“1なるもの”だからだ。
世界にはゼロになることを目指す者達もいる。彼らは思いを観察し、思いを消して自分達はゼロに成ったのだと言う。
世界を消して自分を消して、それが涅槃なのだと言う。
だが、涅槃を味わっている自分までも消し去ってしまいたいと思っているのだろうか?
それでは、本末転倒ではないだろうか?
ゼロというのは、存在しないということであり、1というのは存在するということである。
ゼロというのは決して存在するようにならないことであり、1というのは決して存在しなくならないということである。
神アートマは1である。神アートマ故に、“私”という思いもまた尊い。
エゴや欲望、邪な願望によっても汚染されない“私”を神アートマという。
だから、汚染された邪な“私”を消し去っただけでは不十分なのだ。
神アートマの愛、慈悲、憐れみを掻き立てる尊い“私”を確立する必要があるのだ。