全託なのか?どうなのか?ということは、スワミにならどうされても良いと思っているのか?どうなのか?ということなのです。
全託というのは、やくざ者の世界から皇軍の一兵卒に至るまで広く行き渡っている絶対服従のことです。
自分には取捨選択の自由があると思っている内は、全託ではないのです。
全託を謳いながら師の欠点をあげつらう輩に追従(ついしょう)してはいけません。
善人の行う通りに行うことが出来るなら、神の行う通りに行うことも出来るようになります。
人が何を語っても真摯に耳を傾けることが出来るなら、神の語る言葉にも真摯に耳を傾けることが出来るようになります。
正しい行いに優劣の違いはありません。
正しい行いをする人が結果の優劣に拘ることはありません。
会堂を信者で満たすのも閑古鳥を鳴かすのも、神の意思に他なりません。
全託の人は、あらゆることから学ぶ人です。
“神様、全てはあなたの為さるままに”と言える人は全託という魂の夜明けが間近に迫っている人です。
全託の時には、ただ感謝と喜びしかないのです。
怨みの思いは溶けて流れ去り、妬みは焼き尽くされ、高慢の鼻柱はへし折られ、膝が崩れ折れ無我になってひれ伏した時、全託という暁の光が明け染めるのです。
“わたくし”というものが神に抗っているのですから、私を滅してしまえば、もう神に抗う者は何処にもいない訳です。
自我の肥大化、思考の肥大化、欲望の肥大化が、現代人の三大苦です。
何でも好きなようにしていて良いのですと言われ続けていれば自我は肥大化します。
何でも思ったようにしていて良いのですと言われ続けていれば、思考は肥大化します。
何でも欲しいものは手に入れるべきなのですと言われ続けていれば、欲望は肥大化します。
経済原則に則ってあらゆる宣伝は、自我や思考や欲望を肥大化させるべく全力を尽くして誘惑します。
国家権力による宣伝に国民が容易に踊らされることは歴史が証明しています。
これらの肥大化は、慢心の慢という言葉に言い表されます。
自分の力に依り頼むことを慢というからです。
“私は何も欲しいものはありません、全てをあなたに託します、私は自分の努めを全力で果たします”というのが心に安らぎを得た人の思いです。
色受想行識の業火が盛んに燃え盛っている時に、色々な肥大化をすることは火に油を注ぐようなものです。
どうしてそれで安楽(スッカ・シャンティ)が得られるでしょう?
福徳円満で心安らかであることが、神仏が人間に期待しているあるべき姿なのです。
その上で更に高尚な境地を目指せと言っているのです。
善人で居る為に努力する者は天界に昇ると言われています。
天界とは、身も心も魂も清らかな者の住む世界だからです。
神と一つになるのなら、神のように清らかになることが絶対必要条件です。
常に求められることは、真実に忠実であることです。
真実には、聖なる愛、ダルマ、平安、非暴力が寄り添います。
スワミのバクタに求められている真実は、純粋で汚れの無い神聖な愛だけです。
その愛が犠牲と献身と奉仕の姿をとる時、私達は神の愛と一つです。
神が自ら光を放ち分け隔てなく全てを照らすように、私達の愛も自ら光を放ち分け隔てなく全てを照らします。
“私は、愛が溢れ出てしまわないように、自分自身を抑えている”
ーサッティア サイババー
真理は一つです。
神の愛が溢れ出てしまえば、世界は一瞬の内に浄化され、神がシナリオを書き、神が自ら演じている、神聖な宇宙劇は突然の終焉を迎えることになるのです。
信じようと信じまいと、私達一人一人も、神の神聖劇で神が演じる登場人物の一人です。
私が私だと思っている私は、見せ掛けのまやかしに過ぎない私だと言うのは、ヴェーダンタ(ウパニシャッド)の説いている真理です。