羊の見る夢

霊性。

絆。

2023-09-08 20:24:33 | 日記
神との絆は縦の絆で、仲間との絆は横の絆。

帰依者というのは個人事業主であり神と業務委託契約をし、仲間とは業務組合を作っているようなもの。

その人の人生が事業であるから、誰もが皆、事業主な訳です。
人生を神に捧げるその捧げ方は千変万化の万華鏡のようです。

個性を輝かせることで一体性がより強まります。

私達は誰もが皆、自分の物語(人生の物語や信仰の物語)があります。

だから、僻んだり妬んだりすることは無用であり、依存したり君臨したりすることも無用です。

人の真似をすることも無用であり、人に自分の真似をさせることも無用です。

誰しも皆、自分の人生以外に生きるべき人生は無いからです。

輝かしい人生は、それ自体が
放棄と無執着の結果であり、また原因ともなるものです。

善い人生を生きた人は放棄と無執着の道を好ましく思います。

何が自分の人生を善い人生にしたのかを、経験を通して知っているからです。

信仰生活は迷妄の終焉が第二の人生の始まりです。

無執着や放棄は、熱望し切望する篤信の帰依者に神が授ける恩寵です。

神の信仰の中に自らの力を恃むという観念はありません。

私達は最大限の努力を惜しみませんが、なるかならないかは神のお心次第だからです。






世界を纏うもの。

2023-09-08 10:18:42 | 日記
肉体、心、知性、魂といったものはすべてコーシャ(繭或いは鞘)です。

コーシャが有るということは、当然何者かがコーシャを纏って居るということです。

繭の中に蚕が入っておらず空っぽの繭だけが在るというのは不合理です。
鞘の中にエンドウ豆が入っておらず空っぽの鞘だけが在るというのも同様に不合理です。

したがって、何者かが、肉体をコーシャとして纏い、心をコーシャとして纏い、知性をコーシャとして纏い、魂をコーシャとして纏います。

五うん仮和合を説く仏教では肉体や心や知性や魂を何者かによって纏われたものだと言うことは不可能です。
それらを纏って居る本体や実体の存在を想定しないからです。

然し、ブラフマニズムやヨーガでは実体を想定している為、コーシャを説きます。

五うん仮和合の説は快苦に囚われないことを説くのに有利ですが、コーシャの説はアートマンの存在を説くのに有利です。

然し、コーシャが説かれるのは覚醒を促し覚醒の道を辿るようにするためです。

自己がコーシャを纏っており、その自己に目覚めることがゴールだからです。


夢から醒めなさい。

2023-09-08 07:29:15 | 日記
五うん仮和合という原理が働いて、この世という夢の世界が成立しています。

この世は私達自身が造り出している夢の世界なのですが、夢が私達に与えるものは快と苦というただ二つのものだけです。

この世という夢の世界が、五うん仮和合の世界だと言われる所以です。

十二縁起もまた、この世は夢であることを説いたもので、その発生とその機序を解き明かしています。

言うまでもなく、ブッダとは真理真実に覚醒した人のことです。

シャーキヤムニブッダもまた、この世は夢であるという真理真実を解き明かしたのでした。

“甘い夢の眠りから醒めよ”とは古来からの聖者賢者の言なのでした。




神というものは。

2023-09-08 03:30:34 | 日記
あなたがどんな人生を送ったとしても、神はあなたと共にいます。

人がどんな酷い人生を送ったとしても、見棄てて離れて行ってしまうということはありません。

世情を賑わす忌まわしい罪人にも、神は親しい友のように寄り添っています。

神とはそういうものなのです。

何となれば、神は愛そのものだからです。

愛とは、愛の情(こころ)です。

大切に思う気持ちそのものです。



嫉妬してしまうという病。

2023-09-08 02:50:26 | 日記
人の言うことや本に書いてあることが、はっきりとしなかったり、素直に耳を傾けることが出来なかったりするのは、嫉妬しているからです。

妬み羨みの病が心を蝕んで、心が正常に機能していないのです。

潜在している可能性はカルマの潜勢力と呼ばれています。

カルマが真っ白なら、嫉妬心を起こす可能性はありません。

すでに色に染まってしまっているカルマを漂白することが出来るのは、人を愛し人を助け善を行うことだけです。

それが、過去世に犯してしまった罪の償い方なのです。

そのような贖罪の気持ちを掻き立てる、礼拝、祈願、供養、賛嘆、護念は欠かせません。


謂わば、人間は神仏に真向かうことで正気に立ち返るのです。

正気というのは、神が人間を作った時に、人間に吹き込んだ神の霊気そのものです。

そして、人間は生きて歩いたり話したりするようになり。

そして神は、“これはとても善いものだ、これはとても善いものだ”と言った。

だから、「神の霊気によって生きるとても善いもの」、それが人間です。