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都市部の近隣でも身近で見られる野鳥を中心に、
捏造(餌付け、ヤラセ)のない「本当の世界」の
写真を載せています。

続:“あの写真”の実際と、 某氏と某『鳥の雑誌』の残念ぶりと...

2024年11月09日 | 野鳥・鳥類
前記事から続いて、 某『鳥の雑誌』投稿コーナーの写真に関しての 2回目...
専門家そうな肩書さんのコメントの、 画一的には表せないのがナーバスなところでも、 そこにある“違和感”の部分を。


この 専門家そうな肩書さんのコメントの 写真自体への視点は、 写真(静止画)に見える要素を語句に訳した列挙。
・・・、 写真(静止画)へのコメントだから、 それで順当...と思っていられる??

写真で見せられるもの、であり、 写真に見えているもの、は、
“特定の一点から見えた、 特定の一瞬の、 一部分だけ”
が、 写る仕組みの原理通りに『四角い平面』になった、 写真特有の見え方。

そんな写真だけを見て思い描くことは、 その全体で、 写真を見ている側の自身相応が表れたもの。
これは、 文言に挙がることだけではない、 知らず(解らず)に語りようがなく抜け落ちることも含めての“全体”。

こういうところは、 何の文言さえあれば正しい、とか、 何がある(無い)から正しくない、とか...
極度に単純化した画一的な短文との整合で一律に決まるようなものではないのが、 表すのは難い ナーバスな要素。
なので、 実経験が無い 文字的な知識だけしかないと、 語りようがないのも、省略したのも、 区別できない話にしそう、だが...
実経験がある視点からは、 実態があって語られる自然さも、知ったかぶりの不自然さも、“感じられる”ものだろう。

当たり前すぎることだが・・・
“自然”は、 “人の勝手な嗜好”とは無関係に実在しているもの。
『ヤラセ』で “人の勝手な嗜好”に都合良く 多彩に飾り付けた見映えを自慢したところで 『捏造』。

自然の鳥の“ありのまま”を写すのと、 “撮影セット”の箱庭で演じさせて写す『ヤラセ』とでは、
写すまでの準備プロセスも、 必要な知識と情報量と 時間と 労力と etc...も、
実際に写す際の状況も 技能も 把握している空間のスケールも対象物の数も、
事情が“無関係”ほど違うこと。
そして、 (『ヤラセ』の箱庭なら 殆どを事前に整備しておける)周囲・背景などでの不確定要素への感覚も、 根本的に違う。

これは、 実際の経験が無い 門外漢や『ヤラセ専門さん』は、 知る機会が無い。
一応・・・、
『ヤラセ専門さん』と形容しても、 “証拠写真”レベルまで 自然の鳥の“ありのまま”を写すことが一切無い、というのではない。
でも、 『○○が写っている』 『○○が△△している』さえ判れば満願、の世界観とは違う、 作品趣向の写真があるもの。
それを写せるための事情が“無関係”ほど違うことこそが、 殆ど全てほどが 初心から『ヤラセ』に直行する理由そのもの、だろう。
そんな、 “証拠写真”レベルなら“ありのまま”を写すことがあっても 『ヤラセ専門さん』と表すのは、 形容とは そういうもの。
自身が『知らない』ことは、 それを『知らないということ自体に気付きようがない』のが、 当然すぎる 物事の道理。
それで、 『鳥を写す』級にまで極度に要約し過ぎれば同じ短文を充てられる共通だけで混同して語られるのが類型。

また当たり前すぎることだが...
実世界は、 『ヤラセ』の箱庭とは次元が違いすぎる「広大な空間」に 無数の要素が“人の勝手な嗜好”とは無関係に存在している。
それが、 (写っていないものまで)全てが“人の勝手な嗜好”とは無関係に、 それぞれ別々に動いて変化している。


専門家そうな肩書さんのコメントで 『じゃま』と表されているところも含めて、 写っている全てが その一端。

自然を写すのが自然写真、とはいっても、 評価される基準は “人の勝手な嗜好”での感覚。
事実関係としてなら それが実際だからといって、 ただ そのまま写すだけで 高評価される写真作品になることは、 殆ど無い。
自然の“ありのまま”を写すのでも、 背景や周囲の要素で “人の勝手な嗜好”に合わない難がある『じゃま』ができる時には、
周囲にあるものなら、 構図に入らないように フレミングや トリミングするとか...
前景や背景なら、 撮影位置で 重なりを変えるとか...
主要被写体が動くものなら、 難があるところから離れるのを待つとか...
状況は加工しない 撮影自体の技能的な行動で、 より“人の勝手な嗜好”に良く合う画にしようとするのは 現実的な必然。
こうした画作りは、 『ヤラセ』で 写す状況の方を変えて『四角い平面』を整形する創作とは 類似性も一切全く無い、のだが...
残念さんは、 その現場を実際に直接見てですら、 自身の大前提は何でも 他者まで一緒くたにしてしまって、 混同する。
それで、 『ヤラセ専門さん』は、 写真の評価に、 写す状況の方を変えることでしか成立しない指摘をしてあげてしまう、が...
現実の自然は、 無数の巡り合わせが生す一端の 結果的な『四角い平面』の一部分だけを切り貼りして取り換えたりはできない。
『四角い平面』の都合なら 周囲を広く取り入れた方が良いからといって、 そこにも印象が良い状況があったとは限らない。
あるいは、 難があるところ自体は構図内にあっも、 その状況にある動きで 難が緩和するタイミングがあったりする、が...
その『四角い平面』なら好印象の部分も、 一瞬でもタイミングが前後していたら 致命的な難があったのかもしれない。
まして、 いつ、どこで、どうなるのか、を そもそも予測しようがない一瞬のシーンの写り方は、 選びようがない巡り合わせ次第。

これは、 そこにある情景のままを切り撮る画作りに (広い意味での)類似性がある経験があれば 当然に知っていること、なので...
そこにあっただろう世界の見え方が、 結果的な静止画の表面をなぞるだけの『四角い平面』になるのでは 不可解。

写っているものを表す語句なら挙げられても、 全体の連動性は見えずに “静止画での見え方”を別個に切り分けた羅列になるのも、
感想的な感覚が、 実在した時空とは無関係に 『四角い平面』を切り貼りで加工した合成を語るのも、
その状況として 時間進行がある3次元世界の情景を思い描ける知識も経験も無くての 門外漢レベルの感想文では 必然の類型。

自分の写真以外のことを書くと、 ますます“怪文書”になってしまうのだが・・・
左ページの写真への 専門家そうな肩書さんのコメントでは、 特に顕著だろう。
その機会に無かった情景は、 その機会には写せる可能性から無かったこと。
実際の現実が、 『四角い平面』を切り貼りで合成して語る情景にはならなかったのは、 『もったいない』ことなのか?
そんな 合成世界の創造主さまが『もったいない』ではない写真とは、 いつ写せるのだろう?
『四角い平面』の表面をなぞるだけの文言に挙がる要素だけでも多いが、 それだけではない多数が 同時に都合良く揃った情景・・・
それが揃った場所が、 遠すぎても、 近すぎても、 光が悪い方向でも、 光が悪いタイミングでも...
それぞれの距離感が、 離れすぎていても、 近すぎて悪い重なりになっても...
写るどれが1つでも、 向きが悪くても、 動きの中の形が悪いタイミングになっても、 印象が悪い傷や欠損箇所があっても...
周囲に、 印象が悪い構造物や漂流物があっても...
etc... etc... etc...
見えるアラ探しだけに限らず、 『~~だったら もっと良かった』に そこには存在していないものを持ち出したりも定番で...
そんな、 合成世界の創造主さまの中だけの、 実在していない妄想の情景との違いを語ってあげる「だけ」では、 意味を持たない。
その自身は “上から目線”で否定的な言を発した優劣感に酔って マウントをとったつもりでいられても...
その類を挙げる「だけ」なら、 永久に 何にでも指摘してあげて ご指導してあげている気取りでいられるだけの 不毛な戯言。
それは、 実在の状況で より高評価な結果が望めただろう 技能なり理解なりの指南とは 根本から全く似てもいない、のに...
『より評価が高い写真との違いを指導した』
みたいな馬鹿げた要約の短文に置き換えたトンデモ解釈で混同しているらしい残念さんが、 プロ・アマ・一般を問わず大勢。

そして、 “あの写真”での『じゃま』の件も...
これに触れるなら、 類似する撮影経験があれば、 否定的にも 受容的にも 相反する方向性が複合する多角的な考察がある事象。
でも、 その視点で見るのは、 (上に書いたように、) 時間進行がある3次元世界での事情。
『四角い平面』の表面をなぞる「だけ」の 誰が見てもわかることを わざわざ発する「だけ」で完結、では、 意味を持たない。
・・・ 公募の場でも、 自由課題で、屋外でのスナップとは無縁な誰かの講評で、なら、 そうしかならない事態もありそうだが...
事情が違う、 ジャンルを特定した『専門誌』であり、専門家そうな肩書さんでありで そうしかならないのでは、 残念すぎる話。
これには、 専門性の超々初歩も無い...みたいに 論理的風味に表すより...
幼児の、 何でも知らなすぎるからこそ 小っっっさな世界「だけ」が全てでいられて自信満々の使命感で教えてくれて得意げ、の趣。
それが あたかも 専門的な見識かのように扱われるのでは、 単に 無意味な無駄だけではなく、 ここでも また、 極論なら...
それを書いた自身が無駄な存在というだけとは違う、 その自身が存在していない方が良かったことにもなる繰り返し。


前記事の分とも併せて、 この 専門家そうな肩書さんのコメントが、 (安直で平易な“証拠写真”レベルとは違う趣旨での) 鳥の情景を 自然の“ありのまま”で写すことに 僅かでも経験がある視点で書かれているとして接するには、 違和感があり過ぎる。

ここの過去記事でも 度々書いてきたことだが...
実際とは違う世界が 見えて聞こえてしまっていて 『この世のものではない世界』の設定に暮らしている対象とは 関わり難いもの。
まして、 それが喜ばれる集団活動ともなれば、 なおさら。
もっとも、 営利活動では、 社会的道義性より 損得基準の営業戦略で判断されるのが常で...
残念なプロほど、 世の残念さんには 自身との共通を根拠に信仰されるのが、 大口需要獲得に重宝され 重用されそうな事情。
・・・ あるいは、 主催側のところで既に 自身の残念ぶりとの共通で共鳴しての選択なのか...
は、ともかく...
他のコンテストなどでも、 物事の道理として成立していない 露骨に残念な妄想披露が垂れ流されるのは 恒常的に続いていること。
『専門誌』には、 無責任に撒き散らされる膨大な虚構にまででも 少しでも正していく側の気概があるのが当然そうなもの...
だが、 そうではない営利活動でしかないらしい。
だからこそ・・・
社会的意識のキレイ事では、 その残念な状況を 少しでもマシにする為に、 真っ当な内容で関わる必要があるのだろう、とか...
「世の中と関わるのは、 “知的障害者”と関わらされること」
と割り切って、 触らせても不快でなくいられる範囲の、 核心的なものは除けた内容で関わる、とかもあるだろう、とも説けるが...
選ばれたところで、 “残念さん”の“おままごと”に使わせて 愚行に加担しただけにしかならないのは、 当然でしかない。
その残念の度が過ぎる活動に関わるのは、 道義性でも疑問が大きい。
それが 自分に直接関係しての残念、となると、 なおさら、 無関係な他者は無責任に叫べるキレイ事とは 事情が違うことになる。
それは、 言葉も現実も意味を持たない対象には、 当然、 いちいち「さようなら」を言う意味も無いだけの話でしかない。


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