当時ご楽と言うものがなく戦後のごった返しで苦難から立ち上がる殆どの人々が物もなく大変な時代であった。父の姉の主人である伊賀創八は映画館を開業すぺく日本全国を回った。父の姉のたかは弘前で母親と居酒屋を経営していた。そこへ創八が入ってきた。若く美しく粋な津軽のたかに人目惚れである。創八はしげく通いどうしてもたかを欲しくなりたかの母親にどうしても欲しいと頼んだのである。しかし創八は結婚しており息子も一人いたのである。たかの母親は家名の名誉を重んじて絶対にだめだといい、受け付けませんでした。そうしたら大変な事になりました。創八はその足ですぐ浜松へ帰り彼の妻と離婚してしまったのでした。そしてたかの母親に離婚証をみせてどうしても結婚したいとプロポーズしたのでした。彼は多くの人々から大出世をするといわれました。創八はたかをめとりすぐ浜松へ向かい映画館を日本全国へ創るため大事業を夢の実現のためにこれから多くの日本の政治家ともかかわりを持つ事になります。又当時の売れっ子女優や男優を彼は浜松へよんだのである。彼は酒好きであり弘前からの筋子うにニシンなど毎日が豊かであった。戦後人々は夢を希望を必死に探していた。浜松の洋画を上映する「東洋劇場はジョンウエイの西部劇が毎日のように上映されていた。ゲイリークーパーやジナロロブリジーナなど懐かしき名優が花を咲かせた時代である。私の父は映写技師を手伝いながら映画が好きだった父は楽しんでいたようです。映画館のなかでキップを売る女性に好かれ誰もが社長の奥様の弟でしたので父はスタイルもよく好かれたようでした。たかは当時行きつけの呉服屋から着物をどんどん仕入れ最高の一流品を身にまとっていた。映画館はどこも かしこも満員でお金を入れる所がなくバケツに入れたと父から跡に聞きました。東映,日活,だいえい、松竹、を創八は経営して東京にも広げ各地にも伸ばしたようである。母と父との結婚式の時たかには創八との三人の未だ幼い娘が居たのだった。たかは女中に任せきりで子供の世話も忙しく見るまもなく社交に追われていたのである。結婚式は母の家で行う事となる。つづく。。。。ビーナス教子。。。☆