浜松の駅近くに東映東洋と日活ダイエイ松竹があった。父と母の新居は東洋劇ジヨウの裏にあり映画館と繋がっていた。父はりんご箱を机がわりにしたそうである。母は着物が良く似合い何でも自分で身の回りの物は工夫して作っていた。今も長い白い割烹着の母の姿を思い出す。生前五、六年前にもぞうり、下駄など生涯買いつづけた店に私も一緒にいきました。東洋劇場は西部劇が良くはよりジョンウエイや母の好きなゲーリークーパーはいつも大人気で満席でした。後ろで立って見ていた人も大勢でした。東映では時代劇の真っ盛りで何処も満員でした。当時伊賀創八は映画館の次はテレビ又ビルを建設と時代の先端を切る事業の事しか頭にない人でした。又女性にモテテおめかけさんが何人もいました。この事で父の姉たかは,かんしゃくを起こしもめたようでした。ある時父はどこに行っても一流なイデタチでしたのでやくざに見込まれてしまいなぐられて帰って来ました。父はこの事態はなぐられても、殴り返してはいけない。と判断しました。母も驚いて医者を呼んだり心配したそうです。すぐこれを聞きたかが、創八に言いました。その後母の所へヤクザのおやぶんさんが来られ「伊賀様の弟様とはしらず子分しゆうが行ったことを誠に申し訳ないと誤りにまいりました」。父もいえいえと愛想良く親分もほっとして帰りました。当時の服部じすけ親分でした。。。。つづく。。。ビーナス教子☆