菅総理、辞任の意向。
飯塚幸三氏の実刑が確定した、その直後、というそこに、何かの繋がりの様なモノを…少し考えたりはする。ともかく”何か”の限界、それと言うかなんというか、それは良くも悪くも最初から感じていた何か、かもしれない。「官僚」イメージとしてはそれが相応しい、そう言うその…それは帰結、だったような。
飯塚幸三氏は、「財源は?」その先に或いは返答を持たなかった。その先に有る事故は、”それ”の官僚的な帰結と言うか…そう言う物の様な気もする、それは民の一部を犠牲にして拠出するモノだ。何故、彼はそこに居たか、問題があったにせよ、何故退任に成らなかった?「他に居なかったからだ」その、当然そこに有る返答、その是非と言うか、そこに少し思う。
菅総理が辞任と言う話になって、”次”として名前が何故か有るのが小泉新次郎氏、ではあり。逆に言えば、「他は?」現在、そう言う問題は、重くある。
菅総理は、総理への意欲は有ったのだ。
それを力不足と評するべきだったろうか、そこは疑問だ。
システム全体がもう、立ち行かない感じは有って。
その更新が必要な状況だが、”それ”の方が夢は有った、そんな現実もある。
それは、その不足か歪みを利用し、認められないモノを、認めさせる事が出来た。
”そこ”が認めて?しまえば、それは価値が無かろうと毒であろうと、一般化する。
才能が有る無しは関係ない、認められるか否か?だ。その時、それは神の壁を超えた自由、それを可能にしていた。
”その結果が”平成の不景気であっても、或いは東日本大震災であっても、そこに有ったのは、何かの要求?熱意、理想の具現、そう言う物だったかもしれない。
「最上位のスポンサー、それは”大衆”である。それに選任された私が最上位の意向だ、それが求める物が人々の求める物だ、だからこれで良い」
一般論では、ミャンマーの軍事政権並みの暴論ではある。国民の?声は無視し、いや自身の意向こそがそれである、そんな独裁を前に押そうとするもの。
それはでも、「事実であるなら」テレビ番組のそれとしては、「視聴者が求める番組を」優先するという部分もあり…”それ”によって評価が上がる時?現場のスポンサーにとっても、不人気な番組にスポンサードするよりも遥かに有益だ、と言う現実は有るには、ある。制作現場にしろ、スポンサーを無視した様な番組制作、それは一つの夢?だ。そして”それ”でウケる事がその場の、一つの到達ではあり。
正論と言うべきか、独裁者の屁理屈と言うべきか。”そこ”に記されたそれは、「大賀さん」その意向である。それを護らんとする事は正義だ、そう、何かの極論もまた言う現状。そこに居るそれは、「大賀さん」その戦場での勝者として、それはそこに有る。
それを前に、無能と言うフラグと共に、消えていく物がある。
それまでの、王の何かだ。
そしてその視線に見えるのは、今後はもう何もかも自由に成らない、そんな世界。
新たなる王を賛美するべきか、或いは。
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