やはり、現実優先、ではある。
如何に美しく雄大な光景!であっても、それが絵で有る限りは「現実よりも次点」だ。”それ”が現実に成るのなら?話も別なのかもしれないが、そこへ至る同意が得られないのでは?それは単に個人的な妄言に過ぎない。
美を感じる部分を抽出し、それを結集した「美しい自然」それは何か?と言う話。
自然の歴史や意味、理由を無視する、と言うのは、かなり問題を感じる訳だが。
ともかく「”現実”よりも美しい」とか言い出す時点で、評点は限りなく0にはなる。
「現実とは何だろう?」と言う理解の先に、「アートスケール」での評価は多分ある。
この辺、コンピュータでのプログラム、それには通じてくる。
システムを否定するのではなく、理解し、利用し、目的を達する。「これでは表現できない!」と別のハードを求める、というそれは、最終的には行き詰まる、限度は有るからだ。ともかく”それ”を超える事は出来ない時、そこに有るモノ、それを利用するしかない。
その先に、アート、というか「価値」、そう言うのはある。
”現実”というハードを理解し、利用し、その上で問題なく、目的を達する。
それがアートである。
…とは言える。
とは言え、意識の問題だ。
「貴方は、少なくとも百万人かの都市、その王に成る気があるのか?」
そして、そこでそこに起こる問題を解決する能力を有するのか?ともかくそこに起こる問題の責任、それを持てるのか。
「価値」それは同意の束であり、視点ではそこに居るのは数多の大衆である。その同意を持ってそれは意味を持つがしかし、二次創作者の多くは、”それ”は出来ない、欲しいのは「お金だけ」だ。描くモノは多くコピーでしかなく、或いは「虚構です」と言い切った、無責任な光景でしかない。「漫画だから」そこなら?”駆逐艦が”空輸され空挺する光景だろうと描ける。その具現性や意味を放棄して居れば?それは単に、珍しい光景でしかないが。
それを個性と言うべきか。
単なる無責任な愚考でしかないのでは。
とは言え、無視も出来ない話だ。
「ベーシックインカム」それは、そう言う絵の中から始まってるかもしれない訳で。
それは、行き詰まっている、と言うべきだろうか?
脱出不可能な牢屋の中で、自分が壁をすり抜ける能力に目覚める、そんな夢の様な。
…或いは今、あの飯塚幸三氏は、そんな意識の中に居るのかもしれない?
彼があんな事故を起こした原理は何処に有るのか、それは解らないが。
ともかく意識的に、「官僚」国を動かす何か、それは今も、彼を何かの心理的な指針にしていて、その意向がある程度の影響力を残している、そう言う雰囲気は少し感じる。
彼はもう二人も殺し、”それ”を認める事も無くただ、罪を免れようとしているだけの無様な老人に過ぎないのだ、が。
それでもそこには、官僚と言う道の、一つの到達が有ったのだろうか。
ともかく彼の、”この”道は、その理解は行き詰まり、人を二人も殺した、という結果を持って破綻した、もうここを「良識」とする事は出来ない訳だが。
そうなるのは、いつか。
これが老醜、だろうか。
使用イメージ
//seiga.nicovideo.jp/seiga/im8112552
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