それは問題なのか。
「あんまり綺麗さを目指すのもどうなの?」
それで始まるヒステリックな痴話喧嘩、それは何が原因に成るのか。
ともかく、下水道はそんなに探索して面白い場所では無い。
この辺類型が、一夫一婦絶対と、現実との衝突、ではある。
綺麗=ごみの無さ、”不用”の排除、である。古くて汚くてもう使えない物は廃棄しましょう、その声が大きくなる時、人の範囲を超えて、やがては「ゴミ」として、ある程度の人々を排除する様に成る。それで大失敗してるのが平成、という時代ではあり、実感と共にしかし、平成の倫理観?それは、その被害者で有っても無視は出来ない。
ヒキニートなんて最低です。
結論で言えば「用無し」に成ってる人に対しての、更なる否定、である。効率化、改善、その果てに、結局は「いらないモノ」が発生し、いらない人が出てくる。「殺す訳じゃない」時、そこにはヒキニートと言う層が出来てしまう訳で。
生活保護を受ける人々なんて、社会に必要なんですか?
この流れの一番悲惨な話が、あの、京都アニメーション放火事件ではある。
「因果」と言う、そう言う感覚の把握、だ。
宇宙的と言うべきか、平等公平、その倫理からすれば?社会は排除を創ってはいけない。全ての人々を問題なく養う、そう言うシステムに対して人々が感謝を持ち、”そこ”に価値が発生し、その場の経済その他は発生していく。「綺麗さ」は、その先に有るモノ、だ。理解で言えば、「余興」に近い話、かもしれない。
ともかくその時、「綺麗さ」には、どうしても限度が出る。
と言う理解は、今も尚、どうも脅威を抑止し切れていない。
自分の創った「ダークネスダンジョン」が、途中で切り上げに成った、事への不満、みたいな物、だ。
「これはマンガだ」というフラグは、ちょっと弱かった、かもしれない。
結果、そのまま行くと、その先に居る「問題ない存在」を本当に殺しかねない、それが自分であってもだ、創作は、そう言う事をする可能性がある。
それでも、「なんで?」その不満はそこにはある。
”排除する”なら?それに比する供与、そう言うのは必要だ。
少なくとも平成までの理解に、その「増やす」それは無い。
昭和の継続と言うか、ロストテクノロジーというか、「排除だけ」だ。
0と言うのは究極の美ではある、何の問題も無い、意識はそれを目指す、それは物理でさえ。
その時、世界は美しく滅んでいく事には成る。
「ドラゴンクエスト」は大ヒットした、が。
それは今、それほどの輝きは持てずに居る。
一夫一婦だけで、世界は出来ていない、それは物理として現実。
”それ”は、それを超えようとする、そして不可能でも無い。
問題ない夫婦以外を全て排除すれば、具現化する可能性は。
単に、その先が無いだけだ。
※OP画は、ちょっと暫く休止しますん