北朝鮮で飛翔体が打ち上ったり、汚染水の解放が今日からだったり、状況はごたごたはしているが。
それでも「朝鮮は死にました」もう復活は無いでしょう、それは、動かないのかもしれない。
想定する公告代理店の固執は、「朝鮮の復活」そこにある訳だが。しかしそれが結局、「無理」と言う物理的な壁の前で歪んでしまい、後継者を追い詰め破綻させてしまう、という病理になって状況が悪くなった、とは現状の想定。一応?”その”固執が消えれば、後継者への無理の要求も緩和される…その時、不意に立ち止まる所、それは有るのかもしれない。
”結果”は出ていないのだ。
つまり、必要な物を持ってない、という事だ。
”それ”を責める人が居なくなる時、自分の現実は不意にそこに見える、そう言うのはある。
エヴァンゲリオンにしたって、iphoneにしたって、何かの犠牲、命のだ、それを賭して何とか残った、そう言う部分は実は、ある。”それ”を後継者に求めるべきか?だ・・・当然、他の誰でもダメだが。昭和にしろ、平成は特に実感はあるだろう、「ヒット」と言うそれはほぼ、出ない。作った流行、ヒットのむなしさは、自身の喪失とそのみじめさを加速させるだけで、結果的には社会に多大なる損害を与えただけで終わってしまった。ヒット作、というのも実際は、命を賭した結果を否定する事が出来ないだけ、かもしれない。他より優先度が高い、だけの話で、結果的には他から利益を奪っているだけに過ぎない、そう言うのは。
感覚は少し飛んで、「ストリードの連携を徹底してくれ」そこに至ってはしまう。
誰でも少し考えれば作れる「共通の企画書」によって、企画は発生する。”その”企画書を外部から得る事で、それは「神の認証」それを得られる。”それ”を神の期待通りに創る事で、神の褒章、最終的には「必要な物」それが得られる。この時必要なのは「才能」ではない、世間の「要求」を拾う感覚、そしてそれを構築する技術である・・・そのどれも、或いは誰でも学べば出来る様になる、そういう物だ。
”それ”がそこにある時、それを使わない、というのは、あまり理性的とは言いがたい、のでは。
”神”の意向によってか、それを構築した奴は今も、同じくその意向の前で、そんなごたごたを眺めては居る。
「ストリードさえ出したのなら、誰でも良い」それは、その時ちょっと思い切りを必要とする決断かも知れない。
公告代理店の「放送枠」の獲得に関して、「開放された”枠”の獲得は、希望者によるオークションです」そんなシンプルを受け入れるには、今までの歴史は疑問が多すぎた、という事だろうか。
愚者と何かは紙一重とは、言う。