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あげちうのブロマガ

机上の駒は世界の上に有るのか否か

ともかく実感論として、「人力発電所」それは、視野範囲には無い。

この結果、最下層、という領域への救いが体感論でも存在してない、訳で。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力

「えー、先生ここで何してるの?」とか、分岐はある。

 

その時応答として「大丈夫、今まで大丈夫だったし」的な?それしかない…ってのが面倒な部分ではある。大衆は神である、神は万能かつ公平、そして正義である。それはあなたに問題がない限りは。「で、なんで自分らは”ここ”に居るんです?」それはちょっと解らない(-_-;)。

ダメじゃねーか。

即時的な応答を求める時、それしか返答し得ない、のだが。

「神」に何を求めるか?ではある、信仰すれば救ってくれる、的なそれは実際には”神”とは言えないが、殆どの”人”が求めるのはそう言う存在でしかなく、そうでないなら信仰は意味がない。「大衆」と言う神もそれだ、今まで、そして今もそうだが信仰=利益、ではなかった。ただ理解として「実体を持つ神」としてそれはそこに居るし、そしてその意向を無視して世界は改善し得ない。自分も求めていたのは「売れる作品の作り方とは?」ではあって、その先にある「理解」でしかない。当たり前な結論でしかない、それは、お客が好んだからこそ客は、そこにお金を払ったのだ。その時、是非は自分の元には無い、あくまでも客側である。もちろんか「ウケた」時、自分の、作者の「良い」も、その客らと共にある訳だが。そこに神は居る。大きいか小さいか?はその都度だがそれでも、客の評価と自身の「良い」が一致する時、創作の喜びはあるだろう。

「迷い」が無くなった、というのは、果たして良い事かではあるのだが。兎も角創作において、「”大衆が”好む様に」考える先には、常に答えは見えては居る。現状もその指針は間違った感じはしていない、例え売れない?にしろ、それは残る何かとしてそこに残る訳で。

もちろんこの理解も、逐次否定や疑問には晒されるのだがそれでも、その都度知見を得ていく、のは利益と言って良い、部分はある。

ただその結果として今、「カウンタ数値は制御されている」そんな理解はある、自身の中で知覚する神と結果が一致していない。それはでも、かつてのオウム真理教の教祖もまた、選挙に負けた後で言っていた事ではある訳だが(-_-;)。

そもそも「何故戦争は起きるんです?」に、「二分の一の答えは誰にも解らないので」そこに神は居ないから、とか言う説明は通るか否か?はある。大衆は神である時、二分の一の博打を前にすると答えは止まる現実はある、それはぶつかった後の、物理的な結果でしか解らない、のだ。そしてどっちにしろそこには「正しい」それは、残る事になる。世の中に必要だったから、或いは貴方の努力が不足してたから。”それ”を戦争と定義するなら、世界から戦争が消える事は無い、ただ。二分の一の博打でしかないのなら、それは別に戦場で人を殺さずとも、目の前にあるサイコロにも現れる、”筈”ではある。「表現力」現実と変わらない環境を形成し、そこで「戦争」を行う事で、戦争は始まる前に答えが出ている、事にはなる。

”それ”に従う時、物理的な戦争はせずに、しかし独裁者の独善、それに支配される事も、無くなる。

「どうしても独裁者が現れる」と言う理解と、戦争はその先にこそある、故に独裁者を創らない為には「神」を、自身の上位を持たねば成らない、は、ちょっと誤解されやすい言い方にはなろうか。二分の一の博打に答えは無い、もその上限の一つではある、”誰か”に傅くのではなく、限度を設定する、というか。ただその結果、それ以上には踏み込めなくなる…「ゲームが下手に成った気がする」も、そんな「大人になった」結果の一つかもしれない、その先には自身の設定した上限がある、その先にはもう、踏み込めないのだ。

良くも悪くも、そう言う状態の存在の意向を重視する時、そこに逆には「神に反する意識」それが発生しているのかも知れないのだが。

今はふいに、何かの壁の前には居る。

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